産経新聞が大型連載「李登輝秘録」を掲載しはじめたのは4月3日。第1部は「虚々実々の両岸関係」10回(4月3日〜4月14日)、第2部の「日本統治下に生まれて」も10回(4月25日〜5月9日)。
そして、本日(6月18日)から第3部「政治弾圧時代の苦悩」が始まった。72年に農政担当の大臣である政務委員に抜擢された李登輝氏が、水面下で国民党政権に反発する民主運動家などと接触をはじめていた「45年から李が台北市長に就任する78年までの苦悩の日々を描く」という。
その第1回は「亡命運動家と日本で密会」と題し、台湾大学助教授時代に農政調査の一環で来日した折の1961年6月16日、台湾独立運動の先駆者で台湾語研究者の王育徳氏(1924年1月30日〜1985年9月9日)と密会したことを取り上げている。王育徳氏が残していた当時の日記の写真も紹介して
いる。
戒厳令下のさなかにあって、この密会は「特務機関に知られたら、逮捕は免れなかったはずだ」と記す。当然のことながら、政務委員への就任も後の民選初代総統も誕生していないだろう。逮捕どころか、死刑もあり得た密会で、それほどの危険を冒して李氏から求めて王育徳氏と会ったの
だった。
台湾独立建国聯盟主席となる故黄昭堂氏(1932年9月21日〜2011年11月17日)はこの密会に同席、その印象を「わざわざ日本で王育徳先生に会いに来た李登輝先生の胆力に驚いた。李登輝を『秘密盟員(秘密メンバー)』と認識するようになった」と明かしていることも紹介している。
実は、王育徳氏の著書『昭和を生きた「台湾青年」』(草思社、2011年4月)にこの密会のことが触れられていて、密会は6月16日の1回だけではなく2回あり、6月30日にも会っていた。
王育徳氏は2回目の日記に「彼のような快男児が台湾に百人おれば理想郷の建設は夢物語じゃない」と記したことを紹介している。
ちなみに『昭和を生きた「台湾青年」』は、王育徳氏の自伝だが、1924年に生まれてから1949年7月までの記述で、それ以降、1985年に亡くなるまでの記述は次女の王明理さんが「おわりに」として執筆している。ここに王育徳氏と李登輝氏の2回の密会についてつづられている。「李登輝秘録」とともに、併せて読まれることをお勧めしたい。