去る10月8日に開かれた「蔡焜燦先生を偲ぶ会」の模様は産経新聞と毎日新聞が報じ、本会HPや本会メールマガジン『日台共栄』でもその記事をご紹介しました。
ただ、産経新聞が翌9日の第2面に掲載した記事は、写真入りでしたが、李登輝総統から送られた弔辞や参列者が「仰げば尊し」を斉唱して偲んだことはカットされていました。
そこでウェブ版の記事を紹介したのですが、なんと昨日のウェブ版に、写真4枚を使い、偲ぶ会の模様を詳しく報ずる記事が掲載されました。これだけ長い記事ですから紙面には掲載されていないようです。
渡辺利夫・日本李登輝友の会会長の開会の辞、門田隆将氏、阿川佐和子さん、吉田信行氏の追悼の言葉、そして李登輝元総統のご弔辞も大半を紹介。最後に、ご遺族を代表して三男の清水旭氏のご挨拶、「仰げば尊し」の斉唱、田久保忠衛氏による閉会の辞まで詳しく紹介しています。的確かつとても丁寧な記事です。
ご遺族の方々はもちろんのこと、在天の蔡焜燦先生も喜ばれているのではないでしょうか。記事が無著名なのはいささか残念ですが、取材していただいた記者の方に感謝しつつ、下記に全文を紹介します。
「愛日家」「日本精神」…素顔の蔡焜燦氏 阿川佐和子さん、李登輝元総統らが偲ぶ
【産経新聞:2017年10月20日】
台湾の「日本語世代」を代表する存在で7月17日に90歳で亡くなった実業家の蔡焜燦(さいこんさん)氏を「偲ぶ会」が10月8日、東京都内のホテルで開かれた。会場には蔡氏と親交のあった日台の関係者が出席し、それぞれの心の中に秘めていた蔡氏との思い出を披露。そして、会場で読み上げられた台湾の李登輝元総統から送られた弔辞には、蔡氏への追悼の言葉とともに、日本人へのメッセージも込められていた。自ら「愛日家」を名乗った蔡氏の偲ぶ会の詳報をお届けする。
◆司馬遼太郎作品に「老台北」として登場
会場となった京王プラザホテル(東京都新宿区)の一室には祭壇が設けられ、多くの花とともに蔡氏の写真が置かれた。開会前、来場者は次々と祭壇に花を手向けた。祭壇の横にあるスクリーンでは、蔡氏の写真を紹介。2008年から代表を務めた短歌同好会「台湾歌壇」での活動や、若者との交流の様子などが映し出され、来場者は蔡氏との思い出を振り返るように眺めていた。
最終的に170人超が集まった会場には、評論家の金美齢氏、在日台湾人組織「全日本台湾連合会」(全台連)の趙中正会長や、月刊「Hanada」編集長の花田紀凱氏、前参院議員の江口克彦氏らの姿があった。
《蔡氏は、日本統治時代の1927(昭和2)年に、台湾中部の台中市で誕生した。地元の商業学校を卒業後、志願して陸軍少年飛行兵となり岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に入隊した。終戦は日本で迎えている。戦後、台湾に戻ってからは体育教師などを経て、電子機器会社社長を務めるに至っている。「日本語世代」の代表的な存在として日台交流に尽力し、親日家を超えた「愛日家」を名乗った。司馬遼太郎の「街道をゆく 台湾紀行」に「老台北」として登場し、蔡氏の名前は日本と台湾で知られるようになった。2014年春の叙勲で、台湾での日本の理解促進に貢献したとして旭日双光章を受章。偲ぶ会は、9月23日に台湾で開かれていたが、日本でも開かれた》
◆日本精神を実現した大いなる人物
開会の辞を述べた日本李登輝友の会の渡辺利夫会長は「日本精神(リップンチェンシン)」という言葉を強調した。2000年に日本で出版された蔡氏の著書『台湾人と日本精神』のタイトルにも掲げられた言葉だ。
「日本精神は、日本の統治時代に始まって現在の台湾になお残る言葉だ。勤勉で正直に生き、約束を守るといった語調がある。日本統治時代に育まれた日本精神を実現した大いなる人物が蔡先生だ」
渡辺氏はこのように指摘した上で、「蔡先生の胸に刻み込まれた、時代精神、日本精神だけは日台の双方でなんとしても継承し続けなければならない」との決意を述べた。
