訪日中の李登輝前総統は、ホテル・オークラにおいて「2007年とその後の世界情勢」と題し講演されました。

本会では講演原稿を入手し、掲載許可をいただきましたのでご紹介します。

「2007年とその後の世界情勢」

東洋大学総長・塩川正十郎先生、日華議員懇談会会長・平沼赳夫先生、日本李登輝友の会会長・会長小田村四郎先生、そして本日ここにお集まりのご来賓の皆様、こんばんは!

このたび、私は十二年間にわたって日本と台湾の知的交流の場となった「アジア・オープン・フォーラム」のご招待を受けて、同フォーラムの世話人代表の中嶋嶺雄先生のお世話で日本を訪問することが出来、懸案の「奥の細道」探訪の機会を得ましたことに、心から感謝すると同時に、本日この場で皆様とお会いすることが出来、またお話を述べさせて頂けることを大変嬉しく思います。

さて、急激に変化している国際情勢の中にあって、東アジアはその姿を大きく転換しつつあります。日本も新しい政治体制の下、急速に新しい創造力を発揮し、再度立ち上がりました。これは単純に物質を追いかける日本を超越し、日本の生命力と創造力の新しい誕生を意味します。

台湾海峡は、中国の内部における深刻な金融問題の処理、中央集権化を固めるための、政治体制の強化が続いています。

民主化後に於ける台湾の政治体制は、楽観できないものがあります。

二〇〇七年とその後の世界情勢の展開に、日本と台湾は、共にゆるがせにできないものがあります。そのため、本日は皆様に「二〇〇七年とその後の世界情勢」と題して私個人の展望をお話しようと思います。

一、前言

本論に於ける推論と予測は原則的に二〇〇七年に的をあて、これを基礎に二〇〇八年からそれ以降について展望するものであります。テーマは大きく世界・東アジア・両岸関係の三つに分け、分析と予測を行い、最後に戦略的配置についてお話ししましょう。結論から言って、この三つのテーマは、二〇〇七年の全世界の政治を支配することになるでしょう。

二、世界の政治

まず初めに、二〇〇七年、ロシアと中国の世界政治に対する重要性は、米国がイスラム世界で巻き起こしている衝突(「世界の反テロ戦争」)に劣りません。

次に、米国とイランは、各々が求めているイラクに於ける野心と戦略を互いに阻害し合っていますが、この対立は両国をして政治的解決に向かわしめる可能性を有しております。イラク戦争は米とイランのどちらか一方の勝利により幕を閉じることはなく、これがすべての交渉・談判の基礎になると思われます。

第三に、世界のリーダー国である米国の政治機能の麻痺、即ち外交ではイラク問題、内政ではブッシュ政権の弱体化ですが、この機に乗じて、その他の強い権力を持った国が大胆になり、ベネズエラからアジアに至るまでの国々の中で、米国に挑戦的な国が、より侵略的な行動に出ると思われます。中でも重要な行動を採るのがロシアと中国でしょう。

二〇〇六年、米国と聖なる戦士、即ちテロリストとの戦いはイラク問題として簡略化され、これが米国とイランの衝突に形を変えつつあります。しかし、見た目と事実は必ずしも一致してはいません。事実、対イラク問題イコール「世界の反テロ戦争」ではなく、米国とイスラム聖戦士達、つまり原理主義者たちとの戦いも、世界の最重要課題であるとは言い切れないのです。

ロシアはどうでしょう。二〇〇六年、ロシアはユーラシア大陸に於ける威厳を取り戻し、一九九〇年以来失墜した勢力範囲の支配権を再び手中に収めようと目論んでいます。 

時を同じくして、中国は深刻な金融問題の処理に着手しています。この金融問題に対する北京当局の主な目的は、問題の根本的解決というよりも、寧ろこれらの問題が収拾不可能な事態に発展することを回避するための処理に着手した、といった方がいいかも知れません。北京当局は中国共産党の中央と国家安全部門の強化を通して時間稼ぎをする一方で、経済問題が中国共産党政権を揺るがす火種とならないよう目論んでいます。

二〇〇七年、ロシアと中国の世界政治に於ける重要性は、米国がイスラム世界で巻き起こしている衝突(「世界の反テロ戦争」)に劣らないことは、先ほども申しましたが、これらのことは米政府をして、『自国にとって最も重要な挑戦は何であるのか』を改めて考えさせ、目を向けるべきはテロリストからの挑戦ではなく、その他の強大な権力であることを気付かせたのです。この為、米国は今、「世界の反テロ戦争」を続けることが、対外戦略の最重要課題であるか否かの再検討を迫られているのです。

