平成22年9月23日(木)~27日(月) 22名(薄井保則団長)
李登輝元総統「尖閣は日本の領土」
黄昭堂主席「領土を守る決意のない国に所有権を主張する権利なし」
9月23日から開催された第14回を迎える日本李登輝学校台湾研修団は27日、李登輝校長の講義と修了式を終え、無事に5日間の日程を終えました。研修は淡水での講義のほか、台中近郊での野外研修も実施されました。
今回は、日中が尖閣諸島問題で揺れるさなかの開催でした。24日午前の講義では、黄昭堂・台湾独立建国連盟主席が「従来の日本政府は弱腰だったが、今回はよくやっている。頑張ってほしい」とまで発言されたのに、その午後には「船長釈放」との速報。ガッカリされる黄主席を思うと何ともやりきれません。
李登輝元総統も講義で「尖閣は日本の領土」と何度も明言。覇権主義を露わにする中国に対抗するため、日本と台湾の李登輝学校卒業生(台湾側およそ2000名、日本側およそ400名)がもっと声を上げていかなくてはならない、などと述べられました。
第14回台湾李登輝学校研修団レポート 日月潭に日台交流の証を見た!
本会事務局 佐藤 和代
14回目になる台湾李登輝学校研修団(薄井保則団長・反町佳生副団長)は9月23日から27日の四泊五日の日程で行われた。今回は平均年齢45歳という若手メンバーだったこともあり、22名と少数ながら活気に溢れていた。折しも24日に、尖閣諸島沖で漁船を衝突させた中国人船長を日本政府が釈放するというニュースが入り、講義でも話題となった。野外研修では日月潭や埔里、霧社等を訪れ、日台の関係の深さを改めて感じた旅となった。
■第1日・9月23日(木) 研修生は台北県淡水のホテルで集合し、徒歩で5分ほどの研修所である群策会ビルへと向かった。郭生玉氏の後任として就任された王燕軍秘書長から歓迎の挨拶を受けた。李登輝先生の護衛も務められた体格の良い壮年の男性だ。特別ゲストとして阮美姝さんも挨拶された。阮さんは二二八事件の真相解明に粉骨砕身された方で、ご尊父を二二八事件で亡くされている。
最初の講義は黄天麟先生(元第一商業銀行頭取)の「台湾の経済情勢(ECFAの内容と問題点)」。ECFAの締結にあたり中国は「台湾が大陸に工場をおけば関税はかからずアセアン+1で東南アジアに輸出できる」と台湾に甘言で迫った。しかし中国に寄れば呑みこまれ、台湾国内は空洞化が起こって国力が落ち、防衛力の低下を招く。周辺化である。日本が提唱した「東アジア共同体」に中国が入れば日本は周辺化されるだろう、と懸念を述べられた。日本にとってはアメリカも入れた太平洋共同体が望ましいとのこと。
講義終了後、王秘書長や阮さんも同行され、一行は淡水のレストラン「紅楼」へ向かった。美味しい食事と紹興酒で何度も乾杯の声が上がった。
■第2日・9月24日(金) この日は朝から講義が四つあり、夕方には新幹線で台中へ向かう。
最初の講義は黄昭堂先生(台湾独立建国聯盟主席)の「台湾の政治情勢」。尖閣諸島の領有権を日本が主張する際には、それに伴う行動が必要。島に人を送る、自衛隊の配備等、実行支配することが大事だ。尖閣問題の解決法としては、日米安保を強固にすることで中国を抑制するのが得策。また日本と台湾は今後も良い関係を保つ必要がある、と力説された。
次の講義は鄭清文先生(小説家・童話作家)の「台湾の文学」。国民党政権になり、台湾人から台湾の記憶や意識を奪う洗脳教育がなされている。。しかし、台湾文学は郷土の抵抗の歴史を写実的に描く。そこに住む者に歴史を伝えるのが文学者の運命と説かれた。
午後の講義は、研修団初登場の何瑞藤先生による「日本統治時代~現代までの台湾文学・経済の変遷」からスタートした。何先生は1994年、台湾国立大学に日本語学科を設立され、今年4月に日本政府より「旭日中綬章」を授与された。講義では、日本は台湾の近代化に努め、台湾は「日本精神」(勤勉、忠実、清潔、礼儀など)を学びとったこと、今後も同じ価値観を持つ国同士、相互関係の強化が必要であると述べられた。
この日最後の講義は呉明義先生(慈済大学人類学研究所招聘教授)の「台湾原住民の歴史」。台湾原住民の発祥地について、「海外発祥説」(イベリア半島から出発した原始人が南洋に到着した)、「大陸発祥説」(タイヤル族が大陸の原始的な習慣や制度を継承している)、「本地発祥説」(台湾本島から原始民族が発祥した)の三説があり、また原住民はキリスト教の影響を受けていることを説明された。
その後、研修団一行は台中へ。夕食は「香薫新楽園」にて。建物の中は約60年前の街並みが再現。台湾東海大学の王良原先生もご一緒した。
■第3日・9月25日(日)この日は一日中、野外研修である。最初に南投県の日月潭の北側に位置する魚池茶業改良場(行政院農業委員会茶業改良場魚池分場)へ向かった。
