開催日時 平成15年10月13日(祝) 14:00~16:00
会場 文京シビックホール
講演者 明石元紹 明石元二郎台湾総督 令孫
明石先生略歴 明石元紹(あかし もとつぐ) 明石元二郎令孫、日本李登輝友の会理事
昭和9年(1934年)、明石元二郎(1864~1919)の長男で貴族院議員だった明石元長 (1906~1949)の長男として東京に生まれる。
学習院高等科を経て、同31年(1956 年)、慶應義塾大学経済学部卒業。プリンス自動車工業に入社。プリンス自動車工業 が日産自動車と合併して日産プリンスとなり、平成元年(1989年)、同社東京販売取締役。同6年(1994年)、日産陸送常任監査役。
学習院在学中、今上陛下と同級、馬術部などで活動を共にする。昭和45年(1970年)から約20年間、学習院大学馬術部監督。平成14年12月、日本李登輝友の会の発足とともに理事に就任。現在は風景画家として活躍。これまで個展を8回開催。
人柄を彷彿とさせる逸話とユーモアに魅了された2時間
最悪の天候にもかかわらず会場あふれんばかりの参加者
10月13日、明石元二郎・第7代台湾総督の令孫で、本会理事の明石元紹(あかしもとつぐ)氏を講師に、第2回台湾セミナーが東京文京区の文京シビックセンター・スカイホールにおいて開催されました。
当日は、セミナー開始の直前から台風のような大雨と大風となり、参加者の出足に影響が出るのではないかと心配されましたが、なんと会場は立錐の余地もないほどの満員となり、会場定員の1・5倍の約150人の方にご参加いただきました。
稀に見る最悪の天候の中を来ていただいたということで、講師控室のやや立派な椅子や受付関係の椅子もすべて会場に入れ、スタッフは椅子なしで対応したのですが、それでも立見の方が出てしまいました。また、資料も多めに印刷していたのですが、急遽、コピーで間に合わせるなどご迷惑をおかけした方も出てしまい、この場をお借りしてお詫び申し上げます。
当日はまた、たまたま台湾から来日されていた、美しい日本語を話そうと台湾で日本語講座を開いている「友愛グループ」の陳絢暉氏や、台湾からの引揚者が中心となって組織する台湾協会の梁井新一理事長などが来賓として出席、定刻の午後2時からセミナーは始まりました。
第1回に引き続き、司会は本会理事で作家の謝雅梅さん。開会の挨拶は、9月6日の台湾正名運動へ公式訪台団を組んだ際に団長をつとめた小田村四郎副会長。陳絢暉氏や梁井台湾協会理事長などのご出席にも触れていただきました。
明石元紹氏のお話は、満座の会場から力を得たかのように、予定の1時間30分を30分も越える熱のこもったものとなりました。たくまざるユーモアあふれるお話しぶりや、山県有朋と話しているとき、話に熱中し過ぎて座ったまま小用していた逸話など、明石元二郎の人柄を彷彿させる裏話に近い数々のエピソードに魅了されるまま、あっという間の2時間だったというご感想を何件もいただいております。
お話は、①日露戦争中の謀略工作、②朝鮮半島合併時の活躍、③台湾総督時代、とその生涯を3つに分けて、それぞれ人間模様を織り交ぜてお話しいただきました。
また、明石総督の墓所は、現在、台北県三芝郷に移っていますが、台北市林森北路沿いの三板橋共同墓地にあった頃から移転するまでの経緯にもやや詳しく触れ、やはりご遺族でなければ聞けない貴重な内容をお話しいただきました。
講演終了は4時15分。その後、質疑応答。閉会の挨拶は黄文雄常務理事。台湾総督の武官と文官の治績の違いを簡潔に紹介され、印象的な閉会の辞でした。
尚、慶應大学時代は馬術部で活躍された明石氏ですが、その1年後輩の方がたまたま見えられていて、ご講演終了後、奇しくも約50年ぶりの対面となりました。
