中国改革・開放の30周年の年だったから、数年前のことである。その頃、私は調査やら会議のために中国に出向くことが多かった。台湾でも「中国改革・開放30年の回顧」といったテーマで国際会議が開かれ、私も招待された。北京でのシンポジウムを終えるや成田に戻り、成田のエアポートホテルで一泊して、そのまま台北に向かったことがあった。北京と台北に漂っている「空気の質」のちがいを、一週間のうちに感じさせられた希有な機会であった。空気の質としか表現できないもののように思われた。
北京ではレストランで従業員が笑顔で私を迎えてくれることなどまずない。デパートの売り子はニコリともしないし、雑踏を歩いていてもよく人やカバンが接触するが、“すみません”の一言もない。空港のバッゲージクレームでは我先にと旅行カバンを取り出し、周りの人に気遣う様子はない。秋なのに空気はどんより沈んでいる。人々のごく普通の生活の空気が何だか乾いていて、外国人の私は緊張させられる。昔からこうなのか、競争社会になって、こんなふうになってしまったのか。
台北の空港に降り立ち、市内バスに乗ってホテルに向かう。道のりはだいたいわかっているのでバスに乗ったのだが、私の背中にどこか不安げな影が浮かんでいたのであろう。バスに同乗するある中年の女性が私の座席の後ろの方から近づいてきて、日本語でどちらのホテルに行くのかと問うてくれる。それなら自分も降りるのと同じバス停だから、ご一緒に降りましょうという。
バスを降りると、ホテルのゲートまで連れていってくれるではないか。私がホテルの玄関に入るのを確かめて、彼女はまたさっきのバス停の方に向かい消えてしまった。本当に彼女の降りる予定のバス停だったのか、私のためにわざわざ同じバス停だといって降りてくれたのではないか、と想像したりもした。
その夜は、台北の屋台でひとりビールを飲み、あれやこれやと旨そうな料理を注文して、何とも幸せないひとときだった。街を歩く人々にどこか温かいものが感じられる。空気が乾いていないのである。台湾てやっぱり中国じゃないんだよなあ、問わず語りに当たり前のことをつぶやく。台湾大好き人間は日本にも多いが、私もその一人である。
この度、日本李登輝友の会の会長を務めよという要請を、小田村四郎先生から受けた。恩人の先生からのお申し越しに私がノーといえるはずもない。運命共同体日台の友好に少しでも尽くせそうな機会が私にも与えられたのだ。台湾からこれまでに与えられてきた私の幸福の幾分かの恩返しができるのかもしれない、と感じている。
【機関誌「日台共栄」6月号(第39号)掲載】
◇ ◇ ◇
渡辺利夫(わたなべ・としお)
昭和14年(1939年)6月、山梨県甲府市生まれ。甲府一高を経て慶應義塾大学卒業。同大学大学院経済学研究科博士後期課程満期取得退学後、筑波大学助教授時代の同55年(1980年)に経済学博士。筑波大学教授、東京工業大学教授、拓殖大学教授を経て同大学長、総長に就任。現在、同大学学事顧問。平成28年(2016年)3月、日本李登輝友の会会長に就任。
主な著書に『成長のアジア停滞のアジア』(吉野作造賞)、『開発経済学』(大平正芳記念賞)『西太平洋の時代』(アジア・太平洋賞大賞)、『神経症の時代─わが内なる森田正馬』(開高健賞正賞)、『新脱亜論』、『アジアを救った近代日本史講義』、『国家覚醒―身捨つるほどの祖国はありや』、『放哉と山頭火─死を生きる』など多数。第27回正論大賞受賞。山梨総研理事長。