去る12月4日、終戦60年の節目の年を期して「台湾出身戦歿者慰霊祭」が靖国神社において斎行された。靖国神社に祀られている全台湾出身戦歿者を対象とした慰霊祭はこれまで行われていなかったようで、初の催しとなった。主催は、台湾李登輝学校研修団の卒業生で構成する「台湾李登輝学校研修団校友会」。

当日は、午後1時に参集殿に集合し、昇殿参拝・慰霊祭(祭文奏上:久保田信之・台湾李登輝学校研修団第1回団長)の後、靖国神社の特別のご配慮により遊就館にて「台湾全国少年飛行兵会会旗」を拝観、またここで蔡焜燦先生からの祭電を披露。

その後、靖国会館にて記念講話と懇親会が柚原正敬・日本李登輝友の会事務局長の司会進行により行われたが、開会冒頭に小田村四郎・日本李登輝友の会会長が来賓として挨拶。また、靖国神社とご縁が深い李登輝前総統と蔡焜燦先生からの心のこもった祭電が、それぞれ1期生の好田良弘氏と片木裕一・日本李登輝友の会事務局次長の代読によって披露された。

記念講話は、山口政治・台湾李登輝学校研修団第2回団長が「東台湾と靖国神社」と題して、続いて、石川公弘・台湾李登輝学校研修団第3回団長が「英霊との約束」と題し、それぞれ声涙共に下る講話で、参列者も真剣に聞き入っていた。

当日の模様は、早速その夜、メールマガジン「台湾の声」で掲載されたので、ここにご紹介したい。また、祭文、李登輝前総統と蔡焜燦先生からの祭電も併せてご紹介したい。

なお、当日の参列者からはこもごも「このような意義深い慰霊祭は来年以降も続けて欲しい」「靖国神社では永代神楽祭を受け付けているのだから、皆さんにご寄進をお願いしてそれも併せて行って欲しい」という声が挙がった。充分に検討に値する感想だ。

心にしみるいい慰霊祭だった。【本会メールマガジン『日台共栄』256号より転載】


台湾出身戦歿者慰霊祭 初めて日本人主催の台湾人英霊慰霊祭行われる

12月4日、靖国神社で「台湾出身戦歿者慰霊祭」が行われた。台湾人英霊を対象として日本人が主催する慰霊祭は今回が初めて。

この慰霊祭は、日本李登輝友の会を通じてこれまで台湾に3回派遣された「台湾李登輝学校研修団」の卒業生に呼びかけ、冷たい雨の中、60名近くが参加し、台湾英霊に心からの感謝を捧げた。

参加した台湾人留学生は、「お母さんが来日のたびに参拝しているので、友人を通じて申し込んだ」と語った。

本殿では、第一回団長の久保田信之氏が祭文を奏上し、60年間慰霊祭を行わなかったことを詫びた。また高砂挺身報国隊や台湾少年工について触れ、感謝を捧げた。また祖国のために努力することを学ぶべきだとし、将来を担う決意を報告した。

参加者は参拝後、今年、蔡焜燦氏を通じて奉納され現在遊就館で展示されている「台湾全国少年飛行兵会」会旗を見学し、第2回、第3回団長による講話を聞いた。

来賓挨拶に立った小田村四郎・日本李登輝友の会会長は「日台両国の絆を絶やしてはならない」と呼びかけた。また前日に開票された台湾の地方選挙について、台湾が中国に統一されれば日本にとって大きな脅威になるという懸念があるが、「一度覚醒した台湾人意識は滅びない」と指摘した。

李登輝・前台湾総統や蔡焜燦氏からはメッセージが寄せられた。李登輝氏は、遺族として靖国参拝の意向を表明するとともに、「お国のために亡くなった方々を慰霊するのは後世の者として当然」と、首相による靖国参拝を肯定した。

花蓮港出身の山口政治・第2回団長は、高砂義勇隊についてエピソードを紹介した。「(引き揚げで)台湾にみんな置いてきたが、心の財産は残っている」「(湾生ではなく)台湾を知らない世代がこんなにも台湾キチガイになってくれて嬉しい」と語った。

石川公弘・第3回団長は高座海軍工廠の台湾少年工についてのエピソードを紹介した。日本人妻を連れて台湾へ帰った高座会の総幹事は、鉱山を所有していたため国民党軍の複数の部隊に捕らえられ、その度に300万払ったという。台湾人は、自分が被害にあった話を、自分からは語らないという傾向を指摘した。その結果、台湾の歴史が清算されておらず、今回の選挙結果につながったとの見方を示した。