開会の辞に続き、蔡氏と関係が深かった来場者が追悼の辞として、蔡氏との思い出を述べていった。その一部を紹介すると、ノンフィクション作家の門田隆将氏は「蔡先生は非常に優しく思いやりがあるが、同時に非常に辛辣な人だった。こちらが浅薄な知識で受け答えしていると“突いて”きた」と振り返った。
日本統治時代に日本人の父と台湾人の母との間に台湾で生まれた湯(坂井)徳章の人生を描いた「汝、ふたつの故国に殉ず」など、日本と台湾の歴史に埋もれた事実を掘り起こすノンフィクション作品を多く手掛ける門田氏だが、作品出版後に蔡氏に会うと「この本はここが良かった。ここはもっと突っ込んだ方がよかった」と指摘を受けることが常だったという。「台北に行くときに蔡先生の評を聞くのが楽しみであると同時に、怖い部分もあった」と門田氏は明かす。
門田氏は、長年にわたった蔡氏との交流の中で、とりわけ印象的な瞬間を切り取った。2016年1月、総統選で民主進歩党主席の蔡英文氏が当選するとともに、立法委員(国会議員に相当)選で民進党が初めて単独過半数を得たときのことだ。蔡焜燦氏は門田氏に「涙が出て止まらない」と繰り返し述べたという。
「蔡先生は『一緒に戦っていた人間が亡くなっていった。その人たちがこの勝利を見ることができずに、自分は見ることができた。仲間のことを思うと涙が止まらない』と何度も繰り返していた。
その言葉が耳に残っている」
門田氏は、涙を堪えるように当時の蔡氏の姿を語った。
◆「佐和子先生、いつ台湾にジャンケンに来るか?」
作家でエッセイストの阿川佐和子氏は、父親で作家の阿川弘之氏らとともに台湾旅行に行った際のエピソードを紹介した。15年くらい前のできごとだという。蔡氏のガイドで観光地を訪れた際、蔡氏が突然街道沿いの小さな食堂を食事場所に選んだ。「こんな所で!?」と不安を感じた一行だったが、その食堂の料理は非常においしかったという。他の出席者からも蔡氏の食に関する“嗅覚”の鋭さを指摘する声があったが、蔡氏の人柄の一端がわかるエピソードといえるだろう。
旅行では、蔡氏が宿泊先から食事の用意までを喜んで手掛けてくれたが、旅が進むにつれて「自分まで蔡氏にごちそうになるのが心苦しい」という思いを阿川氏は強くしていった。そして、見送りに来てくれた空港で“事件”が起きた。
「蔡さん、自分たちの分は自分たちで払わせてもらえませんか」と阿川氏が申し出ると、蔡氏は「駄目だ!」と一喝。だが、阿川氏も簡単には引き下がらない。
「払う!」
「駄目だ!」
「払う!」
「駄目だ!」
このようなやり取りを繰り返した揚げ句、最後に蔡氏が提案した。「ジャンケンポンしましょう」。阿川氏もこの提案に乗りジャンケン勝負となったが、結果は蔡氏の勝利。阿川氏は蔡氏にごちそうになったまま帰国の途に着いた。
その後、何度も台湾を訪れた阿川氏だったが「蔡さんに会えば必ずごちそうになってしまう」と思い、毎回訪問を伝えずにいたという。だが、週刊誌の対談で李登輝総統と台湾で会うことになり、さすがに「これは逃れられない」と対談後に蔡氏に電話した。
「なぜ黙ってきたか。夜を空けなさい」と蔡氏に言われた阿川氏は、「編集者とレストランを予約している」と返したが、「それはキャンセルしなさい」と蔡氏は譲らない。結局、阿川氏はレストランをキャンセルし、またまた蔡氏にごちそうになったという。
その後も、阿川氏の元には「いつ台湾にジャンケンに来るか?」という蔡氏の電話があったという。そんな蔡氏とのやり取りを懐かしむような表情を阿川氏は浮かべ、蔡氏への感謝ととともに、複雑な境遇にある台湾の人々への思いを述べた。
「どうして、こんなにつらい思いをしたり、悲しい思いをしたりした人が、今の日本人以上に日本人の心を残しているのか。私はもう一度、台湾にジャンケンに行かなければならなかった」
◆記憶力がずば抜けていた
