「台湾」レポート  『道の友』掲載

金美齢秘書  早川 友久

台湾本土派の陳水扁総統と呂秀蓮副総統が熾烈な台湾総統選挙を制した。
選挙結果や分析については他に譲ることとして、ここでは二月二十八日の「百万人手護台湾(人間の鎖)」と投票日前後の模様を振り返ることにしたい。

◆二月二十八日午後二時二十八分「百万人手護台湾(人間の鎖)」
20040401二二八紀念日まであと十日ほどに迫つた頃、台北から「参加申込者数が目標の百万人を突破した」との情報が入つてきた。とりあへずホッと胸をなで下ろす。この「人間の鎖」が大成功を収めれば、間違ひなく陳総統は再選される、と確信してゐたからだ。

事実、昨年九月六日に行はれた「台湾正名運動」では、目標であった十万人を遥かに超え、約十七万もの人々が総統府前に集結し、国名を「中華民国」から「台湾国」に変更するよう求めた。

陳総統は後ろ盾となる立法院(国会に相当)で、自身の所属する民進党が過半数を取つていないこともあり、政情安定のために台湾本土政策を曖昧にせざるをえなかつた。しかし、この台湾正名運動の大成功により、「民心は台湾にある」と自信をつけた陳総統は「二〇〇六年に台湾新憲法制定、二〇〇八年施行」を明確に打ち出した。それに前後するように、陳総統の支持率はぐんぐんと上昇し、一時は連戦陣営に十%~二十%近くもつけられてゐた差が数%にまで迫つてきたのである。

台湾において、二月二十八日は特別な意味を持つ。一九四七年(昭和二十二年)二月二十八日、生活苦のために闇タバコを売らざるを得ない人々を取り締まつてゐた国民党の官憲が老婦人を殴打した。国民党政府のデタラメな統治を腹に据ゑかねてゐた民衆の堪忍袋の緒は遂に切れ、台湾全島を巻き込む一斉蜂起に発展した。これを軍事力で押さへこんだ国民党は以後の占領統治をやり易くするといふ理由だけで、数万人とも言はれる台湾の知識人、無辜の市民を大量に虐殺。更には戒厳令を施行して、台湾人が「白色恐怖」と呼ぶ国民党の恐怖政治の時代を長く続けたのである。この息苦しい時代に終止符を打ち、台湾を民主化に導いたのが李登輝前総統であることは良く知られてゐるが、「正名運動」も「人間の鎖」も李登輝前総統が先頭に立つて民衆を引つ張り、「阿扁当選!(阿扁=陳水扁総統のニックネーム)」を呼びかけてゐた。

集会当日、海外からの参加者は二二八和平公園で参加するようにとの指示である。当日は朝から気温が上昇して昼にはなんと二十七度を記録。帽子、ペットボトルの水、着替へのTシャツは必携となつた。

十二時半、早めに昼食を済ませ、MRT(地下鉄)で二二八公園に向かふ。総統府前広場にゐる友人から電話が入り「総統府や二二八公園の周辺は大渋滞」とのこと。二二八公園の最寄り駅である台湾大学医学部病院前で下車。エスカレーターのところでは、すでに「手護台湾」のTシャツを着たり、鉢巻きをしめた老若男女が地上出口を目指して列を作つてゐる。数週間前、「百万人集まるだらうか?」といつた不安を抱いてゐたのがまるで嘘のやうだ。むしろ、今朝の報道では「二百万を超えるのでは?」といふ予測まで流れてゐる。

日の丸を先頭に私たちのグループが公園に入ると、一際大きな歓声が上がつた。日本から応援に来たことを知り、公園の入り口に集まつてゐた台湾の人々が歓声で迎へてくれたのだ。そこかしこから、「謝謝!」「ありがたう!」と声を掛けられる。この国の若者は、簡単な日本語なら出来るといふ人が非常に多い。それだけ社会にも日本語が溢れてゐるし、家庭でも祖父母は日本語を使ふ割合が非常に大きいからだ。年配の方からは流暢な日本語で、「台湾のために、日本からわざわざ来てくれてありがたう」と声を掛けてもらつた。

午後二時二十八分の「人間の鎖」に向けて、園内中央の野外ステージでは、歌あり、チアリーディングあり、演説ありと、いやがうへにもムードは盛り上がつていく。

ふと気がつくと、ステージの外で待機してゐる私たちは何十ものカメラに囲まれてゐた。日本から応援に来た人の写真を撮つておかうといふのだ。中には、拙い日本語で、「写真ダイジョウブ?」と尋ねる若者も。「OK!」と言つて、右手の親指をグイと出す。途端に相手が破顔する。この親指には意味があるのだ。

翌月の選挙に際し、陳水扁・呂秀蓮の両候補の候補者番号は「一番」と決まつた。つまり、右手もしくは両手の親指を出して「一番」を表すことは、「私は陳水扁を応援してゐる」のと同意になるのである。

