本日、李登輝前総統は秋田県の国際教養大学(中嶋嶺雄学長)を訪問し、「日本の教育と私」をテーマに講演を行いました。本会では講演原稿を入手し、掲載の許可をいただいたのでご紹介します。
日本の教育と私 日本の皆様へ
国際教養大学 プラザクリプトン
国際教養大学の中嶋嶺雄学長をはじめ、ご来場のみなさまこんにちは!台湾の李登輝です。
先月の末に貴国日本へ参りまして、ここ何日か「奥の細道」を巡り、昨日、秋田に入りました。今朝は芭蕉が訪れた象潟の蚶満寺へも行ってきました。永年の夢であった、私の「奥の細道」探訪の旅が実現し、とても感激しております。
また、本日は私が尊敬する長年の友人である中嶋嶺雄先生が学長を務める国際教養大学で特別講義をさせていただく機会を得ましたことを、大変光栄に思っております。
そこで本日は、私が歩んできた道を振り返りながら、「日本の教育と私」についてお話しさせていただき、また若いみなさんに贈る言葉を若干述べたいと思います。
はじめに
もう十年以上前になりますが、一九九四年の春、歴史作家司馬遼太郎先生が台湾紀行の著作を終えて再度台湾を訪問なされました。その時、特に時間を作って私を訪れて、対談が行われました。私はその時、家内に司馬先生との話はどんなテーマがいいかなと話したら、「台湾人に生まれた悲哀にしましょう」と言いました。四百年以上の歴史を持つ台湾の人々は、自分の政府もなければ、自分の国というものを持っておらず、国の為に力を尽くすことさえもできない悲哀を持っておりました。
一九二三年に生まれた私は今年で満八十三歳になります。そして台湾人に生まれた悲哀を持ちつつも、その一方で、外国の人には味わえない別の経験を持っていることは否めません。それは、生涯の中で多種多様な教育を受けたことです。二十二歳までは日本の徹底した基本教育、戦後四年受けた中国の大学教育とアメリカ四年間の留学です。
中国の四年間にわたる大学教育も、結局は日本人の教授による日本教育の延長でした。アメリカにおける前後二回の留学は、職業的な面での教育でした。台湾人に生まれた悲哀と言っても、このような多様な教育、特に日本の教育を受けていなければ、現在の私には、おのれの生命と魂を救う基本的な考え方は得られなかったと思います。日本という国の植民地でありながら、台湾は日本内地とは変わらない教育を与えられたが故に、非常に近代化した文明社会が作り上げられたのです。
二、台湾における日本教育
台湾総督府が一八九五年四月に開庁されましたが、その年の七月には今の士林という所に「国語学校」が開校されました。植民地統治を教育から始めたことは世界にも例のないことです。日本による新しい教育を台湾に導入したことによって、伝統的な書房や私塾は次々と没落し、台湾人は公学校を通して新しい知識である博物・数学・歴史・地理・社会・物理・化学・体育・音楽等を吸収し、徐々に伝統の儒家や科挙の束縛から抜け出すことができました。そして世界の新知識や思潮を知るようになり、近代的国民意識が養成されました。
一九二五年には台北高等学校が成立し、台北帝国大学は一九二八年に創立され、台湾人は大学に入る機会を得ました。直接内地である日本に赴き、大学に進学した人もいました。こうしたエリート教育の機構整備以前に、既に医学校・農業専門学校・商業・工業の職業学校が数多く設立されており、これによって台湾のエリートはますます増え、台湾社会の変化は日を追って速くなりました。
教育によって近代観念が台湾に導入された後、時間を守る、法を守る、金融貨幣・衛生・新しい経営観念が徐々に新台湾人を作り上げていきました。近代化社会に於ける近代化観念の影響の下、台湾人は新しい教育を受けたため、徐々に世界の新思潮と新観念が分かるようになりました。
