蔡焜燦氏を悼む 「人を残す人生こそが上」、「公」に尽くす日本精神を貫いた台湾人
7月19日付・産経新聞朝刊
史上最長とされる38年もの「戒厳令」の解除から30年を迎えた15日の夏空を見届けるかのようにして、蔡焜燦氏が17日、台湾で90年の生涯を閉じた。司馬遼太郎著「台湾紀行」に博覧強記の「老台北」として登場するこの実業家。戦後の台湾を強権支配した中国国民党政権の重圧を、戦前の日本統治時代に受けた教育ではねのけて生きてきた。
憲法停止により政治活動や言論が弾圧され、「白色テロ」と呼ばれる市民の一方的な逮捕や投獄が横行した時代。高校生だった2歳年下の実弟、焜霖氏がいわれなき罪で連行された1951年のこと。拘束された建物の周囲で蔡氏は何週間も、弟に聞こえるように日本語で名を呼んだり、日本の歌を歌ったりした、と話してくれたことがある。
国民党が中国大陸から連れてきた守衛らは日本語が理解できない。「オレが必ず助けてやると焜霖に伝えるには、日本語で叫ぶのがいい」と考えた。だが、叫びもむなしく、国民党政権に反発する文書を書いたとして、焜霖氏は離島の監獄に10年間も監禁された。
蔡氏は、「助け出せなかった無念はいまも残る。だが、日本時代の教育を受けた台湾人は自分が正しいと考えれば屈しない。焜霖は歯を食いしばり、必ず戻ってくると信じていた」とも言った。釈放後、焜霖氏も実業家として成功した。
自ら「愛日家」を標榜(ひょうぼう)する蔡氏。日本や日本人がただ単純に好きだからではない。「社会という『公』に尽くす日本の精神。教育を通じてわれらの世代から子供、孫、ひ孫まで台湾人に脈々と生きている。台湾の発展は日本教育があり、人が育ったからこそ。万人身勝手で『私』の利益しか考えない中国人とは完全に異なる」との意識からだ。
「台湾紀行」が契機となって、李登輝元総統(94)と意気投合して親交を深めたのも、戒厳令を経て民主化が始まった戦後台湾で、互いに「公の精神」をブレずに追い求めていたことが即座に理解できたからだ。2人の共通語は日本語だ。
蔡氏は、台湾総督府で戦前、民政長官を務めた後藤新平の言葉が信条だと話していた。すなわち、「カネを残す人生は下。事業を残す人生は中。人を残す人生こそが上」だ。1人でも多くの日本人や台湾人に、私財をなげうってでも「公の精神」を伝えたかった。そして数多くの「人」を残して、蔡氏は旅立った。(元台北支局長 河崎真澄)