刻一刻と時間は迫り、時計の針は二時をまはつた。そろそろ所定の位置に並ぶようにとの指示が何度も繰り返される。私たちは、日本から参加したといふことで、特別に野外ステージ上で「人間の鎖」に参加することになつた。このステージ上ではファースト・レディも参加するといふ。二十分過ぎ、車椅子の総統夫人がSPに護衛されながらステージ上に登場した。その後ろからは、なんと一家四代で参加するといふ家族が入場。ひいおばあちやんから幼いひ孫までがステージ上に揃ひ、場内のボルテージも最高潮だ。いよいよ二時二十八分が迫つてきた。スクリーンの大画面には台湾各地の模様が十二分割で映し出されてゐる。

李登輝前総統と、陳水扁総統は中部の苗栗県の会場で隣同士、手を繋ぎあつてゐた。台湾の民主化を促進した「台湾の父」と、今また台湾の本土化を進める「台湾の仔」が共に手を携へてゐるのだ。ふと隣りを見ると、日本から参加した同じグループの女性がはらはらと涙を流してゐる。後で聞いてみたら「なぜだかよく分からないけれど、とにかく台湾の人々の想ひを目の当たりにしたら自然と涙が落ちてきた」さうだ。

いよいよカウントダウン。「五、四、三、二、一」。隣の人と握つた手を高く挙げる。スピーカーから「台湾!」の絶叫。それに負けじと私たちも叫ぶ。「YES!」。手を掲げ、声の限りを尽くして叫んだ「台湾YES!」「中国NO!」の声がこだまする。北端の基隆から南端の屏東まで五百キロが人間の鎖で繋がつた瞬間。

「この一瞬のためにわざわざ日本からやつて来たのか?」と聞かれたら私は胸を張つて「さうだ。この数分のためだけに台湾まで来たのだ」と答へられる位、清涼感で一杯になつてゐた。私はずつとこの手を繋いでいたいといふ錯覚にも襲はれてゐたのだが、五分程で「台湾YES!」の掛け声が止むと、すぐに陳水扁総統と李登輝前総統がテレビ演説をするといふ。ステージ上に据ゑられたスクリーンに注目する。

陳水扁総統は演説の中で、「この人間の鎖の成功にリーダーシップを発揮してくれた李登輝前総統に敬意を表する。これからも体を大事にして下さい」と、李登輝前総統を労つた。続いて、李登輝前総統がスピーチに立ち、「今まで生きて来た中で、最も感動的な瞬間だつた」と語つた。十二年間の総統在任中に、台湾を民主化に導いた「台湾の父」は、ミサイルといふ野蛮な方法で台湾を威嚇する中国に対し、平和的かつ民主的な方法で「NO!」を突きつけることが出来たことに、満足を通り越して感動を憶へたのかもしれない。

最後に、李登輝前総統は八十歳を超えたとは思へぬ力強い声で民衆に訴へた。「今日という日を忘れるな!我らが祖国は台湾である!」。その訴へに台湾全島を揺るがすほどの大歓声が巻き起こつた。

「人間の鎖」の大成功を見届け、翌日、私たちは日本に戻つてきた。日本のテレビニュースでも各局で取り上げられたやうだ。それに呼応するように、陳水扁陣営の支持率も上昇。中には支持率が逆転した世論調査もあり、文字通り五分五分の戦ひが三月二十日まで続けられることとなつた。

◆緊迫の三月十九日
その時、私は祖母と民生東路にある民進党の選挙本部にいた。舞台ではお笑ひタレントや歌手が登場し、掛け合ひをやつたり陳総統の応援ソングを歌つたりと忙しい。また、十八時から中山足球場(サッカー場)で百万人動員を目標にした投票日前夜の大集会が開かれるといふことで、阿扁人形やTシャツ、帽子が飛ぶやうに売れていく。「並んでから買へるまで四十三分かかつたわ」と隣に座つたおばさん。律儀に計つてゐたらしい。

突然、一人の男性スタッフがマイクを持つて登壇する。コントで場内の笑ひを誘つていた出演者たちも訳もわからぬまま追ひ出されるやうにステージを降り、音楽も止められた。いつの間にか大画面テレビも消されている。場内が水を打つたやうに静まりかへる。

「皆さん、落ち着いて聞いて下さい。一時間ほど前、陳水扁総統がテロに遭ひました。現在、病院で手当てを受けてゐます。皆さん、冷静に!冷静に!」

祖母に訳してもらひながら聞いてゐた私は、血の気が引いていくのを感じてゐた。自然と手が震へて来て、携帯電話を押すことさへままならない。

本部はしばらく静まりかえつてゐたが、すぐに先ほどの陽気さを交へた騒々しさとは別の騒々しさに包まれ始めた。皆が電話をかけて、情報を集めたり、知らせたりしてゐる。

本部のあちこちでは、沢山の人が人目を憚らず泣いていた。二二八事件の発端となつた闇タバコ殴打事件をその目で目撃し、その後に続く白色恐怖の時代を生きて来た祖母は「口喧嘩ならいくらしたつて構はない。だけどテロだけは・・・」と、顔面蒼白になりながら何度もつぶやくやうに繰り返す。さういへば、祖母が「私たち台湾人が李登輝さんの時代に一番心配したのはテロだつた」と良く言つてゐたのを思ひ出す。