一九二〇年頃になると、台湾人は西側の新思潮の影響を受け、各種各様の社会団体を作り、議会民主、政党政治、社会主義、共産主義、地方自治、選挙、自決独立など、様々な主張をし、『日本は台湾人に当然の権利を与えるべきである!』と要求しました。そして台湾は日本の教育の下に、民主化の要求として「文化協会」が台湾人の手によって初めて組織されたのは一九二三年のことでした。
この年に私は台北の北部にあたる淡水郡の三芝庄に生まれました。日本の教育が私に与えた影響は、台湾の上述した様な環境と時代的意義があったと思います。
三、私の個人性格と家庭の事情
私は正式に日本教育を長期にわたって受けた他、家庭の事情や個人的要素が、また強く私の以後の人生観や哲学的思考、日本人観に影響を及ぼしました。一つは父の職業の関係で、公学校六年間に四回も転校し、その為、友達がなかなかできませんでした。一人の兄も故郷の祖母と暮らしていて、家では私一人だけでした。この経験は多感な私をして、いささか内向的で我の強い人間にしてしまったようです。友達がいない代わりに本を読むことや、スケッチをすることによって時間を過ごすようになりました。
自我意識の目覚めが早い上に、この様な読書好きが、更に自我に固執することになり、強情を張って、母を泣かせたり、学校でも学友との争いや矛盾が起こったりする様になりました。激しい自我の目覚めに続いて、私の心の内に起こってきたのは「人間とは何か」、「我は誰だ」、或いは「人生はどうあるべきか」という自問自答でした。これは母がある時、私に「お前は情熱的で頑固過ぎるところがある。もう少し理性的になってみたら!」と諭してくれたことも関係していました。自分の心の内に沸き起こるものに対して、もっと自ら理性的に対処しようと考えたのです。
四、日本の教育
そのような少年にとって、古今東西の先哲の書物や言葉にふんだんに接する機会を与えてくれた日本の教育、教養システムほど素晴らしいものはありませんでした。禅に魅せられ、座禅に明け暮れたのもこの頃のことですし、岩波文庫などを通して東洋や西洋のあらゆる文学や哲学に接することができたのも、当時の日本の、教養を重視した教育環境の中に、そのような深い思索の場が用意されていたからであると信じています。
私は日本で最近何冊かの書物を出版しました。それが政治評論であれ、文化的なものであれ、殆どこの若き時代に得た考え方を繰り返し強調し、述べたものに過ぎません。今、日本で一番に関心を持たれているのは新渡戸稲造先生が一九〇〇年に英文で出版した「武士道」(日本人の精神)を解題して書き直したものです。
新渡戸先生との出会いの前にも、既に多くの先哲との出会いがあったわけです。そのうち、日本だけの例を挙げれば、私が自我に悩み、苦行しようと、禅によって自己修練に励んだ時に、鈴木大拙先生の「禅と日本文化」等の著作が非常に役に立ちました。臨済禅師の流れを継ぐ鈴木先生は、この東洋哲学としての禅思想を一早く欧米に紹介すると共に、日本文化に禅思想が深くかかわっていることを詳細に述べています。
「我は誰か?」という問いに対して、先生は臨済録に述べられている「無位真人」を我々に強く禅行の目標として教えています。懸命に鈴木先生の本を読み漁っているうちに、明治時代における日本精神のもう一人の体現者である西田幾多郎先生に出会いました。
明治維新後、欧米の学問や芸術が滔滔と流れ込み、新しい日本の文化万般が、その様式において根本的変革と前進を始めた時期ですが、西田幾多郎もまた、日本の人々に欧米の現代哲学を紹介するだけでは飽き足らず、その優れた部分を自分のものにして、これを日本精神史、わけても武家時代後、日本民族の精神的、宗教的生活の中核をなしてきた仏教と儒教の精髄を統合して、独自の哲学を創造し、これを世界に向かって鼓吹したのです。中でも彼が折に触れて発表した様々の論文を集めて一冊の本にまとめた「善の研究」は、私に強い感銘と影響を与えました。