二〇〇六年末、米国は最終的にイラクから兵を撤退せざるを得ないであろうと言うのが世界的な認識でした。イランはと言うと、米国のイラクに於ける有効な連合政府樹立の防止に成功し、米軍の撤退を期待していました。確かに二〇〇六年一月の米、中間選挙に於ける共和党の敗北により、多くの理性的な米国人は、「ブッシュ政府は最終的にイラクから軍を撤退させるだろう」と予測していました。

しかし、この予測が事実となれば、米国はイラク情勢への影響力を失うことになります。そこでブッシュ政府は、一般的な認識に反して、イラクへの追加派兵を決定しました。「サージ(Surge )」戦略という呼び方はいささか不適切ですが、この決定は確かに全世界の認識に反するものであったことは間違いありません。この戦略により、ブッシュ政府は戦局にかかわる各方面に対し、イラクに於ける米国の仮説を再認識させようとしたのです。

この戦略の成否は二〇〇七年に検証されることになりますが、米国はそう簡単にイラクから軍を撤退させることはできません。米軍が撤退すれば、イランがペルシャ湾一帯を支配することになり、米国にとって、それは到底受け入れられない結果なのです。而して、イラク情勢に対する政策を軍事方策で進めようとしても、僅か二万一千五百名の増兵では不十分です。同時にイランもまたイランが冒した危険は既に度を超しています。即ちイランが外部に行使した権力は既に自国の能力を超えており、イランは過剰拡大(インペリアル・オーバー・ストレッチ)という極めて危険な状態に置かれているのです。

テヘラン当局は米国に限りがあることは知っていますが、米国は巨大な権力資源も有しています。イランは米国の戦略的野心を阻むことは可能であり、同様に米国もイランの野心を抑える力を持っています。二〇〇七年のこうした事実が展開されるに連れて、米国とイランが政治的妥協に漕ぎ着ける可能性を秘めています。米国とイランの衝突は、どちらかの一方が勝利することはありません。これが双方のあらゆる交渉・談判の前提となっているからです。

これに付して「アルカイダ(al Qaeda)」問題が浮上してきます。アフガニスタン情勢は悪化の一途を辿っています。「タリバン(Taliban)」は潰滅した事実はなく、内陸へ撤退したに過ぎず、巻き返しを図っています。当時、ソ連が三十万人規模の派兵を行っても、アフガニスタンを制圧することはできませんでした。米国とその同盟軍がイラクに派遣した兵力で、すべての問題を成功裏に解決することが不可能である現在、「世界の反テロ戦争」は終るどころか、ソマリアやアジアのその他の地域や国家に拡散することを意味しているのです。イラク問題は「世界の反テロ戦争」の全てではありません。二〇〇七年、イラク以外の大西洋から太平洋に至るまでのイスラム世界では、更に多くの問題が浮上してくると思われます。

アメリカはと言えば、ブッシュ政権の弱体化問題は依然解決されていません。ブッシュ大統領は断固とした態度で行動を起こしているかに見えますが、その実、彼の行動には限りがあるのです。このことはその他の強権国家に一段と大胆な行動と空間を与える結果となっています。世界唯一の超大国の政治機能が麻痺する中、その他の国家は更なる侵略意図を備えつつあります。再度申し上げますが、二〇〇七年、ベネズエラからアジアに至るまでの米国に挑戦的な国々は、より侵略的な行動に出るであろうし、このうち最も顕著なのはロシアと中国なのです。

二〇〇六年、ロシアは再起に努め、旧ソ連の中心的位置に立ち返えり、旧ソ連諸国に対して、ロシアを中心に運行すべく目論んでいます。ロシアが旧ソ連地域に於いて権力の拡張を進めても、専らイラクとイランに注意力を寄せていた米国は、さしたる反応を示しておらず、ロシアはもはや米国の脅威に阻まれることはないのです。ロシア当局にとって、旧ソ連の地縁政治の支配権を確保することは、ロシアの最も根本的な国家利益にかかわることであり、こうした時に米国に反応する時間的余裕がない、或いは介入する為の充分な能力がないことは、ロシアにとって、最も望む所のものなのです。イランがイラク問題を利用して米国を中東地域に縛り付けている事実は、実はロシアにとっては最良の援護射撃となっているのです。

二〇〇七年、ロシアは旧ソ連地域に対する影響力を拡大し続けるでしょう。二〇〇六年に、こうした傾向は既に顕著に現れており、ウクライナの天然ガスの危機などが引き起こされています。二〇〇七年になり、この傾向は更に顕著になり、より多くの危機を引き起こすことになるでしょう。二〇〇七年の初めのベラルーシのエネルギー(石油)危機などは、一連の危機のプロローグに過ぎません。こうした傾向がある一定の時期に達した時、ロシアは自ずと米国とその他の強権国家、特に中国の利益と直接衝突することになります。ロシアは決して無鉄砲ではないにしても、自国の権力が極めて強大であることを自覚しています。ロシアは米国、ひいては西洋諸国と中国の経済利益を完全にロシアの勢力範囲外に排除しようとは思っていませんが、一定の原則を設けようと考えています。それはつまり、西洋諸国、もしくは中国が旧ソ連に於いて経済利益を獲得しようとするならば、それはロシアの国家利益に合致していなければならないという原則なのです。