台湾の紅茶は戦前、日本の農林省の新井耕吉郎氏がこの地で改良を施し、良質の紅茶を作ったことに始まる。山道からは大きく育った茶の木や茶畑を眺めることが出来た。
良質の紅茶は「一芯二葉」といって茎の一番先端にある芽の部分とすぐ下にある2枚の若葉を摘み取って作ること、お茶は種が落ちて発芽したものは親の木と全く違った性質になり、こうした異なったものを交雑させて良い品種のものを改良するのだそうだ。
新井耕吉郎紀念碑に団長と副団長が焼香、拝礼、研修生もそれに続いた。木造三階建の紅茶の加工工場も外から見学した。築73年で現在も使われている。
松木幹一郎の胸像は日月潭のほとりにある。松木氏は台湾電力社長を務めた。
日月潭は水里に設けられた発電所に水を送り込むための水瓶だ。日月潭は日本と台湾の縁の地であったのである。
次に訪れたのは集集線の集集駅である。集集線の開通は大正10(1921)年。水里の発電所の資材運搬を目的としていた。集集駅は1999年の九二一地震で倒壊したが復元された。「九二一地震教育園区」は地震災害を受けた学校をそのまま博物館にしてしまった施設だった。
■第4日9月26日(日)最初に宝覚禅寺を訪れた。入口の左手に日本人墓地(日本人遺骨安置所)がある。ここに台湾中部と北部で物故した日本人の遺骨が収納されている。研修生はその碑に献花・拝礼した。
境内には「英魂観音亭」があり、その側に李登輝元総統の雄渾な揮毫による「霊安故郷」の慰霊碑もある。ここでも献花し拝礼した。
白い巨大建造物の中に埋もれるように「宝覚禅寺」と書かれた茶色の本堂が建っている。本堂の右奥へ行くと、高さ30メートルの巨大な弥勒大仏が鎮座していた。金色に輝き満面の笑みを浮かべている。一瞬ぎょっとした。
次に「霧社事件紀念公園」を訪ねた。入ってすぐに霧社原住民抗日の像がある。「抗日英雄 莫那魯道」の像、さらに上に「霧社山胞抗日超義紀念碑」もあった。
霧社事件とは、日本統治下の台湾に起こった武装蜂起事件である。昭和5(1930)年10月27日早朝、武装した原住民の青年達が学校を襲撃、運動会で集まっていた日本人132名を惨殺した。リーダーはモーナ・ルダオ(莫那魯道)。この事件の背景には日本人警察官と現地人との諍いや強制的な労役への不満があったようだ。戦後、国民党政府は事件関係者を抗日義士と呼び、政治利用した。
次に向かったのは埔里。台湾島の中央に位置することから、台湾の「へそ」ともいわれる。「台湾地理中心碑」を見学した。また埔里一帯は上質の清水が湧き出しているため、醸造業が発達した。「埔里酒廠」にも立ち寄った。
その後一行は淡水に戻った。
■第5日・9月27日(日) とうとう最終日。蔡焜燦先生のお話と李登輝先生の特別講義がある。
李登輝民主協会理事長の蔡先生は同会理事の李雪峰さんを伴われて登場。蔡先生のお話は65年前の今日、昭和20年9月27日について。昭和天皇がマッカーサーと会見した日で、マッカーサーははじめ天皇が命乞いに来るのだと思っていた。しかし天皇はご自身の命に代えても国民を救いたいと述べられたのだった。マッカーサーは骨の髄まで揺すぶられるほど感動したという。この日を記憶に刻みつけよう、と述べられた。
李雪峰さんは台湾高座会の会長でもある。台湾高座会とは昭和18年春から終戦まで、現在の神奈川県大和市を中心とした高座郡に建てられた高座海軍工廠で働いた台湾の少年工出身者で作られた組織だ。高座海軍工廠では当時最優秀といわれた戦闘機「雷電」を製造した。李さんは当時の仕事や仲間のことをお話下さった。
李登輝先生は李登輝学校をテーマに卒業生の活用や、台湾や日本の政治がいかにあるべきか、そして台湾の民主化の道を途切れさせないよう人材育成や組織化を進めていることをお話下さった。
台湾は現在国民党政権下にあり、政治統制の時代に戻ってしまった感がある。しかし台湾の主権は2300万の台湾の人民が握っていることを忘れてはならない。民主化推進のため、台湾李登輝学校卒業生の組織化をはかり、養成された講師が李登輝精神を民間の末端まで伝え、台湾の文化を守るチームを結集している最中だそうだ。
また、尖閣諸島は日本領土と言明。しかし、台湾の漁民がかつて尖閣沖に漁に来ていたことを考慮し、ライセンス発行などの対応策を講じてほしいと希望された。
最後に李先生は「我々は協同してアジアの平和を築き、日本精神をもって日台の心の絆を作り上げていきましょう。皆様には台湾と日本のために貢献して下さるよう期待しています」と述べられ、研修生は今後もこの李先生の言葉や表情を思い起こすことだろう。
最後に群策会はじめご協力いただいた方々に感謝申し上げたい。