同様に、文学の方面では夏目漱石先生の偉大な思想的貢献を忘れてはなりません。明治四十四年頃、ロンドンからの帰国後における「私の個人主義」を中心とした創作が徐々に「則天去私」に移り変る過程は本当に偉大な精神転換でした。
私が初めて「武士道」-日本人の精神-という本に出会ったのは、旧制の台北高等学校時代でした。武士道などというと、とかく封建時代の亡霊のように言う人が多いようですが、この本を本当に真摯に精読すれば、そのような受け止め方がいかに皮相で浅薄なものか、すぐにわかるでしょう。
この本の中で、私は繰り返し「今なぜ武士道か」という問題を、日本および日本人に対してだけではなく、私自身にも問いかけています。それはこのような危急存亡の秋にこそ、社会人一人一人が「生き方の心得」とも言うべきものを再認識、再点検しなければならないと、固く信じているからにほかなりません。この大命題を自他共に厳しく問い詰めなければ、とても国家や国民の未来は見えてこないと確信しているからです。
私が声を大にして武士道精神を再評価しようと言っているのは、日本および日本人本来の精神的価値観を今一度明確に想起して欲しいと祈るような気持ちで切望しているからです。民族固有の歴史とは何か、伝統とは何かということを、もう一度真剣に考えてほしいのです。
五、日本文化の特徴
文化の形成は、「伝統」と「進歩」という一見相反するかのように見える二つの概念を、いかに止揚(アウフヘーベン)すべきかという問題にも帰するわけですが、「進歩」を重視するあまり「伝統」を軽んずるというような二者択一的な生き方は愚の骨頂だと思うのです。最近の日本では、一般的に、あまりにも物質的な面ばかりに傾いていると言われますが、その結果、皮相な「進歩」に目を奪われ、大前提となるべき精神的な「伝統」や「文化」の重みが見えなくなってしまっています。しっかりした「伝統」という基盤があるからこそ、初めてその上に素晴らしい「進歩」が積み上げられるのであり、伝統なくしては真の進歩など、あり得ないのです。
戦後、一九四六年、私は台湾人に生まれ変わるために日本を離れた瞬間から、「新日本」の諸制度や進み行く方向が大きく変わったことも重々承知しています。そしてそのような変化が、大きな進歩をもたらし、今日の世界第二の経済大国を造り上げる原動力の一つになったことも、また否定できない厳然たる事実だと思っております。しかし、そのために国家や国民にとって最も大切な「伝統」まで捨て去ってしまったら、それはもはや言葉の本来の意味における「進歩」ではあり得ないのではないでしょうか。
有史以来、日本の文化は大陸などから滔滔と流れ込んできた変化の大波の中で、驚異的な「進歩」を遂げ続けてきたわけですが、結局、一度としてそれらの奔流に飲み込まれることもなく、日本独自の伝統を立派に築き上げてきました。
日本人には古来、そのような希有なる力と精神が備わっているのです。外来の文化を巧みに取り入れながら、自分にとってより便利で都合のいいものに作り変えていく――このような「新しい文化」の創り方というのは、私は一国の成長、発展という未来への道にとって、非常に大切なものだと思っているのです。そして、こうした天賦の才に恵まれた日本人がそう簡単に「武士道の精神」や「大和魂」といった貴重な遺産や伝統を捨て去るはずはないと私は固く信じています。
では、日本文化とは何か?その結論を言わなければなりません。私は高い精神と美を尚ぶ心の混合体が日本人の生活であると言わざるを得ません。
長たらしく武士道について述べましたが、武士道とはかつて日本人の道徳体系でした。封建時代には武士が守るべきことを要求されたもの、もしくは教えられたものです。それは成文法ではない、精々、口伝による、もしくは数人の武士、もしくは学者の筆によって伝えられた僅かの格言があるに過ぎず、むしろそれは語られず、書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法たることが多いのです。