付き合いの深かったマスコミ関係者も蔡氏の思い出を語った。目立ったのは、作家の司馬遼太郎が「台湾紀行」の取材で台湾を訪れた際のエピソードだ。同作品に博覧強記の「老台北」として登場したことが、蔡氏の名が日台で広く知られるきっかけとなった。
追悼の辞を述べた元産経新聞台北支局長の吉田信行氏は「蔡さんのことを日本に知らせた『第1発見者』ということになっている」と振り返った。
1991年末の「万年議員の引退」など李登輝政権下で台湾の政治環境が変化し始めるなかで、吉田氏はそれまで台湾で表だって語られることのなかった日本統治時代のことを台湾の人に語ってもらう記事の執筆を構想した。92年のことだ。そして、奈良教育隊にいた5人に集まってもらったが、そこにいたのが蔡氏だった。吉田氏は「それが蔡氏を日本で紹介した初めての記事になるだろう」と話す。
その後、司馬遼太郎が「街道をゆく」で台湾を取り上げる際、司馬氏の妻の福田みどりさんから「案内役を紹介してほしい」と吉田氏に依頼があった。そこで紹介したのが、他ならぬ蔡氏だった。
吉田氏は、司馬遼太郎が取材で台湾を訪れたときの、蔡氏との2人の様子が印象に残っていると話す。
「取材のマイクロバスで2人が話していると、内容の密度が濃くて周囲の人は口出しできない。蔡さんの記憶力はずば抜けていて感心した」
吉田氏は「蔡さんは親分肌でいて、それでいて非常に気を配られる優しい方だった。日本を激励し、日本を愛してくれたが、それ以上に台湾人を愛し、台湾を愛した方だった。本当に偉大な方を亡くした」と述べ、その死を悼んだ。
◆李登輝元総統からの弔辞
偲ぶ会では、台湾の李登輝元総統から送られた弔辞も披露された。李氏は「昭和2年生まれの蔡先生は、大正12年生まれの私とは4つ違い。同じく日本時代に生まれ、日本の教育を受けて育ったいわゆる『日本語族』だ」と書き出す。その上で「日本の皆さんを前にしてこうしたことを言うのははばかられるが、台湾が日本のことを思い続けているのに対し、日本はあたかも台湾の存在を忘れ去ってしまったかのような時代が長く続いた」と指摘した上で、蔡氏について「こうした台湾の『片思い』ばかりが続く日台関係に風穴を開ける、大きな功績を残された方の1人が蔡先生だった」と強調した。
李氏のメッセージは日本人にも語り掛ける。
「これほどまでに共通点の多い蔡先生と私だが、その底流にあるのは純粋な日本教育を二十歳前後まで受けて育った元日本人ともいうべき精神世界を有していること、そして日本の精神や文化を評価するとともに、日本のことがどうしても気掛かりで、どうか日本人にもっと自信を持ってほしいと心から願っていることに他ならない。蔡先生が日本の皆さんへ必ずといっていいほど呼びかけたのが『日本人よ、胸を張りなさい』だった。日本が自信を持ち、台湾とともにアジアを引っ張っていくことを強く望んだ蔡先生の心の叫びともいえるだろう。幸いにして、日本の皆さんはここへ来て少しずつ自信を取り戻してきているかのように見える。これはまさに日本人に自信を取り戻させることに晩年をささげた、民間外交官ともいえる蔡先生の功績だろう」
そして、李氏は「どうか日本の皆さんにはぜひとも蔡先生の思いを継いで、日本と台湾のために心を寄せてくれることを願っている」と結んだ。
◆「最後まで日本と台湾を愛した偉大な父」
会場には蔡氏の遺族の姿もあった。蔡氏の三男、清水旭氏(60)だ。日本国籍を持つ清水氏は「父は『三男坊が私のために日本人になったよ』といつも言っていた。日本に対する深い思いがあり、台湾を愛する父だった」と振り返った。そして「最後まで日本と台湾を愛した偉大な父だった」などと述べ、会場から大きな拍手を送られた。
偲ぶ会では参列者が「仰げば尊し」を斉唱し、蔡氏への感謝の思いを表した。
最後、閉会の辞を述べた杏林大名誉教授の田久保忠衛氏は、核問題を抱える朝鮮半島など激変が見込まれる東アジア情勢を踏まえて「日本と台湾は運命的に結びつけられている。この基礎を固めたのが蔡先生だった」と締めくくった。