平成23年5月7日(土)~11日(水) 39名(松澤寛文団長)
第15回目となる日本李登輝友の会の「台湾李登輝学校研修団」は、5月7日から11日の4泊5日の日程で行われました(事務局 佐藤和代)。
団長は研修団一期生で理事の松澤寛文(まつざわ・ひろぶみ)さん、副団長はこれまで3度参加している齋藤眞博(さいとう・まさひろ)さん。そして20代から80代(最年長は88歳)の個性的な39名が台湾の地に集合しました。今回は女性参加者が9名で、回を重ねるごとに増えているように思います。女性の私がいうのもおかしいかもしれませんが、女性がこれだけ入ると、研修団の雰囲気もよくなっているような気がします。
3月11日の東日本大震災から約2カ月。大きな痛手を受けた日本に台湾はすぐに支援の手を差し伸べてくれました。義捐金も世界一。困った時に助けてくれる友人が真の友人と言われますが、まさに台湾はその通りの親友の国です。
今回の研修団には、被災地宮城から痛みを背負いつつも2名が参加しました。台湾への感謝と日台の繋がりの深さを学ばれたようです。
2日目と3日目は野外研修で、烏山頭ダムを訪れた後は澎湖島へと向かいました。第12回研修団で金門島に行きましたが、それに続く離島巡りです。烏山頭ダム、澎湖島ともに日台の絆をしみじみと感じました。
先生方のご講義も充実していました。講師陣はベテランの方から初めてお招きした方まで多様であり、お話から台湾の新たな面を教えていただきました。
ただ一つ、そして最大の落胆は、李登輝校長の休講でした。研修団が訪れる直前にお風邪を召されたのです。ご高齢であり無理は禁物で大事をとられました。研修団一同がっかりしましたが仕方ありません。気を取り直し、そして一日も早い李登輝校長のご回復を祈りつつ、研修へと臨みました。
■ 第1日目(5月7日) 李登輝校長の休講に落胆するも
日本各地そして台湾から研修生が宿泊先である新北市淡水のホテルに集合し、研修の行われる群策会ビルへと向かいました。
始業式では群策会の王燕軍・秘書長より挨拶をいただきましたが、その際に李登輝校長の休講が告げられました。一同落胆したことは最初に述べた通りです。
最初の講義は、李明峻先生(新台湾国策シンクタンク副執行長兼研究部主任。専門は国際法、国際関係論、国際政治史)の「アジア新情勢における台日関係」です。
世界の中心になりつつある東アジアは未だ冷戦状態で、台湾の位置は中国からの脅威を受けざるを得ない運命にあり、台湾と日本は運命共同体にあるのだという内容でした。
李明峻先生の持論は「台湾の国連加盟をまず達成し、その後、主権国家と認められるよう努力すべき」というものです。それに対して研修生の1人が「国連に加盟できるのは、そもそも主権国家なのだから、それは順番が違うのではないか」との疑問が出されました。
しかし、李明峻先生は、国家として承認されることと国連加盟の違いについて、コソボや北朝鮮の例を挙げ、コソボはアメリカやイギリス、日本など70カ国が承認しているのに国連に加盟できていない、一方、北朝鮮はアメリカや日本は承認していないものの74カ国が承認して国連に加盟している、だから台湾も国連加盟をまず目指すべきと理由を述べました。
その後、研修団一行は研修会場から程近い夕食会の会場の海鮮料理のおいしい「海中天」へ。そこへ、前日帰国されたばかりの阮美姝さんが出席されました。80歳を過ぎてなお若々しく、女性なら誰でもが憧れる存在でもある阮さんです。2・28事件の真実の究明に半生を捧げた阮さんですが、音楽、ドライフラワーなどの芸術にも通じ、いつも話題が豊富なので、人気者です。今回の研修団では3回もお姿を見せられることになりました。
■ 第2日目(5月8日) 八田與一技師の墓前祭に参列
この日は終日野外研修で、烏山頭ダムで八田與一技師墓前祭に参列後、澎湖島へと向かう日程です。
研修団は朝7時半にホテルを出発し、最寄り駅である「紅樹林」まで各人2泊分の荷物を持って歩きました。ここから台北まで約40分、台北からは台湾高鉄(台湾新幹線)に乗り嘉義まで約一時間半の旅です。嘉義からはバスに揺られて40分。旅は順調に進みました。
八田技師記念館に向かう途中、蔡焜燦先生ご夫妻が乗られた車と出会いました。蔡先生は午後からの墓前祭に来賓として出席されます。蔡先生は顎鬚をたくわえていらっしゃいました。3月の当会総会の際に台湾とインターネット中継したときにも御髭を伸ばしていらっしゃいましたが、この理由は研修団最終日に明かされることになります。
私達はまず「八田技師紀念室」(記念館)を見学。こじんまりとした館内には、ダム建設過程のパネルや八田技師関係の写真、着物、書類(史料)が展示されていました。折よくDVD上映もされ、八田技師のダム建設での苦労や家族について解説、また台湾の方々が語る八田像が描かれていました。映画「パッテンライ」でも八田技師がいかに現地の人々と心通わせ、作業員とその家族を思っていたかが分かります。
八田與一は明治19年2月21日、石川県に生まれました。東京帝国大学土木工業化を卒業と同時に台湾総督府土木課に奉職しました。その後、諸外国を視察して回り、最新の技術を学んでおり、その研究中に台湾第2の平野、15万ヘクタールにも及ぶ嘉南平野の惨状を知ることになるのです。その頃の嘉南平野は、雨期は氾濫した水に侵され、乾期には旱魃という不毛の地でした。ここに安定した水を供給する灌漑用施設を、つまりダムと水路を設計したのが八田技師であるのは皆さんご承知の通りです。八田氏が「嘉南大圳(かなんたいしゅう)の父」といわれる所以です。
ダム建設過程においては作業員が事故で多数亡くなるという惨事もありました。そうした苦難を乗り越え、着工から10年後の昭和5年(1930年)5月に烏山頭ダムが完成したので
す。
ダムの完成から12年後の昭和17年5月。大東亜戦争の最中、八田技師は軍からフィリピンの綿作灌漑調査を命じられ広島より大洋丸に乗り込みます。5月8日、その船がアメリカの攻撃に遭い、あえなく沈没してしまうのです。
烏山頭ダムを望む小高い丘に、右膝を立てつつ左足は伸ばして座り、肘を突くようにして考え込むような作業着の八田技師の像があります。命日であるこの日に墓前祭が行われるようになり、いつもは静かにダムを見つめる像の周りは花で飾られ、その後に控えるお墓にも菊の花が供えられます。祭壇が置かれ、沢山の果物や台湾独特の紙札が供えられています。
墓前祭会場の近くのレストランで昼食を済ませた研修生は、受付で記帳をし、献花用の白い菊の花と八田氏のポスターを受け取りました。
会場は紅白のテントが設置されていましたが、その縁とそれに繋がる斜面に、河津桜の若木が植えられており、若芽が伸びていました。これは李登輝民主協会が植樹した苗木で、当会の桜募金によって李登輝民主協会に寄贈されたものです。日本の桜が台湾の地で根付いているのを見て、また感慨深く思いました。
午後2時過ぎに墓前祭は始まりました。まず3人の尼僧によって読経がなされます。その後、日本からの墓参団が次々に焼香・献花をしました。「八田技師を偲び嘉南と友好の会」の中川外司(なかがわ・とし)氏も参列されていました。
この日は午前中に「八田與一紀念公園開幕式」も執り行われ、馬英九総統、森喜朗・元首相ら日台双方の要人、関係者多数が参加したそうです。馬総統は「八田氏が人生のすべてを台湾にささげた功績は非常に大きく、紀念公園を台湾と日本の懸け橋にしたい」と演説したそうです(5月9日付け産経新聞より)。研修団は午後からの墓前祭に参列したので、馬総統や森元首相の姿を拝見することはできませんでしたが、後で紀念公園を訪れた時にその盛大さを伺い知ることになります。
