・李登輝総統が訪日の意向を示してから、来日前日(2007年5月29日)までの報道一覧、来日後の足跡を追いかけた日毎の速報および各社の報道、本会オリジナルの写真などはこちらからご覧ください。
2007年訪日の足跡
李登輝前総統の訪日が成功した理由 自由な発言を認めた政府の決断が中国の干渉を排除した
日本李登輝友の会事務局長 柚原正敬
台湾の李登輝前総統が曾文恵夫人や孫娘の李坤儀さんなどの家族とともに、去る5月30日に来日して6月9日に帰台した。総統退任後、3度目となる今回の訪日は「学術・文化交流と『奥の細道』探訪の旅」と名付けられ、念願であった「奥の細道」を訪問した。
日本人の印象に強く残ったのは、やはり靖国神社に参拝したことだろう。また、東京や秋田で講演したことで、その肉声を初めて聞いた日本人も少なくなく、印象深く残ったに違いない。
李氏は最終日の6月9日、当初の予定にはなかった外国人特派員協会で「このたびの旅行は今までの旅の中で最高の旅でした」と述べている。その理由として、後藤新平賞の第一回受賞者に選ばれたことや、「奥の細道」を半分だけだったが堪能できたこと、あるいは靖国神社に参拝できたことなどを上げている。
来日して以降、アジア・オープン・フォーラム世話人らとの会食と拓殖大学訪問以外の行程に同行させていただいた者としても、やはり今回の訪日は大成功だったと言える。それは、成田空港をはじめ各地での歓迎ぶりや講演会参加者数に現れていた。
成田空港では、平日の昼間にもかかわらず200人を超える人々が集まり、日の丸や日本李登輝友の会会旗の小旗を千切れんばかりに打ち振って歓迎し、「李登輝先生、万歳」の歓呼の声が空港内に響き渡った。
また講演は、後藤新平賞授賞式後の記念講演「後藤新平と私」、秋田の国際教養大学での特別講義「日本の教育と台湾-私が歩んだ道」、ホテルオークラ東京での講演「2007年とその後の世界情勢」を行ったが、いずれも立錐の余地もないほど詰め掛けた。特にホテルオークラ東京での講演には約1300人が参加し、まさに壮観の一語に尽きる。
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今回の訪日の成功は、来日の意義を鮮明にした。平成13年4月の心臓病治療のための来日および平成16年12月の来日と比較してみれば、さらにその意義は明瞭となる。
平成13年の来日時は、ビザの発給を巡ってもめた。森喜朗首相らがビザ発給を認めたにもかかわらず、河野洋平外相や槇田邦彦・アジア大洋州局長が頑強に抵抗し、特に槇田局長などは「こんなことしていたら、北京の怒りを買って、日中関係はメチャクチャになる」などと恫喝めいた発言を繰り返していたことは未だ記憶に新しい。
また、平成16年のときは、ビザ発給の条件として,1、記者会見しない、2、講演しない、3、政治家と会わない、という3つの条件が付けられ、東京は訪問しないという条件もあったと言われている。このとき、中国の王毅駐日大使は「李登輝は中国を分裂する方向に狂奔している代表人物。その人物を日本に受け入れることは『一つの中国』政策に反する」と政府にビザ発給方針の再考を求めたことを思い出す人も多いだろう。
ところが、その年の11月に李氏が翌年5月の訪日を発表したことに対し、麻生太郎外務大臣は李氏の入国は問題ないとの見解を表明する。昨年1月のことだ。2月に入ると、政府としても5月来日を容認する。しかも、入国条件を緩和し、政治家に会わないことは従来通りだったが、講演は文化や歴史をテーマにしたものなら認める方針に転じた。中でも、東京訪問を認めたことは画期的なことだった。3月に入ると、ビザの申請も必要ないことを表明するに至るのである。
この5月来日は健康上の理由から、またその年9月の訪日も体調不良のため延期され、ようやく今回の来日となった次第だが、この6年の間に政府の方針は劇的と言えるほどに転換していたのである。
一方、中国政府の反応は、政府方針が転換していくにつれトーンダウンしてゆく。今回の中国政府の発言は政府を牽制する形だけのものに終り、靖国神社参拝に至っては批判するどころか反応すらなく、李氏が「いま中国は日本と喧嘩したくない」と述べたことを証明する結果となった。中国政府が抑制的にならざるを得ないと読んだ政府と李氏の読み勝ちに終わったのである。
そこで、今回の来日の意義をまとめてみれば次の7つとなるだろう。
1、ノービザでの初来日実現。
2、東京訪問の実現。
3、講演の実現。
4、記者会見の実現。
5、念願の「奥の細道」散策の実現。
6、靖国神社初参拝の実現。
7、中国政府の不干渉の実現。
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では、これだけのことを実現し得た背景として、いったい何が変わったのか。
まず第1に、安倍首相が首相就任後、最初の訪問国として中国へ行って「戦略的互恵関係」を築きつつ、一方で豪州と「日豪安保宣言」を締結するなど、対中戦略を徹底的に追求してきたことが上げられよう。
また、平成14年に台湾のWHOオブザーバー参加を支持したあたりから、日本政府の台湾に対する姿勢が鮮明になってきたことも大きい。それは、中国とは別に台湾で天皇誕生日レセプションを開催し、台湾人への叙勲の再開や観光客へのノービザを実施したことに端的に現れている。最近では台湾免許証が日本でも使えるよう道交法を改正した。このようなことは、日本が台湾を「統治の実態」と認識しないとできない措置である。
李氏に自由な発言を認めた今回の訪日は、台湾併合を最大の課題とするが故に独立派の親玉と目す李氏の訪日に反対する中国政府の発言を封じたことで、日本政府が媚中外交を脱しつつあることを証した点からも、やはり大成功と言ってよい。
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最後に、6月7日の靖国参拝に触れておきたい。参拝は、秋田で田沢湖を訪れていた6月5日にほぼ決定していた。
当日、李氏は曾文恵夫人や作家の三浦朱門・曽野綾子夫妻などを伴い、実兄の岩里武則命が祀られる靖国神社に到着した。李氏は貴賓室で南部宮司に「兄貴と僕は二人兄弟で仲がよかったんです」と語り始めた。
「兄貴が死んだとき、血みどろになった格好で霊が現れたと家の者が言いましたが、父は兄貴が死んだことを死ぬまで信じませんでした。家には遺骨も位牌もありませんでしたので、兄貴の慰霊はできませんでした。気になって気になって仕方がなかったんです。今日、六十数年ぶりにやっと兄貴の慰霊ができます。ありがとうございます」
李氏の声はくぐもり、目には光るものがあった。隣室に控えていた私は込み上げて来るものを抑えられなかった。
そして、昇殿参拝が終わって貴賓室に戻ってくると、李氏は南部宮司に「長い間お世話になりました」と頭を垂れたのだった。(「明日への選択」7月号掲載)