平成19年8月16日(木)~19日(日)41名(柳田敬一朗団長)
5月末に李登輝前総統が訪日されてから初めての開催となった「李登輝学校台湾研修団」。お馴染みの研修会場となった桃園県の渇望センターには、李氏ご一行が日本で訪れた日光の社寺がデザインされたパネルが掲げられ、研修団を歓迎した。
【8月16日・第一日】桃園国際空港で集合した第7回研修団の総勢41名はバスに搭乗し、一路台北市内へ。ガイドはお馴染みの李清興さん(勝美旅行社)。7回目ともなると2回目、3回目といった参加者も多く、和気藹々とした雰囲気。
最初の研修場所は5月に中正紀念堂から正名されたばかりの台湾民主紀念館。6月には「再見(さよなら)、蒋総統」の特別展示が開催されたが、現在は「臺灣自由化與民主化特展-邁向自由民主之路(台湾自由化と民主化特別展 自由民主の歩み)」。ちなみに、市内の一等地に君臨していた蒋介石の巨大な像は5月に既に撤去されたとのこと。元々、観光客集めのために行われていた衛兵交代も今はなくなり、以前に比べて閑散とした雰囲気。
ここでは、陳建中さん(大正12年生まれ)が案内役を務めて下さった。陳さんは普段、総統府や二二八紀念館でガイドを務めている日本語族。
陳さんは展示パネルを前に、日本統治が終わった直後から始まる蒋介石・国民党政権下の白色恐怖時代の悲惨さを語り、かつて学校で使われ、台湾人の”中国人化”を推し進めた教科書などの解説をしていただいた。
余った時間を自由参観にして一旦解散。陳さんに「どちらの生まれですか」と尋ねると、「すぐそばの東門の生まれです。日本時代は旭小学校というのが近くにありました」との答え。驚いた。今回の参加者の大場さん(千葉県)とさっきバスの中で「私は湾生(日本時代の台湾で生まれた人を指す)でね。東門の旭小学校にいたんだ」と聞いたばかり。すぐさまお二人を引き合わせると、「あそこにプールがあったでしょ」「そうそう」「あの○○とかいうお医者さんは?」「あぁ、他のところに開業しましたよ」「ボレロ(日本時代に開店した洋食屋)はまだあるかなぁ」など隣組の会話。世間は狭い。別れ際、陳さんの「台湾はやっとここまで来ました。日本の皆さん、台湾を応援してください」の一言が肺腑に響いた。
台湾民主紀念館を後にした一行は、立法院の見学へ。こちらでは立法院の「トップ」からご挨拶いただけるとのこと。
立法院の紹介ビデオを視聴した後、立法院のトップ=王金平・立法院長から直々の歓迎挨拶をいただくことに。当初、スタッフの間では「5分、10分程度だろう」との憶測だったのが、なんと30分近くに渡り、立法院の現状や来年1月に控える立法院選挙に伴う定数半減についてご説明いただいた。また、その後の質疑応答でも非常に丁寧にお答えいただき、終わってみれば1時間近く。非常に濃厚な1時間だった。
その後、台湾料理の名店「度小月」で夕食を摂った一行は、台湾名物の代表格、担仔麺や魯肉飯に舌鼓。明日からの講義に胸を馳せ、宿泊先の圓山大飯店へ投宿した。
【8月17日・第二日】圓山大飯店に宿泊した一行は、午前8時30分にホテルを出発。まずは日本時代の偉容を今に残す総統府の見学。一定期間ごとに展示を変更しており、幾度となく訪れてもその度に発見があり、学ぶことの出来るスポットだ。日本と台湾の絆を知るのに最適な場所であり、グルメやショッピング目当てで台湾を訪れる日本人も、ここだけは訪れて欲しいものだ。
今日も、見学に訪れた私たち一行を日本語族のガイドさん2人が案内してくれた。総統府1階には、日本時代の総督19人、独裁体制を敷いて台湾をほしいままにした蒋親子、そして李登輝前総統、陳水扁現総統に関する展示物が時代順に並べられ、併せて八田與一や「台湾水道の父」と呼ばれるウィリアム・バルトンの成し遂げた事業を紹介するパネルも展示されている。
ガイドさんは、それぞれの展示を丁寧に解説してくれるが、やはりガイドさん自身の日本時代の思い出や体験談を語っていただけることが何より貴重だ。旅行の一端として総統府の見学に訪れた際、ガイドさんの口から日本時代を含む「生の歴史」を教えられ、「今まで学校で習ってきた歴史は何だったんだ」と愕然とする日本人も少なくない。かく言う私がその一人だ。初めての台湾旅行でガイドについてくれた一人のおばあちゃんに出会ったことで、もはや台湾から「足が洗えなく」なっている。90分程度の見学を終えると、参加者からは「時間が足りない。次回はもっとじっくり見たい」「展示がたくさんあり、密度の高い見学が出来た。また来たい」などの感想が口々に飛び出した。
