蔡焜燦(さい・こんさん)先生が代表をつとめられる「台湾歌壇」の第16集が上梓され、お送りいただいた。第15集が昨年7月に出たばかりなのに、もう第16集かと封を切ると、表紙の写真は「阿里山のご来光」。新年号にふさわしい、清々しい朝の光に満ちあふれた写真だ。撮影者の名前を見ると、なんと片倉佳史(かたくら・よしふみ)氏だった。
蔡代表が「巻頭の言」を書かれている。「今、私達に出来る事は、次の世代の台湾の若者にこの友邦日本の文化である『和歌』を指導し、且つ台日友好を益々堅固にして行く指導をすることです。/壬辰(にづのへたつ)年も皆様の良きお年でありますやうにお祈りいたします。」
収められている和歌は72人、864首。12月歌会の案内で、事務局長をつとめられる黄教子さんは「台湾歌壇の存在は日本でも次第に知られるようになり、日本から会員になりたいという方々も増えています」と書かれていたように、日本からの投稿も少なくない。72人中8人が日本人だ。
蔡代表が書かれているように、この第16集には「天下分け目の戦と言はれた一月中旬の選挙を控えての各同人の憂国の情が迸(ほとばし)る作品」が少なくない。
台湾に馬鹿たれ多く今尚もあの馬支持か如何にとやせん (黄華[さんずいに邑])
台湾に草の根運動湧き起こる兆し頼もし小豚の貯金箱 (黄教子)
九二共識一中二中は難しくわれらにあるはイモ共識のみ (黄培根)
此の度の選挙大接戦待望の台湾維新この目で見るを (黄培根)
独裁の外道の国に傾きし馬を葬るは今ぞ同胞 (蔡焜燦)
女形がにマスコミの前でよよと泣く宰相の演技役者顔負け (陳皆竹)
統一とふ前提は言はず両岸の講和は間無しと大言壮語 (鄭[土良]耀)
空高く小英見おろす羊雲行く手妨ぐる路石を除く (潘建祥)
支那馬にへつらふ農会を筆頭に恥外聞無きKMTの面面 (劉玉嬌)
この一戦天下分け目のいくさなり「みどり」に投ぜよ子や孫のため (林肇基)
これらの歌を拝見していてふと思い出した。選挙最終日、本会の「総統選挙・立法委員選挙視察ツアー」(梅原克彦団長)の一行は新北市板橋で開かれた蔡英文候補の演説会場にいた。李登輝元総統が登壇された夜だ。
なんと私どもが掲げていた「日の丸」の小旗を見て、会場に来ていた人々がすごく喜んだ。何度となくカメラを向けられ、何度となく日本語で「ありがとう」と言われた。これほど日本の国旗「日の丸」が喜ばれる国は台湾以外にはないのではないかと思われるほどだった。これらの和歌が会場にいた人々と重なる。まさに「台湾の心」と言っていいだろう。
もちろん、掲載された和歌の多くは日常生活を詠み感情の機微を詠む。台湾ならではの風景を詠みこんだ歌も少なくない。昨年の10月2日に催された「NHKのど自慢」を詠ったものもある。これもまた「台湾の心」と言っていいだろう。
桐の花さき満ち渡り久しくもやうやく梅雨の来たり潤す (歐陽開代)
仲秋に子らは帰らず月を見ず花火も見ずに独りそば食ぶる (顔雲鴻)
音もなく性懲りもなく降る雨よ明日の歌会晴れくれよかし (胡月嬌)
もみぢ狩り根方に落ちし葉を拾ひ枝には触れず目もて娯しむ (呉順江)
ふと浮ぶ歌に跳ね起きあれこれと頭を捻る夜の静寂を (江槐邨)
黄ばみたる家計簿見れば大学の子らへの送金大半を占む (高淑慎)
何かしらせねばならぬと思ひゐる中に一日早くも暮れゆく (高寶雪)
「のど自慢」の演出場に早ばやと駆けつけし我息の切れ切れ (黄昆堅)
名産のバナナ一斤は餃子一個にて果物王国面目地に堕つ (黄培根)
林内を過ぎて車窓に現るる帝名づけし新高の山 (蔡永興)
挙げれば切がないのでここで留めたい。それにしても、和歌だからなのだろうか、日本人とほとんど同じと言ってもよい感性に改めて驚く。
「台湾」という名称が未だタブーだった1967(昭和42)年、孤蓬万里こと呉建堂氏が同好の士11人と「台湾歌壇」の前身の「台北歌壇」を始めた。そのころ、呉建堂氏は下記のように詠まれた。
日本語のすでに滅びし国に住み短歌(うた)詠み継げる人や幾人
しかし、今や毎月第4日曜日に開いている定例歌会には50名前後の同人が集うという。会員は100名を超えるそうだ。日本人としてその弥栄(いやさか)を祈らずにはいられない。
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