さて、墓前祭では八田技師のご親族による献花もありました。一通りの来賓の紹介が─李登輝民主協会理事長の蔡焜燦先生や台北駐日経済文化代表処前代表の許世楷先生もご紹介─されました。
多数の来賓挨拶の中で、八田技師のお子さんで、8人兄弟の6女、末娘にあたる茂子さんのお言葉が印象的でした。「昭和6年生まれの私は、ダムが完成してから台北で生まれ、80になります。石川県出身となっていますが、私にとって台湾は故郷だと思っております」
「昭和42年に墓前祭が行われていることを聞き、それから何度か足を運んでいますが、来るたびに盛大になっているように思います。皆さんが父をこんなにも慕って下さることに感謝しております」。参列者の胸に響くお言葉でした。
その後、わが研修団も団体として名前を呼ばれ、蔡焜燦先生や許世楷先生と一緒に献花をするという光栄にも預かりました。
墓前祭は午後4時前に終了し、研修団は八田與一紀念公園の方にも行きました。式典は終わっていましたが舞台では名残惜しそうに踊っている人々、舞台の周りや会場のあちこちに鮮やかな生花が活けられていました。
この日を目指して、八田技師住居の復元、そしてダム建設の関係者らの住居の復元もなされました。八田宅を中心に、市川及田中宅、赤堀宅、阿部宅が並んでいます。住居復元には大変な苦労があったようです。八田宅は復元前は基礎しか残されていなかったため、企画チームは日本の八田氏の遺族を訪ねて当時の写真や手書きのスケッチを入手し、それに合わせて歴史的な資料や周辺の建物を参考に復元設計を進めたそうです。
研修団は公園内を散策した後、次の研修地・澎湖島へ向かいました。
■ 第3日目(5月9日) 澎湖島で黄天麟先生と林麟祥先生の講義を拝聴
前日(5月8日)の夕刻に到着した澎湖島。烏山頭ダムを後にした研修団は台南空港から50人乗りのプロペラ機に乗り込み、30分足らずの空の旅を過ごし馬公空港に降り立ったのでした。
澎湖島は台湾本島から約150キロ。澎湖本島、西嶼、白沙の三島で巴の形をなして湾を形作っており、その周りに小島が点在しています。澎湖群島ともいわれ、島の数は64にもなるそうです。澎湖は歴史的遺産、海のレジャー、自然の風景が楽しめ、海産物の本当に美味しい島です。一日ではとても全てを堪能することは叶わず、研修団は台湾と日本をつなぐ歴史的遺産を中心に訪ねることになりました。
■ 澎湖生まれの黄天麟先生のご講義
この日は、黄天麟(こう・てんりん)先生と林麟祥(りん・りんしょう)先生のご講義を拝聴した後、澎湖島巡りの予定です。研修団が宿泊した長春大飯店の食堂が研修室に早変わりし、お二方のご講義をお聞きしました。
最初に黄天麟先生のお話です。黄先生は第一商業銀行の頭取、会長を歴任され、その後、李登輝先生の総統時代には国家安全委員会諮問委員を務め、民進党政権の8年間は総統府国策顧問をお務めになった台湾経済界の重鎮です。
先生は1929年(昭和4年)8月、澎湖本島の馬公市に生まれ、子供時代を過ごされましたが、島には中学校がなかったため、台湾本島に渡り台南二中(戦後は台南一中)に進学されました。その後、戦争になり島には帰れず、戦後は台湾大学法学部経済系に進学、コロンビア大学に留学後、第一商業銀行に就職されました。澎湖島に支店があれば勤めたかったそうですが、澎湖島に支店はなく、基隆支店などに勤められたそうです。
先生曰く「ですから、澎湖島には昔の記憶しかないのです」。その澎湖島で印象に残っているのが花嶼(はなじま)、そして馬公要港にある「測天島」だそうです(この「測天島」は満潮時に海面に沈んでしまうので正式には島ではありません)。馬公の街には海軍の兵隊がいて、駐留軍もあり飛行場もあり、経済は軍事施設に頼っているといえるそうです。先生が小学生のころには今の観音亭のあたりに日本海軍が入ってくるのを見た記憶が残っているそうです。
黄先生はその後、澎湖島の歴史に詳しい林麟祥先生を紹介され、マイクを譲りました。
■ 澎湖の「生き字引」林麟祥先生のご講義
林麟祥先生は、澎湖で生まれ育ち、長く澎湖県庁にお勤めになり主計畑を歩かれたそうです。日本時代の澎湖で生まれ育った日本人と台湾人の親睦団体である「日本台湾馬公会」の特別顧問でもあります。澎湖の郷土史編纂の監修もされている、まさに「澎湖の生き字引」の先生のお話は、澎湖の視点から台湾の数奇な歴史を辿るものでした。
澎湖島は地理的に軍事上の要地として西洋に注目されたり、あるいは台湾進出への足がかりとされてきました。そのため、しばしば戦乱に巻き込まれる運命を背負いました。
12世紀前半にはすでに漢人は澎湖に移住していたようです。福建省の史料によれば、元寇の頃(2回目の1281年)、元朝の臨時の役所ができたと一行書いてあるそうですが、これは裏付けとなる記載に乏しく信頼に値しないそうです。
明朝初期(14世紀後半)より海賊が多くなり、澎湖では皆、福建省に撤退させられ、海岸より50キロは居住しないようにしたそうです。
16世紀初めにはポルトガル人が澎湖島の傍まできて澎湖を「エスカゴール(漁民の島)」と呼んだそうな(史料では1544年にポルトガル人は台湾を「麗しき島(イラ・フォルモサ)」と賞賛したとある)。
17世紀に入るとオランダ、スペインが勢力を伸ばし始めます。オランダは1602年には東インド会社を設立し、世界に通商を申し込んだりしていました。1622年にオランダ艦隊(海軍陸戦隊)が来て澎湖を攻撃、占領します。明との和議でオランダは澎湖を去り、台湾本島を占領することになり、日本とも通商するようになります(日本としてはオランダ人に乗り込まれた感じ。そのうち日本は鎖国へ)。
しかし台湾ではオランダの圧政が強まり、オランダを追い出せの気運が高まってきます。
大陸での戦いに敗れた明の遺臣・鄭成功は大艦隊を率いてまず澎湖を攻めて3日で陥落させますが、たちまち食糧難に襲われ、鄭軍2万5千人は早々に台南に向かいます。1662年、鄭成功はオランダを降伏させますが翌年病没。
1683年(康煕22年)には清の施琅(もとは鄭成功の部下)の大軍と明の鄭軍(軍務大臣・劉国軒)は、澎湖島で大海戦をし、清の勝利に終わります。これより台湾は清の統治下におかれました。
その後、清とフランスとの間で清仏戦争(1884~1885)が勃発します。この戦争はベトナムの宗主権を争うものでしたが、台湾本島と澎湖島でも戦闘がありました。
1884年、フランス軍はまず台湾の基隆、淡水に上陸するも引き返し、翌年再び基隆上陸、フランスの手に落ちます。そのまま澎湖にも上陸、3日(林先生の説は2日)で占領しましたが、数日後には戦闘は解除され台湾は救われました。
この澎湖島の戦闘でフランス艦隊提督クールベが風土病(マラリア)で死去。最激戦地だった馬公鎮観音亭に埋葬されました。風櫃には澎湖で命を落としたフランス軍兵士たちの慰霊のための「萬人塚」があります。
次に、朝鮮を巡って日清戦争が起きました。
1994年9月、日本が黄海(黄海海戦)で清の北洋艦隊に難渋したというのは、清国の軍艦「定遠」や「鎮遠」が排水量7000トン級であるのに対し、日本の聯合艦隊の「松島」や「厳島」は4280トンに過ぎなかったからです。しかし日本の船は小さいが速射砲が12本ついています(「松島」は32口径の巨砲が1基が後部についている)。日本は黄海海戦で勝利します。
1995年に入り清の李鴻章は何度か和議(和平交渉)を持ちかけています。3月19日には下関にきて20日には交渉に入っています。しかし、すでに日本の南方派遣艦隊(聯合艦隊)は佐世保に集合、3月15日には出港していました。