続いての見学地は、台北市公館にある水道博物館(中国語では自来水博物館)。最高学府・台湾大学にも程近いこの博物館は、淡水河沿いで緑が多いことから、結婚を間近に控えたカップルが記念写真を撮影する際の人気ナンバーワンスポットになっていると、ガイドの李さんの説明。事実、博物館前の芝生ではタキシードとウェディングドレスに身を包んだカップルが撮影の真っ最中。通りがかりの一行から「おめでとう!」と声を掛けられたカップルは笑顔で応えていた。
ここは以前、台湾初の水道施設として日本時代に整備された場所で、老朽化と新しい設備の建設に伴い、その役割を終え、1993年に台湾水道の歴史を語る博物館として公開されたもの。
「台湾水道の父」として知られるのは英国人ウィリアム・バルトンと助手の浜野弥四郎。日本が台湾を領有した当初はマラリアなどの疫病が蔓延しており、命を落とす人も少なくなかった。台北をはじめとして都市部の上下水道の整備が進むにつれ、伝染病等は減少していったが、皮肉なことに当のバルトン自身がマラリアにかかり日本に帰還するも治癒せず死去。台湾の上下水道の整備を始めて3年目だった。その後を継いだ浜野弥四郎によって事業は進められたが、完成を見たのは実に23年後のことだそうだ。
台湾には「飲水思源」という言葉がある。この博物館の入口にも飾られていた。この言葉に出会ったのは今年の6月5日、秋田県田沢湖畔でのことだ。奥の細道を辿る旅に出た李登輝前総統は、田沢湖畔に建てられた「飲水思源」の碑を見学された。田沢湖と台湾・高雄の澄清湖が1987年に姉妹湖締結した際、台湾自来水公司から記念に贈られたもの。
李登輝前総統が碑文を熱心に見学されていたのを覚えている。その後、 台湾報道陣に向かっては台湾語で、日本の報道陣には日本語で、「”飲水思源”とは、その昔、水を得るときには川や池から引いてきていたが不衛生だった。今、本当に便利になって、安全に水を使うことが出来るようになった。だから、水を飲むときは、先人の苦労と水の大切さに思いを馳せなくてはならないという戒めだ」と自ら説明をされた。
まさにその先人の苦労が偲ばれる水道博物館。役割を終えたポンプも大切にされていると見え、綺麗に磨かれて展示されている。
充実した午前の見学を終えた一行は昼食へ。小籠包の名店「鼎泰豊」の前では順番待ちの客が数珠繋ぎ。予約をしていたお陰で15分ほどの待ち時間で入店出来たが、1時間以上待つのもしばしばだとか。
ちょうど昼食を終えた頃から雨が落ち始めた。大型台風が近づいているのだ。夕方からは交通に影響が出るかも知れないとのこと。スタッフ側で協議し、講師の先生が来られなくなる可能性もあるので、開講式は後回しにし、講義を前倒しして始めることとした。本格的に降り出した雨の中、一行を乗せたバスは台北市を後にして、一路研修所へ向かった。バス内では、台湾李登輝学校のスタッフから人気店・冰館(アイスモンスター)の「マンゴーかき氷」が振舞われた。
研修会場はお馴染みの桃園県龍潭にある渇望学習センター。一行は到着後、すぐに林明徳先生(国立台湾師範大学歴史研究所教授・ 中央研究院近代史研究所研究員)の講義「台湾主体性の追求」を開始。台湾の歴史をわかりやすい日本語で語る林先生の講義が終わると、意気盛んな研修生から次々と質疑の手が挙った。
その一人、滋賀県から参加した竹市敬二さんは今回でなんと6回目の参加。日本時代の台湾に生まれ、戦時中は海軍だった竹市さんは、スタッフから「竹じい」の愛称で親しまれている。とても80歳を過ぎているとは思えない竹じいは今回も元気。逆に我々スタッフに「ご苦労さん」と常に声を掛けていただくなど気配りに頭が下がる。
一つ目の講義は無事終了したものの、大型台風はいよいよ風雲急を告げており、ますます勢いを増しているとのこと。このまま夕食を挟んで講義を続行。次の講師・黄昭堂先生(台湾独立建国連盟主席・昭和女子大学名誉教授)が到着次第、講義を始めるという慌しさだ。
「台湾の対日・対米政策」と題された黄昭堂先生の講義が始まったものの、のっけから「皆さん、何だか来年初めの立法院選挙と総統選挙の方に関心が高そうなので、テーマを変えましょう」と太っ腹にも方向転換。黄先生独特の名調子で笑いを交え、来年の選挙への展望と、台湾の選挙事情を講義された。質疑に際しては数多くの手が挙がり、やはり選挙への関心の高さが伺えた。
黄先生も無事に帰途につかれ、第2日目の講義はこれで終了。台風が来ていようと来ていまいと、周囲に出掛けるところは何一つない渇望学習センター。有志は階下のコンビニでビール等を仕入れ、同期生との友好を深めた様子。
【8月18日・第三日】今日も台風が居座っている。残念ながら講師の先生が来られない等の事情から幾つかの講義予定を変更。午前中は、李登輝前総統が推進した台湾の民主化の軌跡を辿るDVD「台湾民主化之道」を鑑賞。2時間余りの記録映画だが、研修生はしわぶき一つなく映像に見入っている。民主化推進の陰に多くの反対勢力を抑え、無血革命を成し遂げた李登輝前総統の偉大さの一端を垣間見ることの出来る素晴らしい映像だ。残念ながら、このDVDの監修をされた張炎憲先生(国史館館長)は台風のために桃園の研修所まで来られず、鑑賞のみに留まったが、ここで嬉しいハプニング。
