台湾を代表する「愛日家」として知られる蔡焜燦氏(80)が、戦前の日本統治下で義務教育を受けた清水(きよみず)公学校を訪ねた。赤レンガ造りのモダンな校舎から伝わってくるのは、当時、台湾の将来を築く人材育成のため、日本本土にもない先進の教育設備を注ぎ込んだ日本人の熱意だ。蔡氏は「これが殖(植)民地の学校だろうか」という随想を発表するほどに、この学校を誇りとしているが、思い出の地をめぐりながら、愛日家ゆえに抱く複雑な思いものぞかせた。(台中県清水鎮 長谷川周人)

清水公学校を訪れるきっかけとなったのは、蔡氏が復刻した同校の「総合教育読本」だった。この学校では昭和10年、校内有線放送や16ミリ映画などを使った最新の視聴覚教育が始まった。その副読本として童謡や神話などを集めた「総合教育読本」は日本文化の凝縮だった。蔡氏の随想のエッセンスとともに同書を産経新聞文化面で紹介したところ、大きな反響を呼んだ。

当時の日本教育には、「民衆を隷属させた日本軍国主義による暗黒の一ページ」(中国外交部報道官)という批判もある。が、蔡氏は「『公』と『誠』を重んじる日本教育は台湾発展の源となった」と反駁する。

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「ご覧なさい。これが殖民地の学校かな?」。校門をくぐると蔡氏が、ちゃめっ気たっぷりにいった。

瓦ぶきの屋根を支える白亜の洋風円柱。見上げた天井は和風建築のヒノキ造り。廊下かられんが造りのアーチをくぐれば、芝生を敷き詰めた中庭が広がり、南洋の常緑樹、榕樹(ガジュマル)が木陰をつくって涼風を呼ぶ。その優美なたたずまいを目の当たりにし、うなるほかなかった。

「手洗い場で使った水を散水に使い、リサイクルの観念を教えた。教室には白木造りの神棚があり、朝礼後の礼拝で作法を習い、掃除当番を通じて公共心を養った。発案者の川村秀徳校長は400枚ものレコードを集め、校内有線放送や映画による視聴覚授業でときめく子供心を立体的に育てた。これが72年前に日本人が台湾で作った学校なのです」

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新校舎の落成から半年足らず昭和10年4月21日早朝、大地震が台湾中部を襲った。震源に近い清水一帯でも家屋が倒壊し、死者320人を超す大惨事となったが、新校舎はびくともしなかったという。

「おやじは土をこねて急ごしらえのかまどをつくり、粥を炊いて被災者に配った」。「減私奉公の日本精神に生きる父親」の姿を脳裏に焼き付け、見舞金を贈られた昭和天皇に親近感を抱いたという蔡氏は、図らずも地震を通じて「愛日家」としての第一歩を踏み出すこととなった。

蔡氏は高台にある地震の慰霊碑から清水を見下ろしながら、静かにこう語った。「いつか私が死んだら、遺骨は3つに分けて散骨させる。葬式はしない。そして『拝啓 おやじの友人の皆様 父はあの世で待っているそうです』と息子に公告を出させます」

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「粋だろう」と言わんばかりの蔡氏に、日本へ託す言葉を期待したが、続きはない。代わりに、脱いだ上着をひょいと肩にかけ、こう歌った。

♪ふるさとの山の青さよ、尊さよ なんで頭がこう下がる あの木、あの森、あのせせらぎも みんな昔の夢が住む
(「ふるさとの灯」作詞・西條八十、作曲・早乙女光)

「愛国心をはぐくんだ日本教育は、激動の戦後を乗り越える心の糧。しかし、行き場を失った愛国心ほど悲哀に満ちたものはない」。ある親日派長老はこういって肩を落とすが、戦後日本が領有権を放棄した後の「台湾」は、世界に法的存在が認められず、蔡氏には日本教育でたたき込まれた「愛すべき祖国」を持てないでいる。