不言不文であるだけ、実行によって一層強い効力が認められているのです。それはいかに有能なりといえども一人の人の頭脳の創造ではなく、またいかに著名なりといえども一人の人物の生涯に基礎するものではなく、数十年、数百年にわたる武士の生活の有機的発達でありました。それがやがては日本人の行動基準となり、生きるための哲学にもなりました。具体的には武士道精神は公の心・秩序・名誉・勇気・いさぎよさ・測隠の情・躬行実践を内容にしつつ、日本人の精神として生活の中に深く浸透しました。
六、日本人の精神
日本人精神を充分発揮した数多くの日本人の一人として台湾嘉南大圳、烏山頭水庫(ダム)を建設した八田與一氏を例として述べましょう。
嘉南大圳の灌漑面積は十五万ヘクタール、烏山頭ダムの水源建設総工事費は四〇〇万円、当時の台湾総督府の年予算に匹敵する大工事でした。工事期間は十年、三十二歳の若さでこの巨大工事を成し遂げた八田與一氏は、この工事でソーシャルジャスティスを実践、日本人精神を充分に発揮しました。
(1)烏山頭ダムと濁水渓から取り入れた水は合計一億五千万トン。これは十五万ヘクタール全域に給水することは不可能でした。八田氏は普通の土木工事の技術者と違い、『ダムと水路を完成すればそれで終わりである!』とは考えませんでした。彼は農民のためにダムや水路は造るのであれば、何とかして十五万ヘクタールを耕す農民にあまねく水の恩恵を与え、生産が共に増え、生活の向上があって初めて工事の成功であると考えました。彼はこのために、三年輪作という耕作方法を考え、水をすべての農民に行きわたる方法を講じました。
(2)嘉南大圳の工事は十年間に百三十四人もの人が犠牲となりました。嘉南大圳完成後に殉工碑が立てられ、その碑には百三十四人の名前が台湾人、日本人の区別なく刻まれていました。
(3)関東大震災の影響で予算が大幅に削られ、従業員を退職させる必要に迫られたことがありました。その時、八田氏は幹部のいう『優秀な者を退職させると工事に支障が出るので、退職させないでほしい』」という言い分に対し、『大きな工事では優秀な少数の者より、平凡な多数の者が仕事をなす。優秀な者は再就職が簡単にできるが、そうでない者は失業してしまい、生活できなくなるのではないか!』といって、優秀な者から解雇しています。八田氏の人間性を表す言動でしょう。八田氏の部下思いや先輩、上司を大切にすることでは、数え上げられないほどのエピソードがあります。
(4)八田氏夫婦が今も台湾の人々によって尊敬され、大事にされる理由に、義を重んじ、誠をもって率先垂範、実践躬行する日本的精神が脈々と存在しているからです。八田與一夫婦の例を挙げて、私がここで皆さんに申し上げたい事は、日本精神の良さは、口先だけではなく、実際に行う、誠実をもって行うというところにこそあるのだということです。
日本文化の優れた面は、かかる高い精神性に代表される、即ち武士道精神に代表される日本人の生活にある哲学であると信じます。心底からこみ上げる強い意志と抑制力を持って個人が公のために心を尽くす以外に、また日本人の生活にある美を尚ぶ私的な面があることも忘れてはいけません。
藤原正彦先生は、「国家の品格」の書物の中で、強く強調している情緒と形を日本人の生活内容と言っています。これは自然への感受性と調和であり、もののあわれ、さびとわびを生活の中に見つけ出す、日本人独特の、また、人間として普遍的になくてはならない美学が生活にあるのです。昔、中国で老子は「道可道 非常道」と言って、道は口で言えるものでなく、口で言えるものは永遠に道ではないと言っています。日本人は生活において花を生けるには花道を、お茶を飲めば茶道と言う様に、生活におけるあらゆる行為が道となっています。それが俳句や和歌という様な形で表現されて、自然との間に共生的関係を持っています。これは世界の人々にはなかなか分かるものではありません。