周知の通り、台湾は戦後長らく蒋介石・蒋経國親子の独裁体制により「白色恐怖(テロ)」という暗黒の時代が続いた。その最中に青春を送り、社会に出、いま私たちのガイドを務めていただいているのが勝美旅行社の李清興さんだ。その苦しい時代から李登輝前総統の民主化時代までのエピソードを昼食までの時間、李さんに語ってもらおうというわけだ。
戒厳令下に青春を送り、日本に関する書籍や新聞などが手に入りにくい中で、台湾を訪れた日本人の発音を聞いて必死に日本語を習得したという李さんの日本語はやや関西なまり。当時多かった関西からの旅行客の日本語をそのまま身につけたから「もう直せない」と李さんも苦笑い。その達者な日本語で時にユーモアを交えながらも、やはり今思い出しても苦しかった国民党時代の思い出と、民主化を成し遂げた李登輝前総統への感謝の言葉で李さんの“緊急講義”は幕を閉じた。
午後はタイヤル族出身の馬薩道輝先生「台湾原住民の発展」でスタート。岬の外れに住む馬薩先生は、台風で船が出ないために講義が危ぶまれたが、何とか波が治まったということで奥様を伴って駆けつけてくださった。
続いての講義は迫田正敏先生(前東京新聞台北支局長)による「日本人の台湾生活経験」。実は迫田先生、最終日の午前に講義が予定されていたのだが、台風の影響で予定されていた講師の先生が来られず、急遽前倒ししての実施。「今夜は台風なので明日の講義の準備をするのにはちょうどいい」と思っていたところへ「何とか前倒しを」との連絡が来たということで苦笑い。
講義では、支局長として台湾で生活した経験から、今も台湾に残る日本の断片を紹介したり、なかなか分かりにくい選挙の内幕、特に海外では全く報道されない里長(行政の最小単位・町内会長のようなもの)選挙などについて語っていただいた。
夕食を挟み、迫田先生も聴講して夜は黄天麟先生(元第一商業銀行頭取)の講義。元々は羅福全先生(前亜東関係協会会長)との対談が予定されていたのだが、台風のために単独講義に変更。紳士然とした佇まいはさすが財界の重鎮の雰囲気。
明日は研修最終日。台風も夜半には抜けるとの予報。李登輝校長の講義に胸を膨らませて床につく。
【8月19日・第四日】予報どおり台風一過。いよいよ李登輝校長の特別講義である。本来ならば開講式でご挨拶いただく予定だった郭生玉教頭先生の講話や、お世話になった渇望学習センターの方々の紹介が進み、いよいよ李校長が到着。白内障の手術を受けてから初めて公の場に姿を見せるということで、台湾のマスコミも集まってきている。午前十時過ぎ、パトカーに先導されて李登輝校長が到着。悠々とした足取りの李校長は、目を保護するためにサングラスをかけているものの、出迎えた私たちに「ご苦労さん」と大きな手で握手をしていただいた。
そして特別講義開始。「5月の日本訪問は大成功だった。靖国神社で兄に会うことが出来たし、奥の細道を半分だが歩くことが出来た。いつの間にか東京湾があれほどまでに綺麗になっていて驚いた。高速道路にもゴミひとつ落ちていない。進歩の中にも伝統を失わず、これほどまでに発展できた国は日本だけだろう」と語り始めた李校長が繰っているのは、原稿用紙にご自身で手書きされた原稿。
仄聞するところによると、李校長は常に旧仮名遣いの日本語原稿をご自身で書き起こされるという。汲めども尽きぬ講義の内容は訪日後の感想から日本文化、そして台湾の現状に至るまで多岐に亘り、いつの間にやら予定の90分が経過。「もう少ししゃべらせてよ」と漏らした李校長に一同から拍手。
その後、研修団の最後を飾る修業式。ここでは李校長自ら、一人一人に修了証書を手渡していただく。修業挨拶では「実はこれが一番言いたかったことなのだが」と前置きして話されたのは「現状のまま推移すると、米国と中国が台湾を共同管理しましょうという話が出てくるかもしれない。そうなってからでは遅い。そのためには早く、この台湾に住む人々が“私は台湾人だ”、“台湾は台湾人のものだ”という強いアイデンティティを持たなければならない。そうしなければ台湾は呑み込まれてしまう。」強く語る李校長の迫力には一同圧倒。「台湾共同管理案」というショッキングな話題には、空港へ向かうバスの中でも一頻り研修生からの意見が飛び交った。
私自身はじめて参加した研修団であったが、これほどまでに濃密な研修を今まで六度も見逃していたことを思うと何とも悔しい。一生の宝になる研修といっても過言ではない内容なのでぜひ参加されることをお勧めする。
なお、今回の李登輝学校で李校長が講演されたことが台湾で報道されている。(早川友久)