北白川宮能久親王は(近衛師団長に任命され)台湾の軍司令官としてやってきました。3月23日には比志島混成支隊は澎湖島に上陸し、3日間で占領してしまいます。
なぜこのように首尾よくいったのか。それは準備の仕事がよかったのです。その5年前、のちに台湾の初代総督となる樺山資紀は、領事・水野遵(のち樺山総督時の民政局長となる)を伴い、澎湖(台湾本島か?)に何度も来て調査をし、このくらいの砲弾なら届かない等の測定をしていたのです。
さて黄海海戦で活躍し、その後、悲劇の最期をとげた軍艦「松島」についてお話しましょう。「松島」は日清戦争では聯合艦隊旗艦として働き、その後、基隆、澎湖島、東港などにおいて台湾平定のため陸軍部隊の作戦行動を支援しました。日露戦争のときも戦闘に投入されました。
その後、艦の老朽化により、「橋立」「厳島」と三景艦そろって遠洋練習航海に参加。明治40年12月25日(明治41年1月25日という説も)、横須賀を出港し、東南アジア、インド洋方面を廻っての帰途、台湾馬公要港に寄港し停泊します。
ところが、軍艦「松島」はその年の4月30日午前4時8分、火薬庫が爆発し沈没してしまいます。乗組員460余名中、殉難者は223名にものぼりました。実に乗組員の半数が亡くなったのです。
風櫃の蛇頭山には「軍艦松島殉職将兵慰霊碑」があります。この日の午後に訪れる予定になっています。
林先生は以上のような澎湖の歴史を一気に語って下さいました。今でも老後の楽しみとして読書し、勉強を続けていらっしゃるそうです。
■ 黄天麟先生の周辺化理論
その後、黄天麟先生の「周辺化理論」を澎湖の地で説明戴きました。「周辺化理論」とは、小さな経済圏は大きな経済圏に呑み込まれるという理論ですが、黄天麟先生が澎湖島の経済の動きを見ていて発見した理論です。
澎湖においては澎湖本島と西嶼・白沙の間に橋を架け、西嶼・白沙を潤そうとしましたが、逆に大きな経済圏である馬公に人が集まってしまったこと、また、澎湖島と台湾本島においても、澎湖は台湾本島に呑み込まれていったこと、そしてECFAにおいては台湾が中国に呑み込まれる恐れがあるという説です。黄先生の生誕の地・澎湖で周辺化理論を聴講できたことは感慨深いものがありました。
お2人の先生の講義が終わり、黄先生とはお別れをして、研修団一行は林麟祥先生とともに澎湖島を巡る野外研修に出かけました。
◆第3日目(5月9日) 林麟祥先生のご案内で澎湖島巡り
黄天麟(こう・てんりん)先生と林麟祥(りん・りんしょう)先生のご講義を拝聴した後、「澎湖島の生き字引」林先生のご案内で研修団は野外研修に出かけました。
海と空の青が眩しい、快晴に恵まれた研修日和です。明日(5月10日)、研修団で初めてご講義いただく謝雅梅先生の著書に『台湾は今日も日本晴れ!』というタイトルの本がありますが、まさに日本晴れ、いやいや「澎湖晴れ」です。
■おとりの大砲
林先生と研修団一行が最初に向かったのは、西嶼餌砲です。馬公を出発して3つの橋を経由して西嶼へ着きます。西嶼の最果てにある灯台の近くにその餌砲があります。
餌砲とは餌(おとり)の大砲です。バスを降りた研修生は足元の雑草を気にしながら近づきました。台地の少し窪んだところに、コンクリート製の大砲がありました。お椀を伏せたような砲台に2本の大砲が付いているニセの大砲です。近くで見ると騙されようがないのですが、大東亜戦争(第二次世界大戦)時には空中の軍機から見ると本物に見え、効果があったそうです。
餌砲の周りは草地で、鋭い針のサボテンが山のように群生しており、可憐な黄色い花を咲かせていました。一行はその風景をしばし眺め、再びバスに乗りました。
■昼食は「清心飲食店」の海鮮料理
次の研修地に行く前に急遽予定を変更し、昼食をとるためレストランへ行くことになりました。とても美味しいお店なので、他の観光客が来る前に行きましょうというわけです。
西嶼餌砲からバスは北に走り、澎湖でも名高い海鮮料理のレストラン「清心飲食店」に着きました。一行は2階に上がり、松澤団長による乾杯の発声後に、次々と並べられる澎湖の海鮮料理を味わいました。刺身、蟹(アサヒカニあるいはワタリガニ)、海老の天ぷら、ボイルイカ、小さな牡蠣とビーフンの炒め物、アサリのスープ蒸し等々、皆さん脇目も振らずに食べていました。
やはり早めに行って正解でした。中国からの観光団が所狭しと押し寄せ、店内は喧騒状態です。
■自然の造形美「大菓葉柱状玄武岩」
お腹が満たされた研修団一行はバスで「大菓葉柱状玄武岩」に向かい、ほどなく到着しました。ここは自然が形成した一種の造形美です。
一千年以上昔、プレート移動によって地殻に亀裂ができ、マグマが噴出し、海水や空気に触れて凝固し、これが何度も繰り返されて玄武岩の柱ができました。簡単にいえば、岩の地層に縦方向に何本も亀裂が入って柱が連なっているような景色です。澎湖島ではよく見られる景観なのですが、ここは陸上で観て触れられる格好の場所でした。
■清朝が築いた軍事基地「西嶼西台」
バスはまた西嶼の端に向かって走り、「西嶼西台」に着きました。ここは石で造られた要塞で、清仏戦争終結後の1887年ころ、李鴻章が台湾巡撫として劉銘傳を派遣し、近海の海賊取り締まりのために築いた軍事基地であり砦です。
石製の要塞の入口には、李鴻章の揮毫によると言われる「西嶼西台」の文字が刻まれています。
石のトンネルを抜けていくと幾つものトンネルが口を開けて一行を待ち構えていました。トンネル(塹壕)に入ると昼間であるにも拘わらずひんやりと薄暗く、少々不安な気持ちになります。所々から陽の光が差し込んでおり、やがて小さな小部屋に行きつくと、左右に1人通れるくらいの階段と出口があり、そこから大砲の側面が覗けるようになっていました。
外に出ると要塞全体が見渡せました。石の砦に囲まれ、砦の上には大砲が据えられており砲口は海に向けられています(現在の大砲は模造品です)。研修生が通ったトンネルや、その昔、弾薬や兵器の貯蔵庫として使われていたであろう石造りの建物がその中央にありました。研修生は砦についた階段を上り、高台に立ち、海からの風に吹かれて青い海を眺めました。
■広場をつくる樹齢360年のガジュマル
見学が終わると研修団はそこから一気に北上し、先ほども通った跨海大橋を渡り、白沙に行くと「通梁古榕樹」があります。
通梁古榕樹とは、通梁村の保安宮という廟にあるガジュマルの古木のことです。樹齢360年と言われる1本の古木から、絡まりあうよう四方に広がった枝葉は木陰のある大きな広場を形成しており、一見ガジュマルの林かと見間違うほどの広がりを見せています。枝葉を棚で支えているこの木陰の下を廟に向かって歩いていくと、やがて赤い布の巻きつけられた木の根元が見えます。神木として崇められている、その源です。
一行は廟の中も見学した後、まわりの土産屋を見たり買い物をしました。そこにサボテンアイスが売っています。サボテンの赤い実の汁に、おそらくシロップを混ぜてシャーベット状にしたもので、アイスコーンの上に乗せてもらいます。一個30元。目にも鮮やかな赤紫色のアイスです。味はラズベリーに似た、ほどよい酸味と甘みで爽やかです。
■地元民によって復元された「日軍上陸紀念碑」
さて、澎湖島を巡る旅も佳境に入ってきました。これからは日台の歴史的遺産を辿ります。向かったのは「龍門裡正角日軍上陸紀念碑」。白沙から二つの橋を渡り、澎湖本島へと戻ります。