また、参加した会員の方からは早速、メールなどで「歴史小説等に登場することも多い有名人ながら教科書等では触れられることのまずない明石元二郎氏について、本当はどんな人物だったのか、どんな考えを持った人だったのか、そういったことが生きた言葉で語られるのに触れることが出来、実り多い時間となりました。ありがとうございました」(東京・会員)とか「明石総督の人柄がにじみでるようなお話を聞かせていただき、本当にうれしゅうございました」(埼玉・会員)というご感想とともに講演録が届くなど、反響の大きい第2回台湾セミナーでした。
明石元二郎台湾総督治績年賦
元治元年(1864)
8・1 黒田藩士の子として福岡県に生まれる。3歳の時、父・助九郎切腹。その後、母親に育てられる。
明治14年(1881)
陸軍幼年学校。その後、士官学校、陸大と学び、卒業後、参謀本部へ勤務。
明治27年(1894)
ドイツ留学。この年に日清戦争勃発。半年で帰国して戦争終了後、台湾へ派遣。
明治31年(1898)
川上操六大将の視察団に加わり南洋視察。西欧による植民地支配を実見。この年はま
た支那大陸も視察、ロシアの満州進出の現状も実見。
明治34年(1901)
フランス駐在武官(1年7ヶ月)。
明治35年(1902)
ロシア公使館附武官。日露戦争が勃発してロシアを追放。参謀本部付としてロシア皇帝の専制に反対する勢力を支援する工作活動に従事。
明治40年(1907)
第14憲兵隊長(後の韓国駐箚軍司令官)として赴任。寺内正毅・第3代韓国統監(後の朝鮮総督)の信任を受け、日韓併合条約の締結に際して治安確保を担当。
大正7年(1918)
6・6 明石陸軍中将、台湾総督に任官。
7・2 明石総督、陸軍大将に任じられる。
7・22 明石総督、総督府に着任する。
7・23 総督府高等官に「新領土を内地同様の状態にすることを目指せ」と訓示。
8・3 明石総督、地方官会議で「島民を感化し、国民たるに恥じない精神と能力を付与することが自分の統治目的」「産業と貿易を振興し、台湾を繁栄させなくてはならない」「内地人と本島人の相互協和をはかり、母国と人心を同じくさせることが統治の主要目的」と表明。
12・25 明石総督、総督官邸会議で、台湾人の待遇に触れ、「島民を等しく教育できるようにするべき」との同化主義政策の実施を訓示。
大正8年(1919)
1・ 総督府の南支・南洋政策の一環として、雲南省都督の要請により、土木技師、鉱業技師を派遣。
2・1 明石総督、1月4日の台湾教育令公布に関し、「世界における人文の発達に島民を順応させる」と論告。
3・15 日支合弁の華南銀行(本店・台北)が開業。
4・ 台湾教育令を公布。これに伴い公学校官制を改正、師範学校官制、高等普通学校官制、実業学校官制、商業高等学校官制、医学専門学校官制等を公布。
5・31 田畑等の地租負担の公平を目的に地租制度を改正。
5・ 児玉源太郎総督時代からの旧慣調査会の事務終了を受け、蕃族調査会を設置し、原住民に関する法制を審議するため、その慣習の調査に乗り出す。
6・27 総督府官制改正。民政部の内務、財務、逓信、殖産、土木、警務局と法務部を設置。
7・4 明石総督、インフルエンザ肺炎で重態。
7・ 台北市民が台湾神社で明石総督の平癒祈願。
7・31 台湾電力株式会社設立。
8・8 台湾総督府法院条例を改正し、二審制から三審制に移行する。
8・19 台湾総督府官制中改正。「台湾総督は陸軍中将又は中将を以ってこれに充つ」との条件を「総督は親任す」と改め、文官総督就任の道を開く。また民政長官を総務長官と改称。
8・20 総督府官制改正により、明石総督は台湾軍司令官に就任。
9・1 明石総督、7月初旬以来の肺炎完治。総督官邸で床払いの祝杯。
10・25 明石総督、正三位に叙せられ、男爵を授けられる。
10・26 明石総督、滞在中の福岡市内で逝去。享年56歳。
11・3 明石総督の葬場祭が台北の新公園で、埋棺の儀が三板橋共同墓地で営まれる。この日、沿道での見送り者は10万人。全島各地で遥拝式。
平成11年(1999)
台北市の林森北路沿いの三板橋共同墓地にあった墓所を台北県三芝郷に移転。旧墓所の鳥居は228記念公園に移築し保存。