同時に、ロシアは自らの行為を旧ソ連地域のみに限定しようとは思っていません。ロシア人は権力政治の道に精通しているのみならず、レバレッジ効果を利用した手段にも長けています。ロシアは米国が現在イラクとイスラム世界のトラブルに陥っていることを熟知しており、また、これらのトラブルが米国の力を効果的に牽制していることも承知しています。二〇〇七年、ロシアは引き続きイスラム世界に米国のトラブルとなる種を撒き、米国を効果的に押さえつけることでしょう。

次に中国ですが、ロシアとは相対的に、二〇〇七年の中国は国内の経済問題が深刻であるため、内部問題に翻弄されると思います。中国の国有銀行の不良債権は莫大であり、控えめに見積もっても国内総生産の約四割、正常に見積もれば六割にも達している可能性があります。これらの不良債権は、一九九〇年の日本の銀行のそれに相当し、一九九六年の台湾と韓国の不良債権総額を大きく上回る規模にあります。

中国は確かに巨額の外貨準備高を有しています。当時の日本・台湾・韓国もそうでした。しかし、巨額の外貨準備高は金融危機への起爆を緩和させることはできません。逆に、巨額の外貨準備高は主に輸出拡大から来るものであり、しかも日本・台湾・韓国のように、輸出拡大の重要な役割はキャッシュフローを維持することであり、それを企業債務の償還に充てているわけですから、利益がほとんど望めない輸出拡大は、問題を更に悪化させるだけなのです。北京当局は問題の所在を理解しており、二〇〇六年にこの制御を受けない経済成長の減速を図ろうとしましたが失敗に終わり、輸出拡大は更に進み、中国の経済は引き続き過熱状態にあります。多くの人々は、当時の日本と東アジア経済に下された評価もそうであり、経済成長と健全な経済を同一視していますが、しかし、中国企業の利益回収率は極めて低く、しかもマイナスに陥っているので、経済の高成長は決して健全な経済の表れではなく、逆に経済疾病の症候群というべきなのです。

中国政府は何らかの対策を採らねばならないことを知っており、二〇〇五年と二〇〇六年の失敗に鑑み、二〇〇七年は、中央政府の政治支配力を強化し、人事の統制により経済をコントロールしようとするでしょう。人事統制の主な手段は汚職の粛正です。二〇〇六年九月、汚職一掃の大義名分の下で上海閥に捜査のメスを入れたのは、その前兆に過ぎず、二〇〇七年に、こうした動きは更に多くなると思われます。

三、東アジアの転換

二〇〇七年の東アジアは、正に政治の一年となるでしょう。二〇〇七年は日本・韓国・台湾・フィリピン・豪州で共に選挙が行われ、中国・北朝鮮・ベトナムの三つの共産党国家も、この年に党内上層部人事の再調整が行われます。この為、二〇〇七年は東アジア各国の内部権力が再分配され、これらの国々は外交ではなく、内部に力を注ぐ年となり、同時に準備と転換の年度となります。

東北アジアでは、日本の安倍晋三首相が二〇〇七年末以前に、教育基本法と憲法改正を果たすべく取り組んできました。小泉純一郎前首相が憲法改正に向けて打ち立てた基礎の下に、安倍首相が今年これを完成させ、日本を「普通の国家」に転換しようとしています。日本は世界第二の経済体にふさわしい政治的地位と影響力を追求するのです。これに向け、日本政府は憲法を改正し、自衛隊を海外で実質的に作戦任務が遂行できる軍隊に改造させようとしています。又教育基本法の修正により、国民のアイデンティティーを高めることが出来るでしょう。

この為、二〇〇七年、日本政府は国際社会に於いてより積極的になるものの、真の戦いは日本国内にあり、その焦点は七月に予定されている参議院選挙にあります。予想するに、与党の自由民主党は参院選に勝利する可能性はあるものの、それには安倍政権と自民党が国民に対して経済回復の形跡が継続していくことを示さねばなりません。またその他に、安倍首相は2006年にNSC機構の成立を発表しましたが、NSCの重要性を強調し、具体的に推進するまでに至っていないようです。強い内閣政治は、日本にとって大切なことです。