バスから見える海岸線は小さな島ゆえに、目まぐるしく曲線を描いています。グルグル回る風力発電の風車が何機も並んで見えました。街中に入ると様々な形の建物が軒を連ねています。風に吹かれ海に囲まれた澎湖島は、海の守り神の媽祖廟が散見されます。赤や黄や緑で屋根の先が跳ね上がった廟が目につきます。
龍門は、澎湖本島の東側にあります。車道脇に茶色の案内板が見えました。「龍門裡正角日軍上陸紀念碑」とあります。現地に着くと、そこには何故か2基の石碑が海に向かって並んで立っています。向かって左側の碑は「明治二十八年 混成支隊上陸紀念碑」、右側は「臺灣光復紀念碑」です。実はここには面白いエピソードあるのです。
もともとここには「混成枝隊上陸紀念碑」が建立されていました。しかし日本の敗戦後、台湾を占領した中国国民党によって表面の碑文が削られ、「臺灣光復紀念碑」と刻まれてしまいました。このような碑文の書き換えは台湾本土でもよく見られます。碑の台座は破壊され、上部の碑は右側に移され、元の碑の位置には小さな土地公廟が建てられたそうです。
今から10数年前に、郷土の歴史改竄に対する抗議の声が地元民からあがり、もともと碑のあったところに本来の碑が復元されました。左側にあるその碑は「混成支隊上陸紀念碑」と刻まれており、上から三文字目の「支」は、元々の「枝」とは異なっていますが、理由は分かりません。
この碑を復元していただいたことに感謝しつつ、目の前に広がる海を見ながら、私たちの父祖たちが入江でもないこのような狭い砂浜に上陸してきた光景を思い浮かべると、胸がいっぱいになりました。
次も、日本軍上陸の記念碑を林投という所に訪ねました。案内版には「林投日軍上陸紀念碑」とあります。しかし、実際、そこに行くと碑には「抗戦勝利紀念碑」と刻まれています。こちらも国民党によって碑文が削られ書き換えられていました。
ここの碑文はまだ復元されておらず、案内板の方に真実があるという、これもまた皮肉な例です。記念碑に行く道も寸断されたままで、早く復元して欲しいと願いつつ次に向かいました。
■軍艦松島の慰霊碑を参拝
一行は再びバスに乗り込み、澎湖本島西端の風櫃へ向かいました。ここの蛇頭山という岬に、林先生のお話にあった「軍艦松島殉職将兵慰霊碑」があります。
湾の側にある慰霊碑の周りは奇麗に整備されています。他の碑への道や周りも整備され一つの公園のようになっています。
松島の碑の周りには広くコンクリートの囲いがありますが、遠くから眺めると船の先端を描いていることが分かります。慰霊碑の台座は高く、その脇には説明のプレートもありました。
軍艦松島の悲劇については、午前中の林先生の講義にあったので、ここでは省略しますが、台湾の人々がこうして大事に慰霊されていることを実際目にしますと、おのずと感謝の気持ちが湧いてきます。皆できちんと参拝しました。
■フランス軍兵士の慰霊碑とオランダ要塞跡
整備された道を歩いたその先には、清仏戦争の際に澎湖で命を落としたフランス軍兵士を慰霊する碑があります。この碑についても、午前中の講義で林先生が触れられていました。
清仏戦争(1884~85)はベトナムの宗主権を巡る清国とフランスの間の戦争です。結果的にフランスが遂行目的を達成したためフランスの勝利と捉えられていますが、フランス軍も幾つかの重要な戦いで清軍に敗北しており、両者痛手を受けて終戦を迎えています。
フランスは台湾戦線において二つの勝利を収めています。しかし、台湾本島の基隆を陥落するもそれ以上の戦果を拡大できず、その後、澎湖に上陸して占領下におくも、戦局へ大きな影響を与えることができませんでした。
停戦合意が結ばれると、速やかに清国軍は条約を履行して軍を撤退、フランス軍も台湾や周辺の島々などベトナム以外の地域から撤退しています。
澎湖に上陸したフランス提督クールベは1500名の兵士に軍港建設を命じました。ところがマラリアや赤痢という風土病の蔓延によって兵士997名が病死してしまいます。クールベ自身もマラリアで命を落としました。翌年、亡くなった兵士らはこの風櫃に葬られ、この慰霊碑が建立されました。碑の隣には「紀念1885年 殉職於澎湖馬公的法國海軍將士們!」と書かれたプレートも置かれていました。
さらに岬の奥に足を延ばし、やや草の生えた階段を上っていくと、オランダ要塞跡があります。石碑と、石に刻まれたプレートがあるのみで、その土台などは分かりません。
1622年にオランダは艦隊を率いて澎湖に上陸して支配しますが、2年後に明との和議で台湾本島に移り占領することになります。その際に、澎湖にあった要塞の資材を全て移送したといわれています。
こうして野外研修の予定地は無事クリアし、次にレインボーブリッジが望める公園へ移動しますが、澎湖島が要衝の島であったことや、日本と澎湖島のつながりを実感でき、大満足です。
◆第4日目(5月10日) 黄昭堂先生「台湾の現状と将来」
澎湖島から台湾本島に戻ってきて、最初の授業が黄昭堂先生の講義となりました。
黄先生は台湾独立建国聯盟主席。台湾大学経済系のご卒業、東京大学国際学修士を修められ、昭和大学等で教鞭もとられました。総統府国策顧問も務められていました。
日本でも台湾独立運動を継続されていたため、国民党のブラックリストに載り、30年以上も帰国できませんでしたが、李登輝元総統による民主化で帰国されました。ときどき日本に来られ、講演もされています。
黄先生からは、このたびの大震災へのお見舞い、そして日本人の姿勢を賞賛されるお言葉をいただきました。そのことを、本会の柚原正敬事務局長は月刊「正論」7月号で次のように紹介していました。
≪風邪気味だった黄昭堂氏は講義の冒頭、いつもの冗談口調で李氏に風邪をうつしたのは自分かもしれないと笑いを誘う。しかし、東日本大震災のことに話が及び「日本の皆さんが世界に示した姿は非常に尊い。日本人の強さを現している」と話したところで絶句してしまった。黄氏の講演は何度も聞いている。だが、涙ぐんで絶句する姿は初めてだった。≫
続けて台湾の現状と、来年の総統選への期待、台湾と日本は防衛上、経済上も強い結びつきがあり、今後も良好関係を継承することが大事だと述べられました。
この日は風邪をひかれていた先生ですが、感情豊かにユーモアを交えながらのお話の中に、台湾を愛し、よき将来を願う思いがひしひしと伝わってきました。以下がその内容です。
≪東日本大震災による日本国土への甚大な被害には大変心を痛めています。しかし日本の皆さんはその悲しみに必死に耐えて、秩序正しく日々を送る尊い姿を世界に示されました。また、この震災によって自衛隊、アメリカ軍への再評価がされたのではないでしょうか。
台湾では最初、馬総統が1億元の義捐金(2008年の中国四川大地震には台湾政府から20億元を拠出した)を提案すると外交部長は“とんでもない!”と反対しました。しかし一般台湾人からは50億元(約150億円)─現在では既に180億円を超えている─もの義捐金が寄せられました。台湾と日本は底辺(民間レベル)のつながりが強いことがここに明らかになったのです。≫
台湾の現状については、次のように講義されました。
≪2300万人の台湾人の多くは、楽で豊かな生活を望み、残念ながら国のために何かしようとする人は少ない。これは日本も同様といえそうですが。ただ「私は台湾人だ」という意識は6割に上がっており、これが来年の総統と立法委員のダブル選挙にどう影響するかに注目されます。
その選挙ですが、もともとは今年の11月が立法委員選挙であり、来年の3月が総統選でした。それを来年1月にダブル選挙にしたのは、国民党にとって有利に事を進めようとの目論見があってのこと。つまり国民党は、立法委員選には強いが総統選には弱いので、立法委員選の勢いを借りて総統選も良い結果をだそうとしているのです。
