3月23日、シンガポールのリー・クアンユー元首相が逝去した。リー元首相と李登輝元総統は同じ1923年生まれ。
また、台湾もシンガポールも資源のないアジアの小国ながら「アジアの四小龍」として驚異的な経済的発展を遂げた。
そのため、「台湾民主化の父」李登輝元総統と「シンガポール建国の父」リー・クアンユー氏はよく対比されるものの、その政治哲学や手法は180度異なる。
『文明の衝突』を著したハーバード大学のサミュエル・P・ハンチントン教授は、「李登輝が死んでも台湾の民主主義は残るが、リー・クアンユーが死ねばその制度は失われる」と評した。
李登輝元総統も、リー・クアンユー氏の同族支配的な体制を「アジア的価値観(アジアン・バリュー)」と断じた。
「アジア的価値観」とは中国の歴代王朝に見られる皇帝型専制制度による中央集権政治を指す、いわゆる「法統」の体系を指す。
李元総統は自由や民主を追求した台湾を「世界的価値観」と呼び、長男のリー・シェンロン氏を後継首相としたリー・クアンユー氏の手法を「アジア的価値観」であり、永続的な発展は難しいとした。
そのため、晩年は二人は距離を置き、交流も途絶えていた。
1989年3月6日から李登輝総統(当時)はシンガポールを初訪問。チャンギ空港で出迎えたのは、リム・キムサン大統領臨時代行、リー・クアンユー首相、ゴー・チョクトン第一副首相ら錚々たる面々での歓迎だった。
この当時、シンガポールは中国との国交樹立を目指す一方、台湾とも経済、文化、軍事面での協力関係を維持したいと考えており、リー・クアンユー首相は3月6日から9日までの3日間のみ、当時シンガポール・プレス・ホールディング社の主席執行取締役の任にあったリム・キムサンを大統領代行に据え、「国歌斉唱しない、国旗掲揚しない、礼砲を打たない」非公式なかたちで李登輝総統を迎えた。
ただ、一方でリー・クアンユー首相は「自分がきちんと李総統をお迎えする」と台湾当局に対して自ら約束し、万全の警備体制を指示したとされる。また、メディアに対しては一律に「台湾から来た総統」と呼称するように命令を出し、台湾とシンガポール双方が受け入れられる落とし所をさぐった。
その結果、会見は外交儀礼に則り、元首であるリム・キムサン大統領臨時代行、リー・クアンユー首相の順序で行われた。