また、10月に「台湾少年工との60年」というテーマで、NHKラジオ深夜便「心の時代」に出演した石川氏は、台湾で日本人は謝罪する必要がないといわれたという話をしたところ、多くの反響があったとして、その中から特攻隊の出撃前日のエピソードを紹介し、若い参加者も涙をぬぐった。「靖国に祀られている人との約束を違えてはいけない」と結んだ。

懇親会では、日本李登輝友の会の柚原正敬事務局長が、午前中に蔡焜燦氏から電話が寄せられたことを紹介した。蔡氏は選挙結果について「神から賜った試練だ」と語ったという。

李登輝・前総統が5月に来日できるという見通しが明かされた。柚原氏は、現在、李前総統の来日には、「政治活動、講演、インタビューをしない」という制限が課されているが、ダライ・ラマも日本で自由に講演しているので、この制限を取り去って自由にすべきだと訴えた。

また、高座日台交流の会の野口毅会長が戦没した台湾少年工で靖国神社に合祀された名簿と、天皇陛下の裁可で合祀されることの重みについて語った。


【台湾出身戦歿者慰霊祭】 祭文(久保田信之・第1回台湾李登輝学校研修団団長)

本日、ここに、台湾出身戦没者慰霊祭を挙行せんと集いし我等は、李登輝先生のご人徳に心酔して人生の師と仰ぎ、先生の御心を我が心にせんと日々精進して居るものたちであります。

六十年もの長きにわたり、御霊祭りを主宰することなく打ちすごして参りました無礼を、先ずは、心より反省し衷心よりお詫び申し上げるしだいです。

思えば昭和十六年十二月、祖国日本の自存と東亜の安寧を求め、ぎりぎりの選択の下に米英に宣戦を布告して以来、諸先輩各位は等しく、国難を打開すべく、それぞれの立場・役割を十分に自覚して、必死の努力を続けて下さいました。

われらがここに、感謝の誠を捧げんとする台湾出身の軍人・軍属は、なんと志願倍率六百倍近くの難関を経て選抜された真に優れた方々であったと記録されています。

中でも、十七年二月に、五百名の「つわもの」が選抜されて「高砂挺身報国隊」と名づけられた義勇兵諸氏の活躍は、世界戦史に輝やかしい足跡を残して、現在のわれわれの心を強く打つものであります。

特筆すべき戦績は、三月のフィリッピンで展開されたあの激しくも苦しい第二次バターン攻略の時に残されています。

それは、単に軍紀を厳粛に守ったというだけではなく、襲ってくる激しい疲労や空腹をものともせず、衰弱した戦友(とも)を気遣い、ご自分の食料までも分け与えてくださったと伺っています。その鍛え上げられた敏捷性をフルに発揮されて敵を翻弄しながら道を拓き橋を架けるなど、戦況を有利に展開する任務を見事に遂行されました。

男誉れの舞台なら  何で命が惜しかろう  挺身奇襲がお手のもの
第一線の華と咲く  われらわれら高砂義勇隊
ジャングルなんか一跨ぎ  輸送任務に開発に  逞しいかな盛り上がる
胸には鋼の響きあり  われらわれら高砂義勇隊

こう口ずさんで、フィリッピンをはじめインドネシヤや南洋諸島の各地で勇敢に戦われ、そして尊き命をささげられたのです。

さらにまた、神奈川県大和の高座海軍工廠はじめ全国各地の軍需工場に派遣されて祖国防衛と安全の一翼を担ってくださった台湾少年工の存在と果たされた役割についても忘れることができません。

与えられた自由・民主・平和に安住しきった無気力な若者を、教育現場や家庭裁判所という修羅場で、日々、間じかに接している私にとっては、純粋無垢な十五六歳の少年工が、平和と繁栄のために、騒ぐ自分に打ち克って、命がけで貢献してくださったという紛れもない事実の重みに、ことのほか強く心を打たれます。

現在の日本に、祖国のために必死に努力する十五六の少年たちが居てくれるでしょうか。日本の将来を憂慮するとき、靖国の杜に合祀されている六十柱の少年工に象徴される当時の台湾少年工各位が示された尊い事実は、貴重な教材としてしっかりと語り継ぐ必要を再認識すべきでありましょう。

残念ながら、敗戦直後に書類が焼かれたこともあって、資料が限られ、今もその正確な数字はつかめていないようですが、各方面の努力により、台湾出身者にて先の大戦に従軍された方々は合計二十万七千百九十三名と記録され、二百四十六万余の御祭神とともに、ここ靖国の杜に祀られている台湾出身の英霊は、二万七千八百六十四柱であると承知しております。

この紛れもなき尊き事実は、現代を担うわれわれに大いなる感動と勇気を与えてくれるものです。われわれは誠の心をもって、感謝の気持ちを改めてあらわすとともに、将来をしっかりと担っていくことを、ここに集いし者すべてがお誓い申し上げます。