さて、来年の総統選には民進党からは蔡英文女史が出馬します。この蔡英文さん、インテリジェンスであるのは勿論のこと、女性の良さ(強さを前面には出さず、物腰が柔らかい)を兼ね備えており、人気上昇。恐らくこのままいけば総統に当選されるのではないかと期待されています。
外国人記者クラブ会見でもクイーンズイングリッシュを披露し、知性と女性的な良い印象を国内外に与えました。
馬英九総統は3年前の選挙時には、ハンサムボーイぶりで人気が上がり勝利しました。一方、民進党候補はハンサムとは言えず、日本留学中にラーメン屋で働いて実家に送金したと親孝行振りを発揮しましたが、到底かないませんでした。
また民進党内部での足の引っ張り合いもテレビなどで露呈し、蘇貞昌氏に至っては台北市長選に出てしまって「もし私が落選したら……」と候補者としてあるまじき言動さえしてしまいました。
ここはもう蔡英文さんに期待するしかありません。
馬総統は就任以来、馬脚を顕し続けています。就任してまもなく北京政府訪問時に「私のことを馬総統と呼ぶ必要はありません。馬さん(馬先生)で結構です」と言う始末です。また国旗は尊厳を表すものであるのに国旗(中華民国旗ではあるが)も引っ込めてしまいます。
ECFA締結の際には「中国とまずECFAを結び、その後でアメリカ、日本等とFTAを結べばよい」と発言しましたが、結局それは国民を騙しました。あれから1年、一向に他国とFTAを結ぶ気配すらありませんから。
それに対し、蔡英文は「私が総統になれたとしても国として前政権の政策の引き継ぐべきところは引き継ぎます。中国とのECFAは継承します。しかし、条約改正の交渉はします」と発言しました。実にスマートな発言です。
さらに蔡英文は「FTA(ここでは中国とのECFAを指している)の内容をWTOに報告します」とも発言しました。WTOは上部機関であり、中国とのFTA(ここではECFA)はWTOの規制を受けるようにする。中国の秘密外交に属するものを陽の下に晒す、という政策をとろうとしているのです。≫
黄昭堂先生も、次に講義された許世楷先生も、次期総統には蔡英文女史が就任することを強く望んでおいでであり、また聴講した私たち日本人も自然と期待したいと思うようになりました。
◆第4日目(5月10日) 許世楷先生「台湾の歴史と民主化」
許世楷先生は、日本留学中より台湾独立運動にかかわったため国民党政権のブラックリストに載り、33年間も台湾に帰国できず、台湾の民主化が進んだ1992年にやっと帰国が叶いました。民進党の陳水扁政権下の2004年から2008年に台北駐日経済文化代表処の代表(大使に相当)を務められました。
この代表のとき、李登輝学校研修団の参加者に代表処の官邸で事前レクチャーをしていただいておりましたが、研修団でご講義いただくのは初めてです。
先生のご講義は、日本統治下での台湾の近代化、その後の台湾の民主化過程で乗り越えなければならない課題と希望についてでした。台湾人から見た日本統治評価は、日本人にとっては少々ほろ苦く、民主化を阻む「特権」についても普段「平等意識」に慣らされている現代人には理解しがたいところがありました。
許世楷先生は台中市内にお住まいです。そこで、前半はスライドを使い、台中各地における台湾の近代化を見ていきました。台中駅の開通、上下水道の整備─浜野弥四郎(1869~1932)の功績、学校建設による教育普及(現在も台湾人の識字率は高い)など、100枚を超えようかという迫力満点の写真でした。
また台中には「宝覚禅寺」があります。台湾では戦後、亡くなった日本人の遺骨が4か所(許先生は4か所-北部、中部、南部、東部と仰っています)に集め、ずっと供養されていますが、台中においてそれは宝覚禅寺です。
日本人の遺骨が祀られているのが「日本人墓地」、台湾出身の旧日本軍人約3万人の御霊を祀っているのが、李登輝先生のご揮毫になる「霊安故郷」慰霊碑です。
かつて日本の統治下におかれ、現在は実質的な独立国家である台湾によって、日本人が手厚く葬られていることに改めて感謝の念を強くしました。
次に、許先生は近年の台湾映画2本を紹介されました。「1895」と「海角七号」です。これらの映画の背景に「台湾の主体性」「特権」「民主化」「平等」という要素があることを先生は教えて下さいました。先生のご講義にますます熱が入ってきました。
≪「1895」は、日清戦争に勝利し台湾を南下してくる日本軍に対し、新竹の呉湯興率いる義勇軍が必死に抵抗する過程を描いています。そこに北白河宮能久親王と森林太郎(森鴎外)も登場し、台湾人の民族自決とそれを平定する日本人双方の心理描写をしています。
「海角七号」は2つのラブストーリーから構成されています。1つは台湾で教師をしていた日本男性が敗戦後、恋人(教え子)を残し帰国してしまうという悲恋。もう1つは現代台湾人青年と日本女性との恋です。
敗戦で特権を失った日本人はその恋を諦めるしかなかった。しかし現代は、台湾も日本も平等であり、好きという気持ちだけで恋は成就します。恋愛も時代で変化したのです。
李登輝元総統以来、台湾は民主化が進みました。民主化とは平等化を意味します。何十年も台湾に住んでいる人々は平等であるべきです。しかし、現代においても平等化を止めようとする勢力は存在するのです。
日本統治はよかったのか、悪かったのか、簡単には評価できません。なぜなら歴史において「過程」と「結果」は違うからです。歴史の過程として、大日本帝国の統治は本国・日本の発展のためでした。烏山頭ダム建設もそうです。台湾人は客体であり、手段でしかなかったという問題はあった。しかし、確かに結果として台湾人もその恩恵を受けています。歴史は単純化できないのです。
台湾の民主化においては、自分たちは何をしたいのか、という主体性が問われています。それは具体的にいうと「国民投票」(台湾では「公民投票」)です。喫緊の問題は原子力発電所の建設、存続について国民自らが判断を下す、ということでしょう。
しかし、現実にはこの「公民投票」の成立は難しい。成立するには「投票権をもつ者全体の過半数」が必要と定められています。その前に投票の法案を出すこと自体にも高いハードルが課せられています。総統の任命した委員20名が投票に値する法案か否かを決める権利をもっているからです。
台湾は民主化が進んでいるようで、実は公民投票実施も難しく成立も難しい状況にあります。それは、国民党が依然として昔の特権を保持したいという思惑を持っているせいでしょう。「国民党」は正式には「中国(中華民国)国民党」です。馬政権が中国寄りなのはこの経緯からいっても当然のことなのです。
こうした台湾の難しい政治情勢において、大事なのは外交、国際関係。アメリカ、そして日本との同盟関係をどう築いていくかが重要です。
台湾独立派は、アメリカや日本に「台湾は中国の一部ではない」と表明してほしいし、「台湾独立は支持しない」と言うのはいたしかたないとしても「台湾独立に反対だ」とは言って欲しくないと願っています。
李登輝先生は総統時代に「台湾と中国は特殊な国と国との関係」と明言し、陳水扁総は「台湾と中国は一辺一国」と主張しました。しかし、国民党の馬政権になってからというもの「中華民国憲法に則り、中国と台湾は地区と地区の関係」と言い、傾中政策をとり続けています。
来年の総統・立法委員のダブル選挙で、果たして台湾人は民進党の蔡英文を選ぶのか、国民党を選ぶのかが問われています。この選挙で台湾の民主化が進むか、アメリカと日本との関係はどうなるか、国際圧力で中国をはね返していけるか、問われます。日本の皆さんにも、よい結果が出るようご支援をお願いいたします。≫