私が「武士道の解題」を出版し、そして更に奥の細道を歩きたい気持ちは、日本文化の優れた精神性と美学的日本人の情緒を、何とか外国人や今の若い日本の人々に伝えようと考えたからです。直感的に、私は芭蕉の著作「奥の細道」は、この様な日本文化の美を丁度よくまとめたものであると思っています。奥の細道で平泉に到着した芭蕉と曽良が見たのは金鶏山でした。そして昔を偲びつつ、ぼう然と立ち尽くして詠んだのが「夏草や兵どもが夢の跡」でした。時間を越えて華やかな過去がすべて一つの草むらにしか過ぎません。
山寺を訪れては、蝉の声の潮と周囲の静けさの中で「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を詠みました。自然との調和、心にしみこんで何の説明もいりません。
芭蕉は旅情のほてりが醒めやらず、最後の気力をふるい起こし、海岸沿いに越後の国に入ります。出雲崎に泊まった時に詠まれた「荒海や佐渡に横たふ天河」は、壮大な景観と佐渡への思い入れの入った句でした。
「奥の細道」の旅行中に詠んだ以上の三句は、時間と空間、存在している景観を充分に情緒と形で表した日本人らしさの代表的なものでしょう。
七、日本旅行の感想
日本文化の優れた伝統を日本の教育で獲得できた私に、何かなされたでしょうか?これから説明しましょう。
昭和二十年八月十五日、名古屋城で終戦を迎えた私は数日を経て復員し、京都の下宿に戻ってきました。大学の講義が始まるまで、時間もありましたので、広島の原爆地を訪れ、また、佐世保の軍港に同学を訪問して、広く日本の戦争による荒廃を見て廻りました。旅行中、車の中で日本人の若者とも話しを交わし、これからの日本はどう建て直しできるかが討論されました。と同時に、故郷台湾が思い起こされてなりません。今、台湾はどうなっているのでしょうか、父、母、じいちゃんは元気でいるのだろうかと、心配でなりませんでした。
その時から時間はすでに六十一年経過しました。父、母、じいちゃんは、皆、亡くなりました。私もじいさんになって一昨年に六十年ぶりに家族四人で日本を一週間訪問し、観光する機会を得ました。前回の旅行で私が強く感じたことは、日本は戦後六十年で大変な経済発展を遂げたということです。焦土の中から立ち上がり、ついに世界第二位の経済大国を造り上げました。政治も大きく変わり、民主的な平和国家として世界各国の尊敬を得ることができました。その間における人民の努力と指導者の正確な指導に敬意を表したいと思います。
もう一つ感じたことは、日本文化の優れた伝統が進歩した社会で失われていなかったことです。日本人は敗戦の結果、耐え忍ぶしか道はありませんでした。経済一点張りの繁栄を求めることを余儀なくされたのです。そうした中にあっても、日本人は伝統や文化を失わずに来たのです。
前回の旅行で強く記憶に残ったのは、様々な産業におけるサービスの素晴らしさでした。金沢では一流旅館ならではのきめ細かいサービスに驚嘆しましたし、新幹線も車内サービスの充実ぶりに目を見張りました。そこには戦前の日本人が持っていた真面目さや細やかさがはっきり感じられました。「今の日本の若者はダメだ」という声も聞かれますが、私は決してそうは思いません。日本人は戦前の日本人同様、日本人の美徳をきちんと保持しています。
確かに外見的には、緩んだ部分もあるのでしょう。しかし、それはかつてあった社会的な束縛から解放されただけで、日本人の多くは今も社会の規則に従って行動しています。