テレビの報道でも情報が錯綜してゐるらしい。撃たれたとの情報もあれば、大きな爆竹を投げつけられたとの情報もある。また、呂副総統が撃たれたが、陳総統は無事との情報もあり、相当混乱してゐるやうだ。

「このことをすぐ日本に知らせなさい」と言ふ祖母を残し、滞在中の西華飯店に戻つて日本李登輝友の会など、関係団体に抗議声明を出してくれるようにファックスを送る。日本の応援が台湾人を大きく勇気付けることを、この一年近く選挙戦を目の当たりにしてきた私には良く分かる。

日本政府が抗議声明を出してくれれば・・・と願ひ、働きかけてくれるようにも頼んだが、恐らく難しいだらう。小泉純一郎首相も、正式な声明ではなく、記者団の質問に答へて「陳総統にお見舞ひ申し上げる」とのコメントを出しただけであつた。もしアメリカ大統領が狙撃されてゐたら、すぐさま声明を発表し、特使を派遣するくらいのことはするだらうに。日本政府の冷たさを感じるのは私だけだらうか。

どうやら陳総統も呂副総統も命には別状がないといふ情報が入りはじめるのだが、負傷の程度などの情報はまだ錯綜していてわからず、何とも歯がゆい思ひをする。

その後、中央選挙管理委員会が「両陣営ともに即刻選挙活動を中止せよ」との命令を発したことが報道された。同時に、翌日の投票は予定通り実施するとの発表もなされた。

すでに中山足球場に集まつてゐた友人たちに「中止になつた」と連絡するが、そのまま待機すると言ふ。ただ、私たち日本人には「万が一のこともあるから来ないほうがいい」と言つてくれたので従うことにする。

夕食の後、選挙本部前に人が続々と集まってゐると聞き、出掛けて行く。西華飯店から本部までは徒歩で十分程の近さだ。歩き始めると、すぐに喇叭の音と煌々と照らされるライトが目に入つてきた。どうやら相当の人数が集まつてゐるらしい。本部の手前百メートルあたりから既に人の波である。何とか前に近づこうとするがなかなか進めない。やうやく本部前までたどり着くと、大群衆に取り囲まれるやうに配置された街宣車の上で演説が行はれてゐた。両側八車線の道路が全て人人人で溢れ、まさに立錐の余地さへないといふのはこのことだ。

集まつた人々に座るようにとのアナウンスがあり、街宣車の上には元民進党主席の林義雄氏が上った。戒厳令下の一九八〇年(昭和五十五年)二月二十八日、当時省議であった林氏は、老母と幼い娘二人を国民党の白色テロで虐殺されてゐる。林氏は静かに民衆に語りかけた。「皆さん、祈りを捧げようではありませんか。陳水扁総統と呂副総統の無事を、そして台湾の民主主義のために」。そして人々は静かに頭を垂れた。

林氏が降壇し、束の間の静寂が過ぎ去ると再び、「阿扁当選!」の大合唱や喇叭の音の嵐である。投票日前夜の選挙活動は夜十時までと決められてゐるので、定刻をまはると少しずつ人の波が引き始めてはゐるものの、まだまだ賑はひはおさまりそうもない。銃撃事件によつて、同情票が民進党に流れるといふ単純な憶測もあれば、大勢に影響なしといふ見方もあり、こればかりは蓋を開けてみるまでわからなさうだ。

自転車の後ろに大きな「陳水扁」の幟を立てた中学生が何十人もそこら辺を走りまはつてゐた。タクシーの運ちやんは、帰路につく私たちを追ひ越すたびに窓から親指を立てて挨拶して行く。こうして、突然のテロ発生で揺れた投票日前夜は慌しく更けていつた。

翌日、陳水扁総統と呂秀蓮副総統は熾烈な選挙戦を制して再選された。連戦および宋楚瑜は、敗戦が決まつた途端に「この選挙は無効だ」と言ひ出し、支持者を煽動して各地でデモを行つてをり、本文出稿時点(三月二十四日)でもまだ混乱は収まつていない。

国民党のデモ隊は集票所のガラスを割つたり、トラックで機動隊のバリケードを弾き飛ばそうとするなど、乱暴狼藉の限りを尽くしてゐる。

なほ、投票日前日に狙撃された陳水扁総統は、病院に運ばれる車の中で「民衆に冷静になるよう呼び掛けよ」と側近に命じ、「陳総統狙撃さる」の報道が流れた後も、民進党支持者による暴挙は一切発生しなかつた。