充実したお話をお聞きした充足感とともに、胸の奥深くに留まるものを覚えたご講義でした。
◆ 第4日目(5月10日) 黄智慧先生「台湾の原住民」
この日3番目の講義は黄智慧先生。黄先生はタイヤル族の民族衣装で登場されました。先生のご講義は、台湾の民族構成、その歴史と文化、台湾原住民の現在の状況と、李登輝総統時代の飛躍的な改革-民族の人権保障、今後の課題にわたるものでした。
■民族承認
現在、台湾の4大民族は原住民2%、客家17%、ホーロー(福建)65%、外省人15%。3万年前には先住民族が既におり、17世紀に客家が、1945年になって外省人が入ってきます。台湾にいる時間が長いほど、台湾への思いが強いと言えます。
現在、中央政府が承認しているのは14民族ですが、黄先生はシラヤ族も入れて15民族と考えているそうです。こうした承認によって、例えばツオウ族は最初285名だったものが600名数えられるようになるなど、そのメリットは大きいのです。
■台湾原住民の政治的発展
19世紀末以前の台湾は部族社会で、まだ国家意識がありません。多種多様な文化・言語、祖霊信仰。社会制度も部族ごとに異なり、継承も母系、父系、双系など様々です。
20世紀前半からは日本統治下におかれ、台湾原住民は初めて国家体験をしました。日本側もかつて統治されたことのない山の民族相手ですから、まず大規模な調査事業を行いました。そして日本は山深いところに住む無文字の民族の教育にも力を入れました。その成果がその後、大東亜戦争中日本の味方となって出征したことに表れています。
前の許世楷先生のご講義では、日本の統治はあくまで本国のためであった、その結果と過程の評価は難しいとのことでした。しかし以前、ジャーナリストの片倉佳史さんは、台湾人はかつてなかった国家のために働くという目的と誇りを持てたのだと分析されました。
日本統治がよかったか悪かったか簡単に答えは出ませんが、人は強いもので、運命を受け入れながら常に最良の状態を求めようとするものだと思います。
20世紀後半、1945年の日本の敗戦で日本は去り、中華民国国民党が台湾に入り、台湾人のアイデンティティをことふぉとく奪う政策をとりました。
こうした状況を打破したのが、李登輝総統時代の飛躍的な改革です。行政組織の格上げをし、「行政院原住民族委員会」を設立、「原住民族」呼称に改正、台湾人アイデンティティを取り戻していきました。ただそれだけでなく、李総統は戦後処理も行ったのです。
■台湾における戦争と慰霊
台湾では日中戦争、国共内線において戦没した人々は忠烈祠で手厚くまつられながら、一方、大東亜戦争で日本兵として戦った高砂義勇隊は長い間放置されたままでした。
こうした放置された人々を慰霊しようという動きは民間レベルで起きました。「新竹北(土甫)済化宮」はもともとは関聖帝君と観世音菩薩を主神として1961年に建立されたものですが、その後、台湾出身の元日本兵の霊を靖国神社から迎え、祀るようになったものです。
また、台中にある「宝覚禅寺」、台北の烏来郷にある「高砂義勇隊慰霊碑」がありますが、いずれも太平洋戦争の戦没者の遺族および生還者の義捐金によって建立されたものです。
宝覚禅寺にも高砂義勇隊慰霊碑にも李登輝元総統の揮毫「霊安故郷」が見られます。
また台湾最南端の地に建てられた英霊鎮魂の「潮音寺」もあります。バシー海峡で命を落とした軍人や従軍看護婦は多く、奇跡的に助かった中島秀次氏が財産を投げ出し、また寄付によって慰霊施設「潮音寺」を建てました。
台湾という国にとって戦没者の慰霊は重要な意味を占めていると分かるとともに、その重要性をいちはやく察知した李登輝先生はやはり並大抵の方ではないと改めて思いました。
■近年改善される社会保障
近年、台湾原住民は様々な社会保障(保留地、老人年金の前倒し供給、各種奨学金・学費免除、国会議員議席数の保障)が受けられるようになりました。
しかし、なお残された課題も多いと言えます。まだまだ法律の整備はなされず、差別もあり、原住民文化は教えられないので歴史の認識がなされない等あります。
21世紀に入り、新国家建設に向かう台湾では民族認定にとどまらず様々な法整備をしていかなければならないでしょう。いずれは新憲法の制定もされるべきです。
台湾新憲法では、原住民尊重を設け、多民族国家であることが明記され、各民族の民族議会を設立、自治区を作ることが定められるべきと、黄先生は講義を終えられました。
黄先生のご講義を拝聴し、台湾に住む様々な民族がそれぞれの思いを抱きながら生活をしていて、それが長年癒されることの無い深い悲しみや苦しみならば、それをいくらかでも軽減し、同じ故郷に住む者として共に手を携えることができたら、どんなにかいいだろうと思いました。
中国寄り、中国への統一へと進むことなく、台湾という国の民族であり続けるという前提で生きていけたなら、様々な民族が共存できるであろうにと思わずにはいられません。
◆ 第4日目(5月10日) 謝雅梅先生「台湾人と日本人」
澎湖島から戻ったこの日は、黄昭堂先生、許世楷先生、黄智慧先生の講義が続き、最終講義はエッセイストであり、現在、台湾で教鞭をとられている謝雅梅先生です。
先生の台湾と日本に関するご著書は7冊に及び、『日本に恋した台湾人』『いま、日本に伝えたい台湾と中国のこと』『台湾論と日本論』等々あります。
先生のご講義は、台湾人と日本人が見た「海角七号」、日本人から見た台湾・台湾人、台湾人から見た日本・日本人、李登輝元総統の願望、台湾と日本との新しい関係について、先生ならではのエピソードも交えて明るい展望が開けるものでした。
◆台湾人と日本人が見た「海角七号」
≪2008年に上映された「海角七号」は大ヒットしましたが、この映画に対する著名人の感想は様々でした。黄昭堂先生は「日本統治後の実らない恋に涙した」とおっしゃり、小林よしのりさんは「言葉がいろいろ出てくる(台湾語、北京語、原住民語)のに興味が湧いた」。一方で「日本統治時代の話が頻繁に出てくる(なぜ植民地時代のことを描くのか)」という台湾人(許介鱗さん)からの批判もありました。
映画監督の制作目的は?教師と学生の恋愛の結末とは? そこには答がありません。それは一つの時代の終わりを表し、現代のラブストーリーを描いて新しい日台関係を表しました。つまり、その二つを描きたかったのではないかと思われます。≫
◆日本人から見た台湾・台湾人
司馬遼太郎先生の『台湾紀行』、この本は1993年に出版された、日本に台湾を知らしめた最初の本といえるでしょう。謝先生は出版当時、日本にいて大変衝撃を受けたそうです。
その衝撃とは本の内容に対する「違和感」。それは司馬先生が書かれたことに対する、理解しがたく納得できかねることだったそうです。
例えば「この島の平和と繁栄には基本的不安がある」(51P)、「敗戦は日本の運命だけでなく、台湾系日本人の人生も変えた」(58P)、そして司馬先生と李登輝総統(当時)との対談の中にある「台湾人の悲しみ」。謝先生は「基本的不安とは何? そんな批判は聞きたくない」「台湾人はどうして悲しい?」と思ったそうです。謝先生は次のように話されました。
≪私は日本について勉強しましたが、日本の会社に入り台湾について質問され、何一つ知らないことに気付きました。それは台湾の歴史を教えない国民党教育のせいでした。その後、勉強して「基本的不安」「台湾人の悲しみ」について分かるようになりました。李総統による政治で民主化が進みましたが、残念ながらこの状況は乗り越えていないように思います。≫
