日本政府が国籍離脱を認めないために、大臣ポストを失いそうな人物がいる。台湾人の陳全壽氏である。氏は、台湾行政院體育委員会・主任委員、日本風にいえば内閣府体育庁長官である。1968年、東京教育大学(現筑波大学)に留学、運動生理学を修めた。その後、杏林大学医学部に学び、医師免許を取得。76年には名古屋の中京大学教授となり、以来18年間トレーニング論を教えた。経歴も、がっしりした外見も、陳氏とスポーツとの深い関係を示している。そう言うと、氏は笑顔で答えた。
「はい、68年のメキシコオリンピックには、陸上で台湾代表として参加しました」
日本に留学後、氏は70年には全日本選手権(陸上)で、10種競技で優勝、関東選手権では日本学生新記録をつくったこともあるという。
陳青年は、勉学にもスポーツにも秀でていたわけだ。やがて台湾の留学生と結婚。子供が小学校に通い始めた頃、陳という中国名を「オチンチンのチン」とからかわれ始めた。子供の悩む姿を見て、氏は考えた。
「日本が好きで仕事も順調でした。ずっと日本に住むなら、子供のために日本国籍を取ろう」
氏は日本国籍を取得し、名前は“こざとへん”を取って東昇吾とした。43歳、84年のことだ。そして94年、台湾政府はコーチ科学研究所の新設を発表、氏は所長就任を要請され、これを受けた。中京大学側も氏を惜しみ、万が一、台湾に再適応できず日本に戻る場合に備えて、一年間教授ポストを空白にした。
氏は日本の友人たちに感謝しながらも、この頃から台湾国籍に戻ることを考え始めたという。しかし多忙な日々が続き、実際の行動は2001年7月になってからだ。戸籍所在地の愛知県豊田市に国籍離脱の申請をした。ところが、事前に日本の法務省から得ていた情報とは裏腹に、申請は却下された。「申請の条件が整っていない」ため、申請そのものを「受理しなかったことを証明する」との通知が送られてきたのだ。
「72年の日中国交正常化で、日本は台湾を国として認めなくなりました。ですから台湾国籍も認めない。で、私の日本国籍離脱を許せば、私は無国籍ということになる。それでは日本国民を守るという日本国としての責任を果たせなくなるのでダメだ、という論法です」
しかも、同様のことがほかの人々にも起きていることに氏は気づいたという。そして2004年5月、陳水扁政権が二期目に入ったとき、現職に就いた。主任委員とは、すなわち大臣職である。台湾の法律は、「大臣就任者は一年以内に台湾国籍以外の国籍を離脱しなければならない」と定めている。
氏は再び、日本国籍離脱を申請した。今度は日本の法務省が相手だ。そして、今回も却下された。屈辱的にも、申請者の国籍欄に「中国」と書かされた。
「そのうえでの却下ですからね」とだけ語ったが、短い言葉に込められた悔しさが伝わる。
このままなら、氏は来年5月には大臣職を辞任しなければならない。日本を愛し、国籍まで取った人物が祖国に戻り、大活躍しているのだ。日台両国の懸け橋になれるこれ以上の人材はそう多くないはずだ。氏の活躍を可能にするために、日本国籍離脱を認めるべきではないか。
“日本国民”を無国籍にすれば、国家としてその人物を守り保護することができない、という言い訳は通用しない。氏を守りたければ、氏を解放することだ。どうしても日本国籍離脱を認めないとしたら、それは中国への気兼ねが唯一の理由だと思われても仕方がないだろう。その場合、日本政府の判断は、氏の前途を暗くするのみならず、日本の存在自体を、中国の顔色をうかがい続ける卑小なものに貶めるものだ。
週刊ダイヤモンド 2004年9月18日号 『オピニオン縦横無尽』