告別式は8月8日午後1時、青山葬儀所で斎行
7月29日、台湾大使(財団法人日本交流協会台北事務所長)を務めた内田勝久(うちだかつひさ)氏が前立腺癌のため逝去された。享年69。
内田大使はイスラエル、シンガポール、カナダの各大使を歴任して外務省を退官。その後、2002年(平成14年)から2005年(同17年)の3年間、日本交流協会台北事務所長として台湾に赴任し、歴史に残る日台交流を推し進められた。
李登輝前総統の来日実現(2004年12月)、天皇誕生日レセプションの開催(2003年12月)、台湾人への叙勲(2004年4月)、愛知万博における台湾人観光客のノービザ実現(2005年3月)など挙げれば切がない。交流協会台北事務所に前陸将補の長野陽一氏が主任として着任したのは2003年1月だったが、日本の自衛隊関係者が台湾に駐在するのは断交以来初めてのことだった。
内田大使は台湾が中国の領土の一部ではないことを、具体的な形で次々と実現していかれた。その象徴が天皇誕生日レセプションである。これは台湾を「統治の実態」と見做さなければできない措置である。
大使として台湾でやってきたことや、日本にとって台湾がいかに大事なところであるかについては、病魔をおして入院先でも執筆した『大丈夫か、日台関係-『台湾大使』の本音録』(平成18年5月、産経新聞出版)に詳しく書かれている。
内田大使はその本の「まえがき」で、次のように断言された。
「私は独断と偏見の謗りを甘んじて受けつつ、政治、経済、文化、人的交流その他あらゆる面で台湾が上記三カ国のいずれに較べても『大使』として、勤務しがいのある国であったことを断言したい」
台湾から帰国後、さらに日台友好関係を促進させたいと、内田大使は真美子(まみこ)夫人ともども本会に正会員として入会された。現在も会員である。帰国直後の平成17年6月には、機関誌『日台共栄』で「私の『台湾体験』とこれからの日台関係」と題してインタビューさせていただいた。内田大使の飾らないお人柄を知りえた意味でも思い出深い出来事だった。
内田大使は、台湾を「極めつきの親日国家」と述べ、「日台両国は運命共同体と言ってよいくらい強い絆で結ばれている」と公言された数少ない外務省出身者であった。日台関係の基盤は内田大使のご尽力によって磐石とはなったが、国交正常化までに積み上げていかなければならないことは山ほどある。そのためにも、内田大使には日本全国を周って日本人を覚醒していただきたいと願っていたが、それももはやできなくなった。本当に惜しい方を亡くしてしまった。
内田勝久大使のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申しあげますとともに、心からご冥福をお祈りいたします。
平成19年7月31日
日本李登輝友の会常務理事・事務局長 柚原正敬
【産経新聞報道】内田勝久氏(前財団法人交流協会台北事務所長)
内田勝久氏(うちだ・かつひさ=前財団法人交流協会台北事務所長)29日、前立腺がんのため死去、69歳。通夜は8月7日午後6時、葬儀・告別式は8月8日午後1時、東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。喪主は妻、真美子(まみこ)さん。駐イスラエル大使、駐カナダ大使などを歴任。外務省退官後、台湾大使にあたる台北事務所長を務めた。著書に『大丈夫か、日台関係』(産経新聞出版)がある。
※なお、内田大使の死去は台湾でも報道されました。