また、老台北こと蔡焜燦先生との話で「でこぼこの道」があります。謝先生も台湾にいたころは気付かなかったそうで、後に台北の街がいかにでこぼこの道であるかを知りました。
≪これは「公精神の欠如の表れ」です(自分の都合で店頭の道を盛り上げたりする!)。台湾人にはまだまだ公精神が足りない、学生にも教えています。≫
≪次に日本に台湾を伝えたのは、小林よしのり先生の『台湾論』でしょう。漫画で台湾と日本の歴史、台湾の食べ物・お茶、台湾人の親日感情、日本の若者の衝撃について描かれたため、多くの若者に受け入れられました。『続・台湾論』が出版されることを期待しています。
日本の若者の衝撃とは特に「日本語世代の叱り」にあります。蔡焜燦先生が代表的と言えます。蔡先生世代(日本語世代)は日本精神をしっかり教えられました。ですから「日本人、自信を持ちなさい」と仰います。そして最後は「日本人、しっかりしなさい」と叱ります。今の日本の若者の育っている時代とは違うので、衝撃になります。しかし、この「叱り」は愛情の表れであり、「日本よ、もっと良くなってほしい」という願いです。ここに日台の大切な繋がりがあると思います。≫
≪在台日本人である青木由香さんの『奇怪ね』の台湾人・日本人の観察は面白いものです。対にして比較しています。
帽子(日本人)-傘(台湾人)、 長身・足が曲がっている(日)-体のバランスがよい(台)、 無表情(日)-笑顔(台)、 オナラを我慢(日)-オナラを我慢しない(台)、トイレットペーパーを流す(日)-流さない(台) 等々。
細かく言うと、それは人それぞれですが、こうした比較も参考になるでしょう。≫
◆台湾人からみた日本・日本人
≪日本語世代の方々(友愛会-美しい日本語を学ぶ集まり、老台北、謝先生の父上)は今の日本人を見て「誇りや自信が足りない」と言います。
一方、台湾の若者は日本のイメージとして、「礼儀正しい」「清潔」「物価が高い」「武士道」「忍者」「男性が格好いい」「女性が可愛い」「徳川家康」「嵐」「浜崎あゆみ」等々。「南京事変(南京大虐殺)」もあります。これは歴史教育によるものですが、私は「いろいろな本を読みなさい」「日本、中国それぞれの国の事情がある」「本当かどうか分からないこと」と教えています。
また台湾番組で「全民最大党」というのがあり、面白がって日本の天皇陛下のモノマネをしていました。他国の文化を理解しないでマネをする、これはいけないことです。日本の精神的象徴をマネしてはいけない。≫
後にTV番組制作者が謝罪していましたが、謝先生はこれも学生を教える教材、機会ととらえて指導したそうです。
謝先生の観察を披露されました。
≪すぐ謝る(日本人)-言い訳をする(台湾人)←言い訳はよくない、学生にもいつも教えています。
喋るよりも書く方が好き(日)-書くよりも喋る方が好き(台)←私はどちらかというと書く方が好き、日本人に近いかもしれません。
八重歯(日)-歯周病(台)、自己主張が弱い(日)-自己主張が強い(台)、自虐感情が強い(日)-批判感情が強い(台)、A型が多い(日)-O型が多い(台)、几帳面・神経質(日)-楽観的・いい加減(台)、職人性格(日)-営業マン性格(台)、長期計画(日)-目先の利益ばかり(台)、行動よりも計画(日)(練った末の結末はあまり重要視していないような。日本人は少々考えすぎに見えます)-計画よりも行動(台)
やってから考える。後先考えずに店を出し上手くいかないとすぐ畳む、という傾向もあります。≫
◆李登輝元総統の願望
≪李登輝先生は「我是不是我的我」(私は私でない私)という言葉をよく使われます。そして実践されています。この言葉を、小林よしのり先生は「私的な存在を超えて、公としての存在になれ」と解釈されています。「公精神」です。これが台湾人には欠けている。私は授業でもよく話しています。≫
◆台湾と日本との新しい関係
≪日本は敗戦後、台湾から離れてしまいましたが、最近は再び日台が近づいてきたように思います。
特に台湾大地震と今回の日本の大震災において、両国の行動に表れています。日本の大震災は台湾にとっても他人事ではないのです。台湾は義捐金も応援メッセージも多数送っています。私の学生さんも自主的に募金活動等をしています。
1999年9月21日に台湾に大地震が起きて甚大な被害が生じた時、日本はその日のうちに救援隊が飛行機で飛び、台湾に入り、救援活動をしました。救援隊の数は145名で一番多く、また義捐金合計15.6億台湾元のうち80%が日本からのものでした。「日本人は台湾人を助けた」、台湾人はそのことをよく知っています。
台湾と日本の関係は、「お互いの苦労があって初めて、互いの真の感情が分かってくる」といえます(台湾語でそういう言葉が一言であるそうですが、筆者は聞いても分かりませんでした)。
今回の日本の震災について、台湾からの義捐金は世界一ですし、支援物資も一番と言えます。そして、台湾の自由時報は4月17日付けの一面で「日本加油」(日本がんばれ)と報道しました。 日本の『週刊新潮』は「ありがとう、台湾の皆さん」という記事を掲載しましたし、日本人がお金を出し合って「ありがとう、台湾」という意見広告を台湾の新聞数社に出しました。
その件についても台湾の新聞は報道しています。台湾では小学生も「日本加油」というメッセージを出しています。
こうして台湾と日本は苦難に遭った時にお互いに助け合う、そういう新しい関係に入ってきています。≫
そう仰って謝先生は講義を締めくくられました。
謝雅梅先生は講師の中でも若い世代で、現代台湾人に近い感覚や疑問をもって、台湾と日本を様々な体験をしながら学び、それを本や講義や学生との交流で伝えられています。
こう言うと失礼かもしれませんが、優しいお姉さんが日本人と台湾人の懸け橋になって下さっているような感じがしました。最初から最後まで本当に楽しい講義でした。
◆ 第5日目(5月11日) 蔡焜燦先生「台湾と日本-桜の絆」
台湾李登輝学校研修団もとうとう最終日を迎えました。まず最初は蔡焜燦(さい・こんさん)先生による特別講話です。
はじめに蔡先生が理事長を務める李登輝民主協会から日本李登輝友の会へこのたびの東日本大震災に対する義捐金100万元(約280万円)の授与式が行われました。その際、蔡先生は、1999年9月21日の台湾大地震に触れ、その時に受けた日本からのさまざまな救援(即座に日本の救援部隊が台湾を訪れたこと、若者たちが大勢来て肉体労働を進んで行ったのを目にしたことなど)に感謝の思いを新たにされていました。
蔡先生の特別講話のタイトルは「日本と台湾-桜の絆」。桜は日本の国花とされていますが、台湾の人々も桜が大好きです。平野久美子さんの『トオサンの桜』にも描かれているように、とくに日本語世代の台湾人にとっては特別な意味を持つ花のようです。本会は、会員などからの浄財をもとに、平成18年から毎年、台湾に河津桜の苗木1000本を贈っています。台湾でみごとに根付いて今年も花を咲かせました。
蔡先生は「台湾歌壇」の代表でもあることから、桜にちなんだ歌を紹介しながら、桜に寄せる思い、台湾と日本の繋がりをしみじみと、ときにユーモアも交えながら、お話下さいました。蔡先生のユーモアと深い教養にあふれたお話は、ニュアンスまでお届けしたいので、いささか長くなりますがご講話の内容をそのままご紹介します。
皆さん、「桜(櫻)の木」とかけて何と解きますか? 「櫻」という字は二つの「貝」と「女」と「木」で成っていますね。これを「二階(二貝)の女が気に(木に)かかる」としたらどうでしょう? よく出来ているでしょう。
