20090327今年2月、台湾側の対日窓口機関である亜東関係協会会長に就任した彭栄次氏が3月27日、台北市内のホテルで日本の大学校友会に出席し、「日台関係と私」と題した講演を行った。彭会長は李登輝元総統との親交が厚く、日本の政財界に知己が多いことでも知られる。講演の要旨は下記のとおり。

私は苗栗の生まれだが、小学校からは新竹で過ごした。学校は(公学校ではなく)小学校で、生徒は日本人と客家人が半々で閩南人が少しだった。戦後、国民党によって日本語は禁止され、中国語が国語とされたが、新竹中学にいた客家の生徒たちと閩南人の共通語は日本語なので、時の校長は日本語での教育を断行した。その後かなり長い間、日本語での教育を受けることができた。

台湾大学入学後、なんと素晴らしいことに、明治期からの日本語の書籍がすべて開放されていてむさぶるように読んだ。これが私の原点になっている。今日も会場にいらしている羅福全氏(元駐日代表)は台大の同級生。

卒業後、証券会社に勤めた。ちょうど台湾の証券市場を整備する準備が始められたころで、当初はニューヨーク市場をモデルにするため、私も米国に滞在して研究したが、台湾との環境があまりにも大きく頓挫。むしろ日本の東証が台湾の状況に合うということで、それをモデルに台湾の証券市場を整備していった。

今年2月、亜東関係協会の会長に就任したが、今まで公職に就いたことがないということもあり、最初に要請を受けてから受諾するまでは、3か月ほど悩んだ。背中を押したのは、長年培ってきた日本の人脈を個人ではなく台湾という公のために活用しようという思いから。私個人の財産を大いに活用してもらえればそれでよい。

映画『海角七号』が昨年大ヒットしたが、このことは台湾の日本語世代が次第に少なくなっていくにつれ、日台関係は疎遠になるだろうという観測を打ち破るものだ。日本が台湾に残した文化遺産は数多い。李登輝元総統もよく言及するが、たとえば武士道の精神。桜の花が散るような潔さは、センチメンタリズムすなわち哀愁を呼び起させる。また、台湾の巷には日本の歌謡曲がそこら中でかかっている。もう既に台湾のサブカルチャーとなっている。両国の絆の強さはソフトパワーになりうる。

台湾の外交史について。
1972年、日台は断交。一方的な断交に憤慨した青嵐会との交流を深めてきた。台湾政府はそれまで、「以徳報恩」を利用して外交を行ってきたが、それをやめて実質外交へと切り替えた時期。

80年代、台湾のみならず、国際社会からも民主と人権を求める声が高まってきていた。当時の蒋経国総統が推進していたのは「対応外交」つまり、事が起こったら対応するという姿勢だったが、李登輝総統の時代になると、「積極外交」に転換した。これは、何か案件が発生していなくとも、常に準備を怠らず積極的に外交を仕掛けていく姿勢だった。
外交には必ず本音と建前がある。李登輝時代はすなわち根回し外交、平時でも常に根回しを怠らなかった。1995年に李登輝総統と懇意になり、それ以来、水面下の役割をしてきた。

1995年、李登輝総統は母校である米国コーネル大学の招きで訪米して講演。米国のビザ発給と李登輝訪米に対して中国の江沢民主席は激怒し、年末の台湾の総統選挙の際には台湾沖へミサイルを発射した。この当時の中国外交はまさにゼロサム外交(どちらかが勝つか負けるか)。

2000年、民進党が総統選挙に勝利して政権交代。私は、「積極外交」の継続が肝要だと考え、進言したものの民進党は「積極外交」をとらなかった。水面下交渉を嫌ったため、何かあるたびに米国の不信を買った。このため台米関係が冷却化したのは残念だが、これは事実。

2008年、再び国民党に政権交代したが問題は日台双方にある。民進党政権の時代、民進党は日本に対して友好党だった。しかし、この民進党の時代が未来永劫続くかのように日本側は思い込んでしまい、国民党政権への交代に対して何の準備もしていなかった。対して、国民党の政権内部はすでに世代交代が進んで若い世代が多く、日本との関連が薄い。これが喫緊の課題。

台湾の最高の安全保障は民主だと思っている。つまり選挙で指導者を選ぶ体制こそ、台湾を守る最大の安全保障だと。逆に、日台の絆を傷つけるような外交や政策は台湾の有権者つまり票を失うということを、現政権も分かり始めている。

台湾は清朝時代と外省人が持ち込んだ中国の文化、日本時代の日本文化、戦後持ち込まれた米国の文化が混ざり、新たな台湾の文化になりつつある。現在、世界は米国の一国主義が崩壊し変化に向っている。この時期、台湾も変化しなくてはならない。

2008年の総統選挙では、族群対立が焦点にならなかった。これはむしろ、台湾の族群融和がより進んでいる証拠ではないだろうか。

2001年、李登輝元総統は、総統退任後初めて日本を訪れることを希望した。しかし、当時の交流協会台北事務所長は言下に「無理ですよ」の返事。河野洋一外相、槇田アジア局長の妨害もあり、20年以上、日台関係のために続けてきた努力は無駄だったのかと暗澹たる思いだった。

幸い、森総理のバックアップもありビザが発給されたが、その後も日本政府は「訪問するのは(治療のために訪問する病院がある)倉敷のみ」とか、「大阪ではホテルから出ないように」などと言ってきた。日本側がそういう姿勢であれば、こちらも「訪日しない」という選択をしようかと考慮し始めていた。それほどギリギリの状況だった。

訪日した際、産経新聞の編集委員を務める友人から聞いた話。ある90歳のおばあちゃんが、李登輝総統のビザ発給が報じられてから実際に訪日するまでの一週間、毎日毎日「李登輝さんは、本当に来られるのかねぇ、大丈夫かねぇ」と心配していたそうだ。これを聞いたとき、私は涙が出た(実際に声を詰まらせる)。

今後は日台ともに協調の時代。現政権も、日台関係にどれだけ配慮するかが有権者の票につながることが分かったようだ。大いに日台交流を進めていきたい。


【彭栄次氏 経歴】

1934年11月2日 台湾苗栗生まれ

1954年 国立台湾大学法律系卒

1958年 国立台湾大学経済系卒

1959年-1961年 日本勧業銀行外資部門

1962年 日本にて、戦後の資本市場を研究

1962年 米国にて、ニューヨーク証券取引所の制度研究

1963年-1967年 台湾証券取引所 総経理特別秘書および研究員

1968年-2009年初 台湾輸送機械有限公司 協理・総経理・董事長を歴任

1992年-1996年 国立中山大学日本研究センター顧問

1996年-2000年 李登輝総統 私人顧問

1976年-現在 日本電源開発(J-Power)顧問

1998年-現在 米国太平洋フォーラム 董事

2009年-現在 亜東関係協会 会長(2月5日就任)