社会的な秩序がきちんと保たれ、旅館にせよ、鉄道にせよ、公共の場所ではそれぞれが最高のサービスを提供しています。ここまでできる国は、国際的に見てもおそらく日本だけではないでしょうか。さらに私が感じたのは、日本人の国家や社会に対する態度がここへ来て大きく変わり始めたことです。
戦後六十年間の忍耐の時期を経て、経済発展を追求するだけでなく、アジアの一員としての自覚を持つようになりました。武士道精神に基づく日本文化の精神面が強調され始めたのです。私の書いた「武士道解題」を解説して下さった田原総一郎先生は結論として、『私のような戦後民主主義という論理に合わない事柄を排することで育った人間には、「武士道」には率直に言って少なからぬ抵抗感もあるが、だからこそ、今、武士道がブームを迎えているのであろう』と書いています。
ここ二十年間、台湾にデモクラシーを持ち込んで、政治体制を変更した私が「武士道-解題」を書き、副題にノーブレスオブリージェをキーワードとして、指導者たるべき者の心構えを説くことを考えれば、民主主義と武士道精神の間には、なんら矛盾がないと思います。デモクラシーと言うのは、個人のことを考えるだけではなく、国民の声を聞いて、国家のために働く、武士道の精神でもあるのです。
八、むすび
最後に、最近台湾で、「台湾民主化の道」と言うDVDが出回っています。二十年来の台湾の民主化の過程に於いて、私は国民党与党の指導者として、台湾の国民の声に耳を傾け、主流の民意を尊重し、それを改革の推進力として来ました。このDVDの中で台湾の民主化を進めた私に対して、「李登輝は一体何者や?」と言う問いが出ていました。
それに対して台湾大学史学科の呉密察教授は、『李登輝氏は日本の大正世代に生まれ、徹底的に日本教育の薫陶を受け、忍耐、自制、秩序を重んじ、公の為に奮闘、努力する精神を身につけた人である』と返答しています。この答に対して、私は同意はしますが、日本的教育で、最も強調されている”実践躬行”が述べられていません。一般的な教育に於ける知識の収得、思考する習慣は言われていますが、日本的教育の長所は、武士道精神によく表現される実践にあると言えるでしょう。私もその点では、知ること、考えること以外に、実践する能力に全ての意義を与えています。
私にとって、人生は一回限りであり、来世はありませんから、一部の宗教が所謂「輪廻」を唱えるのも、私はそれを自己満足に過ぎない話だと思っています。実際に、「意義ある生」をより肯定すべきだと思います。なぜなら「生」と「死」は常に表裏の関係だと考えているからです。全ての原点は哲学に置き、すなわち「人間は何ぞや」というところから出発したのです。
「人間とはなんぞや」、または「自分とは誰だ」という哲学的問題から出発し、自己啓発へ発進すれば、人格及び思想の形づくりが完成できます。「自我」の死への理解を踏まえたうえで、初めて肯定的な意義を持つ「生」が生まれるのです。しかし、自我をなくした後の自分は、誰が引き継いでくれますか?これは神にすがるほか答えが出ないと思っております。
実際に、人間は単に魂と肉体から構成されています。けれども精神的な弱さは更に高い次元の存在を必要とするのです。総じて言えば、私達には全ての権限を有する神が必要です。と言っても、すぐに信仰を持つようになるのも簡単なことではありません。信仰への第一歩は、見えないから信じない、見えるから信じることでなく、ただ信じること、実践することです。
純粋理性から実践理性へと、もっと高い次元に生きる価値を見つけ出すことが、人生の究極の目標です。従って、この日本的教育によって得られた結論は「私は誰だ」という問いについて、「私は私でない私」なのです。この答えは私に正しい人生の価値観への理解と色々な問題へ直面する時にも「自我」の思想を徹底に排除して、客観的立場で正しい解決の方法が考えられました。これが日本の教育を通して私に与えられた人生の結論でしょう。