20040425

在りし日の八田晃夫氏(左)

第3回台湾セミナーは、もともと平成16(2004)年4月25日、靖国会館において八田與一技師の長男、八田晃夫(はった・てるお)氏をお招きして開催の予定でしたが、ご本人の緊急入院という突然の事態になり、急遽、「八田與一記念音楽会」に変更して行いました。

なお、八田晃夫さんはその後の病状思わしくなく、翌々年の5月に台南で行われた八田與一墓前祭に参列した直後の5月20日に亡くなられています。ご冥福をお祈りいたします。


台湾から合唱団を迎えての「八田與一記念音楽会」に210名が参加
台湾の合唱団が「台湾農業の父」八田與一命に慰霊の奉唱

■靖国神社で初めて斎行の八田與一命慰霊祭
5月8日のご命日を目前にした本日、台湾から日台親善文化訪問団(団長:邱垂亮・総統府国策顧問)50名を迎え、また、八田與一氏令孫の八田修一氏も参加され、靖国神社において同御社の御祭神である八田與一命を偲び、合唱団を含め約210名が参列して慰霊祭と記念音楽会を開催しました。

まず、12時から靖国神社の拝殿において「八田與一命慰霊祭」を斎行しましたが、靖国神社によりますと、八田與一命の慰霊祭は初めてだそうです。

冒頭、靖国神社の湯澤貞宮司にご挨拶いただきました。湯澤宮司は靖国神社に27,800余の台湾出身戦没者がご祭神として祀られていることを紹介、その中に、戦時中、神奈川の高座海軍工廠で働いていて空襲などで戦没した「台湾少年工」60余名や李登輝前台湾総統の実兄である李登欽命(日本名、岩里武則)も祀られていることを紹介されました。

この後、国歌を奉奏、靖国神社による神道式の祭祀が営まれました。次に、小田村四郎・日本李登輝友の会副会長により祭文が奏上されました。祭文は最後に掲載しておりますが、文語体でたいへん格調高く八田與一命のご事績を顕彰する内容となっています。

次に、日台親善文化訪問団による八田與一命に捧げる合唱奉納が行われましたが、曲は台湾の著名な作曲家である鄧雨賢が作曲して昭和9年に発表された「雨夜花」。当時、この歌は大流行して一世を風靡し、今では台湾ではもちろん日本人でもご存じの方が少なくありません。当時、八田與一命も歌われたのではないかということで選ばれました。

拝殿における慰霊祭が終わり、参列者全員で本殿へ向い、小田村副会長、八田修一氏、邱垂亮団長、盧孝治・民主太平洋聯盟促進会総幹事、石戸谷慎吉・英霊奉賛日台交流会会長が参列者を代表して玉串を奉奠、参列者もそれに合わせて拝礼いたしました。

■八田與一記念音楽会では日本語の歌も披露
慰霊祭が終わって少し休憩し、午後1時15分から3時すぎまで靖国会館において八田與一記念音楽会が行われました。司会は薛格芳さん(台湾研究フォーラム事務局次長)、台湾語通訳は林建良氏(日本李登輝友の会常務理事、世界台湾同郷会副会長)がつとめました。

小田村副会長の開会挨拶に引き続き、邱垂亮団長がご挨拶。淡江大学教授でもある邱団長は冒頭、6歳から24歳まで八田與一が造営した台南の烏山頭ダム近くに住んでいて、毎日のようにダムへ遊びにいっていたが、戒厳令下の当時は誰が造ったか知らされなかったとい体験談を披露、「これが李登輝さんが言った『台湾に生まれた悲哀』だ」と述べ、また、2年前、オーストラリアから帰国してから李登輝前台湾総統と八田與一について懇談したことも紹介、「ようやく台湾人が主人公の台湾となったのだから、われわれは子々孫々、永遠に八田與一先生の偉大さを伝えていくようにしたい」と締めくくられました。

次に、本来なら八田與一氏令息の八田晃夫氏が参列されるところ、体調を崩されたため急遽、令孫の八田修一氏が八田晃夫氏からのメッセージを持参されて読み上げられました。

「私は本年83歳になりましたが、台北で生まれました」と始まるメッセージはご尊父の八田與一氏の業績を紹介するものでしたが、最後は「18年間育った台湾が私の故郷です」と締めくくられ、参加者の胸を打ちました。

その後、台湾研究フォーラム会長で日本李登輝友の会事務局次長の永山英樹氏が「八田與一と靖国神社」と題して講話、八田與一氏の事績の詳細と靖国神社の沿革を紹介いたしました。

