蔡焜燦先生の逝去に際し、台湾のウェブニュースサイト「民報」が「『高座会』の李雪峰・初代会長、老友の蔡焜燦氏を悼む」と題した記事を報じていますので、翻訳して掲載します。

李登輝元総統の畏友でもある蔡焜燦氏が7月17日早朝逝去した。同じく古い友人である李雪峰・高座会初代会長によれば、亡くなる日の前夜、台湾高座会の理事会が開かれ、高座会に目下二代目、三代目の若手が次々に入会し、会が活性化しているという報告があった。そのため李会長は蔡氏にもこのことを知らせようと電話を掛け、それを聞いた蔡氏は大変喜んだという。ただ、会話のなかで蔡氏が「ちょっと疲れてる」と漏らしたため、これが二人の最後の会話になるとは思いもよらず、李会長も「早く休んだほうがいい」と話し電話を終えた。

李会長によると、蔡氏は眠っている間に苦しむこともなく、家族に手間をかけることもなく逝ったようだという。日本からは蔡氏を慕う友人などからひっきりなしにお悔やみや弔問の問い合わせが入っているが、蔡氏の遺族によれば、遺言により葬儀は簡潔かつ密葬で済ませ、訃聞(葬儀の日程などを記した通知)なども送らないことになっている。遺族は、葬儀が終わり次第、新聞紙上で蔡氏に対するこれまでの感謝を表明する予定だという。

蔡焜燦氏は李登輝民主協会の初代理事長であり、日本李登輝友の会の幹部とも密接な関係を築いている。日本の著名作家、司馬遼太郎氏が取材のために台湾を訪問した際には、蔡氏が水先案内人となり、作品『台湾紀行』のなかで蔡氏は「老台北」と称された。大東亜戦争中、蔡氏は日本内地の奈良航空教育隊の学徒兵となり、戦後は台湾に戻りビジネスに携わった。後にIT企業の偉詮電子を立ち上げて成功をおさめるとともに、台湾や日本に対しても心を砕き、その想いを綴って日本で出版した著書『台湾人と日本精神(リップンチェンシン) 日本人よ胸をはりなさい』はベストセラーとなった。

2011年、李登輝元総統とその有力支持者たちは、台湾の民主政治が変化に直面していることに鑑み、民主化の重要性をより一層推進するとともに、台湾が国際的に置かれた困難を突破するため、民間の力を結集していく必要があると考えた。そこで蔡氏は李雪峰氏、張燦鍙氏、黃昭堂氏などと連携し「李登輝民主協会」を成立させている。蔡氏は初代理事長となり、任期満了を以て張燦鍙氏にバトンを引き継いだ。また、蔡氏は日本の和歌にも大変造詣が深く「台湾歌壇」の代表を務めており、その功績によって2014年には日本政府から「旭日双光章」を受章している。