葭の髄から 76 「心の祖国」 阿川弘之・本会会長
『文藝春秋』 平成15年8月号(第81巻 第10号)
ある会合で中嶋嶺雄さんの「台湾の将来と日本」と題する講演があり、興味深く聞き終つて会場を出たら、一人の見知らぬ老紳士に呼びとめられた。
「お暇な時、眼を通してみて下さい」
二冊の薄いパンフレットと一緒に名刺を渡され、それに「高座日台交流の会 会長 野口毅」と印刷してあるが、拙嵯で、何のことかよく分らない。取敢へずの礼だけ述べ、家へ帰つて来た。「是非御一読を」と添書きのついた此の種私家版刊行物、実は毎日のやうに届く。つまらないものが殆どで、期待もしないし平素ろくろく見もしないのだが、今回のはちがつた。ふと手に取つて、それきり読むのがやめられなくなり、さきほどの中嶋さんの講演の主旨とも通じる佳話だなと、興奮を覚えながら頁を繰りつづけた。
前大戦末期、相模鉄道沿線の、当時の呼称で神奈川県高座郡大和に、高座海軍工廠があつた。有名な厚木航空基地のすぐ北側、戦闘機「雷電」を生産する敷地30万坪の、此の工廠構内で、年齢14、15の台湾出身少年工約8400人が働いてゐた。彼らの中には、空襲で亡くなつて後年靖国神社に合祀される者もゐるが、大部分は戦争終結と同時に日本国籍を失ひ、やがて台湾へ送り返される。それから60年近い歳月が過ぎた。その間、蒋介石政権下の台湾では、日本軍に協力した話なぞ禁句だつた時期もあるけれど、口にするしないは別として、彼らの日本をなつかしむ気持は非常に強かつた。むろん、それは今も変らない。
パンフレットに書かれてゐるのは、もはや70半ばに達した元少年工たちと日本側関係者との、心をこめた交流の物語であたけしる。名刺の野口毅(たけし)さんは、いはゆる学徒出身の海軍士官、九大在学中、主計科短期現役の最後のクラス(第12期補修学生)を志願し、昭和20年4月、主計少尉任官の直前、任地を高座工廠に指定され、其処で終戦まで少年工たちと起居を共にした。その縁で、のちに彼らとの交りが復活する。三井系の会社の社長職を退いて、現在「交流の会」会長をつとめてゐる。
一方、向ふでも、1987年、戒厳令の解除と言論集会の完全自由化を待つて、「台湾高座会」が結成された。以来、双方のメンバーが度々両国間を往き来して旧交を温めてゐたのだが、今年10月、日本で開催予定の「少年工来日60周年記念大会」には、千名を越す老少年工たちがやつて来るといふ。
彼らは、軍に強制徴用されたわけではない。数学、英語、物象、製図、中等学校程度の教育をしてもらひ、学びながら働いて、工員養成所の学習課程修了後、卒業証書と海軍技手(ぎて)の資格を与へられるといふ条件のもと、募集に応じ試験に合格した人々だけれど、そんな約束、敗戦の結果すべて空手形に終つてしまつた。今秋の大会でやうやく、正式の「在職証明書」「卒業証明書」が授与される。半世紀以上おくれた授与式のあと、みんなで「仰げば尊し」を合唱したい、それが台湾側参加予定者大多数の要望ださうだ。
昭和20年春の日本は、空襲につぐ空襲、彼らがどんなに旺盛な学習意欲を持つてゐたとしても、学べる時間は極めて少く、ひどい食料難でいつもひもじく、内地人工員との間にトラブルは起るし、「苦しきことのみ多かりき」の日々だつたのではないか。それなのに、契約違反だ謝罪しろ、自分たちの青春を滅茶滅茶にされた、慰謝料よこせ、そんな声なぞちつとも聞えて来ず、ただ、工廠時代の「我が師の恩」を思うて「仰げば尊し」が歌ひたいとは、何と謙虚な、心根やさしき人たちだらう。
「おいおい」
二冊のパンフレット見終つた私は、台湾少年工とちやうど同年輩のうちの女房を呼んで、その内容の説明を始めた。
「彼らが高座工廠で教はつたものの一つに、短歌の作り方があるらしい。何十人もの人が、当時の心境や、日本への思ひを和歌に托してるんだがね」と、「台北市 洪坤山」さんの詠草を例に挙げ、
「北に対き年の始めの祈りなり 心の祖国に栄えあれかし」
読んで聞かせようとした途端、涙があふれ出し、声がつまつて、説明が説明にならなくなつた。初め呆ツ気に取られたやうな顔してゐた女房も、わけが分つて涙ぐんだ。老夫婦二人の愁嘆場がどうにか収つたところで、私は感想の述べ直しにかかつた。
「無謀の戦争やつて、負けて、彼らを見捨てた日本を、『心の祖国』だなんて思つてくれてる老人の大勢ゐる国が、世界中の何処にあるか。野口さんも書いてるよ。見てごらん。『我が国は、こんな人たちに対し何をもつて応えることが出来るのであらうか』と書いてる。恥知らずの、人非人みたいな奴のことを、『人間の屑』とか『人でなし』とか言ふがね、日本が、日本の政府が、北京から苦情の出るのを怖れて、彼らに冷淡な対応しかしないとしたら、『国家の屑』、『国でなしの国』だぜ。中南海の礼儀を弁へぬ連中に対してこそ、もう少しひややかな態度を示しやいいんだ。それはともかく、此の秋の大会が、日本側民間有志の手で、せめてあの人たちにとつて思ひ出深い、実りの多い大会になるといいがな」