さて、いよいよ台湾合唱団の登場です。今回来日されたのは、男女24名の「桃園県荷声合唱団」と男女21人からなる「龍潭望春風合唱団」の2つの合唱団。日本語による「赤とんぼ」「早春賦」「四季の歌」「花」をはじめ、台湾歌曲では「上美的花」「月琴」「不情了」「油甲桂」など17曲を歌い、最後に合唱団全員と参加者により「雨夜花」を合唱しましたが、アンコールの拍手鳴り止まず、「愛の真諦」をアンコール曲として披露されました。

これで閉会の予定でしたが、日台親善文化訪問団が台湾の総統府から主催者側へプレゼントを持参されていて、湯澤靖国神社宮司や小田村日本李登輝友の会副会長などへ贈呈されました。

閉会の挨拶は、石戸谷慎吉・英霊奉賛日台交流会会長が行い、滞りなく終了しました。 尚、日本李登輝友の会では音楽を通じた日台交流の第2弾として、8月に台湾からの交響楽団と合唱団を招いて「台湾音楽祭」を企画しています。会場は文京シビックホールの大ホールを予定しています。5月30日の総会終了後に詳細をお知らせいたしますが、その節はまたよろしくお願いします。


祭 文

八田與一命は我が国の統治から離れて六十年に垂んとする台湾の地において、今尚住民等の敬愛を受け給ふ偉人にして日台心の絆の象徴なり。

顧みれば八田與一命は明治十九年二月二十一日、父八田四郎兵衛、母サトの五男として石川県河北郡今町村に生を享け、第四高等学校を経て同四十三年、東京帝国大学工科大学土木科を卒業し、台湾総督府土木部に奉職され、大正三年、土木技師に昇任、台湾島内の近代建設上緊要なりし衛生工事、発電工事、灌漑工事の諸事業に従事し、桃園大[土川]の灌漑工事の設計及び監督を行ひて北部の食糧増産の基礎を築き、また後年、全島の近代産業建設の基盤となりし日月潭水力発電所建設の計画を策定する等数々の不朽の実績を残されたるも、取分け大偉業として歴史に御名を刻まれしは嘉南平野における嘉南大?の建設工事の発案及び指導監督なり。

この大事業に当り、八田與一命は不眠不休の研究調査を重ね、進んで世界最先端の技術を採用駆使し、給水量一億五千万頓に及ぶ烏山頭ダムを造営して用水を蓄へ、一万粁の給水路、六千粁の排水路を縦横に張り巡らせ、併せて三年輪作給水法を導入し、嘗て洪水、旱魃、塩害に苛まれ、住民の飲料水すら欠乏せしこの不毛の大平原を遂に島内随一の穀倉地帯へと変貌せしめられたり。

この工事の完遂成功は命の卓越せる見識及び技術力は素より、台湾人同僚と実の家族の如親しく交はり、以てその心を収攬されし高潔なる御人格に拠るものと言ふべし。そもそも工事の目的は台湾人の民生向上にこそあり、その御施策は只に土木建設のみならず、農民の近代農業技術の指導に迄及び、その結果、農民の生活文化全体の著しく向上したることは万人のひとしく認める所にして、これ八田與一命の台湾住民より神の如く敬愛されし所以なり。住民は報謝の念已み難く烏山頭ダムの畔にその銅像を建立し、御偉業を顕彰せしこと世人のよく知る所なり。

八田與一命はその後なほ台湾内外の土木建設の指導に精力を傾注し、大東亜戦争の勃発に際会するや、比島開発のため第十四軍司令部所属の陸軍軍属として応召し、大洋丸にて勇躍任地に向かひしも、昭和十七年五月八日、東支那海上を航行中敵の魚雷攻撃を受け、ここに壮烈なる戦死を遂げられ給ひぬ。

この悲報を受けし嘉南の農民は銅像の傍らに命の墓を建て、爾来、毎年の御命日にはこの地において慰霊祭を執り行ひ今日に至る。

台湾においてかくの如き大貢献を果たされし八田與一命は我が日本の誇りなり。ここに八田與一命を慕ひ奉る日台両国民相集ひ、神霊のこの靖国の御社に安らかに鎮まりまさむことを祈り奉り、且つ運命共同体たる両国の共栄に御加護給はらむ事を念じ奉る。

  平成十六年四月二十五日

  八田與一命慰霊祭参列者一同