「桜」にまつわる歌で「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」がありますね。本居宣長の和歌です。いい歌ですね。
さて、日本李登輝友の会は桜の苗木を贈り続けて下さっていますが、烏山頭ダムのほとりに植えられた桜が、小さな木ですが花を咲かせました。また新たに1500本植える予定です。
この烏山頭ダムを16000キロの給排水路とともに世界遺産登録を目指している動き(署名活動)があります。大変嬉しいことですね。
桜の和歌をもう1つ。私は少年航空兵でしたが、当時、私たち若者の間で合言葉のようになっていた「散る桜残る桜も散る桜」、実はこの歌は良寛さんの歌だったのですね、驚きました。良寛さんは三十一文字の歌しか作らないものかと思っておりました(この後、蔡先生に促されて、研修団員皆で「さくら さくら」「同期の桜」を歌いました)。
「同期の桜」で思い出すことといえば「鎮安堂・飛虎将軍廟」です。
【注】「飛虎」とは「戦闘機」のこと。大東亜戦争のさなか、米機動部隊はフィリピン攻略作戦の前哨戦として、台湾各地に航空決戦を挑んできました。その火蓋が切られたのは昭和19年10月12日。米機グラマンが攻めてきて、それを向かい撃ったのが台南空軍と高雄空軍。その激しい空中戦の中、米機に体当たりをした一機の零戦があり、それが杉浦兵曹長の機であったのです。のちに杉浦兵曹長を飛虎将軍と称して祀ったのが、「鎮安堂・飛虎将軍廟」。
この廟の祭祀を司っていたのが林さんで、毎日、朝夕、祝詞があげられていました。朝に「君が代」、夕に「海ゆかば」です。林さんは「だ行」がうまく発音できません。それで「実はもう1つ祝詞があるら」と言います。聞くとそれは「同期の桜」。先ほど皆さんと唱和した「同期の桜」だと言うのです。林さんは日本の歌になるとハッキリ上手に歌われました。
阿倍仲麻呂(あべの・なかまろ)、中国名は晃衡(ちょうこう)といいましたが、この人物は唐に渡り玄宗に仕え、重用されました。帰国を何度か図りましたが、結局果たせずに終わります。別れの宴ではあの王維も別離の歌を詠んでいます。一方、仲麻呂の方も歌を詠みました。
天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも
この歌は漢詩の五言絶句の形になって、中国の記念碑や歌碑に刻まれています。
翹首望東天 (首を翹げて東天を望めば)
神馳奈良邊 (神〔こころ〕は馳す 奈良の辺〔ほとり〕)
三笠山頂上 (三笠山頂の上)
思又皎月圓 (思へば皎月 又円(まどか)なるを)
現在、中国では日本人観光客を当て込んだ碑や建造物を作ったりしていますが、台湾はそういうことはありません。台湾は今でも自然に日本を受け入れています。
(ここまでお話されて、蔡先生は「何か質問はありますか?何でも答えます。知らないことがあれば後で勉強してお答えします」「とくに美人の質問を受け付けます」と仰って、その場がふっと和みました)
この蔡おじいちゃんは何故、髭を伸ばしているか、お話ししましょうか。
来年1月は台湾決戦の年です。今年の1月に願をかけて伸ばし始めました。これで馬刺しを食べるんです(一同笑い)。いえいえ、本当に食べるんじゃなしに「これ、馬を刺す」という願懸けです。
*ここで、若い女性研修生から質問。「私は司馬遼太郎先生の『台湾紀行』を愛読してい て、台湾に来るときは必ず読んでくるのですが、その当時の台湾人の心や生活と現在と では、何か変化がありましたら教えて下さい」
司馬遼太郎先生がいらっしゃった当時の台湾は、やっと自由にものが言えるようになった頃です。李登輝閣下の時代まで“もの言えば唇淋し”でした。それまで50年間のシナ人の統治下で、うっかりものが言えないという状況に置かれ、その後遺症に悩まされました。
例えば、今でも友人と写真を撮ると「大丈夫かな」と思う。なぜならシナ人の統治時代は、写真の友人が捕まると、一緒に移った他の人もパクられた。また警察に連行されて「いま付き合っている者の名前を書け」と言われて書くと、その仲間がパクられる。名刺を持っていても同じようにやられました。蒋介石の時代は本当に酷い時代でした。
『台湾紀行』の最後の方で司馬先生と李登輝閣下の対談が載っていますが、李登輝閣下が「台湾に生まれた悲哀」と仰った、そのことについて国民党は騒がなかったが、中国の共産党が騒いで日本の朝日新聞に抗議をしたりしました。
李登輝閣下の時代から自由にものが言えるようになって、極端な話、李登輝閣下の悪口を言っても捕まることはなくなった。このように台湾を民主化された李登輝閣下を大変尊敬しています。
生活は良くなりました。餓死する、といったことはなくなりました。が、後遺症はいまだに残っています。
*ここでまた研修団員から質問。「日本ではこの震災で福島原発の事故を受け、浜岡原発 が停止されました。台湾でも新しい原発をどうするかという問題があります。蔡先生は 原子力発電所について、どう思われますか?」
これは難しい問題です。なぜなら、世界の資源や人口を考えると、水力や火力だけでは間に合いません。ですから、反対とは言い切れない。許世楷先生が「原発に賛成するも反対するも民意で決める。もし国民が賛成したなら、その責任は国民が負う。もし事故が発生してもそれを受け入れねばならない」と仰ったことに関して、お気持ちは分かる。
私がここで言えるのは、世界の原発の専門家が研究して、より安全な原発を作ること。そうでなければ電力は到底足りないという現状がありますから。日本の菅総理が浜岡原発は危ないから停止と決めた、それはいいでしょう。重要なのはそれからです。これからどうするのか、が大切です。
*研修団員から質問。「私は学園を経営していますが、今日本では自虐史観(東京裁判史観)が浸透してしまっている、この教育界の状況において、今後の教育をどう導いていけばよいのかを日々考えています。そのような中、台湾の許文龍先生が日本統治時代の教育を評価しています。平和ボケした日本は、台湾から教わることが多い。そこで是非、蔡先生にも日本人に向けてメッセージを戴けたら光栄です」
素晴らしいご質問です。私は許文龍先生より一つ年上。ですから考え方は同じです。
日本統治時代の昭和10年の時点で、私の出身校「清水(きよみず)公学校」では当時、日本のどこにもなかった校内に有線放送設備がありました。そこでレコードを放送したのですが、それを活字にして『綜合教育讀本』を作りました。これこそ日本の誇り、日本は台湾にこういうことをしたという証拠です。
「日本は台湾を、朝鮮を、植民地支配した」といい、シナと朝鮮に阿っている、それではいけないんです。日本の「日教組教育」がいけません。その日教組教育を受けた子供がもう親になっていますから、親を教育しなければなりません。私はことあるごとに日本の若い学生たちに日本のよさを教えています。もっと日本の素晴らしい歴史を子供達に教えなければなりません。
もう1つ可哀想なこと、それは日本の子供は日本の神話を知らないことです。素晴らしい神話を教えなければなりません。天皇・皇后両陛下が被災地を回られ、被災者の前に膝まづき手を握られお声をかけている。こんな素晴らしい国はありませんよ。
蔡先生は最後そのようなお言葉を述べられ、特別講話を終えられました。「日本がんばろう」と一緒に日本の復興(精神の復興も含めて)を願っていらっしゃる蔡先生に、研修団一同、心から励まされたという思いで一杯になりました。蔡先生、お髭がほんとうによく似合っていらっしゃいます。