今は亡き周麗梅さん一行が、二〇〇二年四月三日に、日章旗を手に、ここ靖国の杜に昇殿参拝され、純粋な慰霊の気持ちをささげられたことも私共の記憶に新しいところです。

今回は我等「内地」の人間がここに集い、同じく純粋な慰霊の気持ちを表し御霊安らかなれと祈り奉り、末永く畏敬の念を持って偉業を語り継ぐことをお誓い申します。

最後に感動的な詩、二首をご披露して、私の拙い祭文を締めくくります。
かくありて 許さるべきや密林の 中に消えし戦友(とも)を思えば

本間雅晴
けなげにも務め果たせし少年工 散りしこの地にただ涙して佇つ

野口 毅

 平成十七年十二月四日

  学習院女子大学教授 日本李登輝学校・修学院長
第一回台湾李登輝学校研修団団長 久保田 信之


【台湾出身戦歿者慰霊祭】 李登輝前総統「祭電」

台湾出身戦歿者慰霊祭に寄せて

今年は終戦六十年の節目の年を迎え、この年に李登輝学校を卒業した皆様が中心となって「台湾出身戦歿者慰霊祭」を開催されると聞き、大変感銘を深くしております。

かつての大東亜戦争には私も京都大学の学生のときに学徒出陣し、台湾の高雄高射砲部隊に配属され、その後、内地の千葉県習志野の防空学校に移り、終戦は陸軍見習い士官として名古屋で迎えました。

この戦争では二百万人を超える日本人が戦死しており、その中には約三万人の台湾出身者も含まれております。私の兄の李登欽もその一人です。日本名を岩里武則といった兄はマニラで戦死しておりますが、海軍に志願し、左営の海軍基地に初年兵として配属されていたとき、私も高雄高射砲部隊に配属されましたので、二人で高雄の町で会って写真を撮ったのが最後となりました。

私も遺族の一人として靖国神社に参拝することを念願しております。私どもが現在の生あるは、まさに自らの命を顧みずに戦った父祖たちがいたからに他なりません。お国のために亡くなった方々を慰霊するのは、後世の者として当然のことです。その点で、一国の首相が自分の国のために命を亡くした英霊をお参りするのは当たり前のことで、小泉首相の靖国神社参拝に異議を挟む余地はありません。

私も総統の任にあった一九九〇年、台湾と日本の方々が協力して、台湾出身戦歿者の慰霊碑を台中の宝覚禅寺に建立するというので、一国の元首として心を込めて「霊安故郷」と揮毫しています。英霊を慰霊顕彰するのは当たり前のことなのです。

本日の慰霊祭には参列すること叶いませんが、台湾の地から英霊の方々に謹んで哀悼の意を表するとともに、皆様方のお志に感謝申し上げます。

 二〇〇五年十二月四日
前台湾総統 李登輝


【台湾出身戦歿者慰霊祭】 蔡焜燦先生「祭電」

台湾出身戦歿者慰霊祭に寄せて

今般、李登輝学校を卒業された日本の皆様が中心となって「台湾出身戦歿者慰霊祭」を開催されると聞き、大変嬉しく思います。本来であればなにをおいても私自身が駆けつけて参拝したいところですが、叶わぬことが残念でなりません。

台湾においては、昭和十七年に陸軍特別志願兵制度が設けられ、募集千人に対し四百倍を超える四十二万人以上の応募があり、翌十八年には約六百倍にも達しました。十九年には海軍志願兵制度も発足しましたが、十八年に少年兵募集があり、当時、彰化商業学校の学生だった私は喜び勇んで志願し、念願の少年航空兵に合格しました。軍の都合で実際日本へ渡ったのは昭和二十年に入ってからでしたが、後日、同じ船に李登輝前総統がおられたことを聞き大変驚きました。

昭和四十三年、仕事の出張で二十三年ぶりに日本の地を踏みました。終戦当時は焼け野原だったのが見事に復興している様を見て、大変喜ばしい気持になりました。それよりさらに嬉しかったのは、仕事関係で知り合った高島嘉道さんという方と靖国神社を参拝できたことです。高島さんのお兄さんはフィリピンで戦死され靖国神社に祀られているのですが、彼は常にお兄さんの写真を持ち、参拝時には涙を浮かべていました。当時、戦前の日本を全て否定するような風潮があったことに幻滅気味の私でしたが、「日本にはこんな素晴らしい男もいるのだ」と深い感銘を受けました。

本日は、皆様方の参拝と同時刻に台湾の地から英霊の方々に謹んで哀悼の誠を捧げます。皆様方のお志に感謝申し上げます。

 二〇〇五年十二月四日
蔡 焜燦