韓国に於いても、その重心は内政問題にあります。現行の憲法では、韓国の大統領は再任することができない為、十二月の大統領選で新しい大統領が生まれることになります。盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の「開かれた我が党(ウリ党)」では内部対立が激しく、既に分裂ぎりぎりのところまで来ています。このような情勢を立て直すためには、新しい党名と指導者が必要であり、改名後の新党はノ・ムヒョン大統領と一線を画すことになるでしょう。母体政党の崩壊を目の当たりにし、党から疎遠になりつつあるノ・ムヒョン大統領は、最後の任期内に自身の戦略を推進させるでしょう。即ち韓国と北朝鮮のより緊密な関係を推し進め、更に軍隊の構造を変えて軍事的に米国からの独立を企てているに違いありません。

これに対し、最大野党のハンナラ党は十二月の大統領選に向けてラストスパートをかけており、同党が大統領選に勝利する可能性は極めて高いと私は見ています。同党が勝利すれば、韓国と米国の過去五年間の冷え込みに転機が訪れます。ハンナラ党はノ・ムヒョン大統領とは異なり、韓国と米国のより緊密な軍事関係を支持しており、外交上では日米と同一の戦線に立ち、北朝鮮に対して強硬な態度を採っています。この為、ノ・ムヒョン大統領は残された数カ月の任期内に、韓国軍隊の自主的な防衛計画を推進し、韓国の前途を自身が理想とする枠組み内に収めようとするでしょう。また朝鮮半島の歴史に名を残す為にも、二〇〇七年下半期に第二次南北首脳会議を行う可能性も予測されます。

新たな南北首脳会議は、北朝鮮の戦略意図にも合致します。北朝鮮政府は、二〇〇七年十二月に韓国で行われる大統領選で「親米反北」の大統領が誕生することを恐れており、選挙前に南北首脳会談を行い、ハンナラ党候補者の勢いを削ぎたいと考えています。同時に、北朝鮮が二〇〇六年十月に行った核実験は、国際社会の激しい反発を招くこともなく、更に米国が中東問題に縛られている間に北朝鮮は中国との関係を顕著に改善させてきました。この為、北朝鮮は二〇〇七年に新たな経済改革政策を打ち出す可能性があります。これに伴い、二〇〇七年には政府の重要幹部を入れ替え、金日成(キム・イルソン)の重要な旧臣を、より若い金正日(キム・ジョンイル)に仕えてきた部下に交替させるでしょう。

時を同じくして、台湾でも十二月には新制度下で行われる立法議員選挙があり、二〇〇八年三月には総統選を控えています。この二つの選挙は、向こう四年間に於ける台湾の政局の見通し、ひいては国家の前途を決定することになるでしょう。

一方、東南アジアでは、ベトナムが与党と政府上層部人事の調整を行い、二〇〇六年十二月WTO加盟後の新たな経済課題に対応していきます。この他、ベトナムでは二〇〇七年の五月と九月に国会議員選挙と国家主席の二つの重要な選挙を控えています。これらの選挙は民主的とは言えないものの、ベトナム政治に於ける上層部の権力構造を変えるには充分なイベントとなるでしょう。

 これとは対照的に、タイでは引き続き二〇〇六年九月の軍事クーデターによる政治と社会の緊張緩和に努めるでしょう。正常な民主選挙が回復されるかどうかは別にして、タイ軍部は政治の仲裁者の役割を果たし続けると思われます。

一方、フィリピンでは、二〇〇七年五月に国会議員選挙が行われる予定で、選挙の争点はフィリピンと米国の防衛関係に集中することでしょう。

オーストラリアでも十二月に国会議員選挙が行われる予定であり、次期与党と首相が、この選挙で決まります。

総括すると、二〇〇七年は米国が引き続きイラクとイランに焦点を当て、二〇〇八年大統領選の準備に追われる一方で、東アジア各国は内政に重きを置き、内政議題の処理に専念する一年となるでしょう。この為、二〇〇七年は東アジアに於ける国際政治は、相対的に安定した年となりますが、その安定した範囲にもちろん台湾海峡も含まれています。

四、台湾海峡の変容

内向的且つ過渡的な東アジア各国の中で、最も重要なのは中国です。

二〇〇七年秋に行われる中国共産党第十七回全国代表大会(「十七全大会」)が、全世界の注目を集めています。世界のメディアでは、胡錦涛が「十七全大会」の政治戦で勝利を収められるかどうかが語られていますが、実際、彼は既にすでに勝利しているのです。二〇〇七年、中国の政治の焦点は「十七全大会」というよりも、経済だと言った方が正しいでしょう。

中国の金融問題は既に周知のところであり、中国が経済危機に陥ったとの見解も早くから提起されていました。しかし、依然として多くの人々が中国経済の高度成長に惑わされ、中国に経済危機が存在することを否定し、もし危機が存在するならば、経済危機はいつ訪れるのかとの疑問さえ持っていますが、事実上この疑問は的外れなのです。何故ならば、中国の金融危機は既にそこに存在しているからです。重要な事は、世界が中国の金融危機をいつ認識するのか、中国政府は如何に問題を処理するのか、そして中国政府に、果たしてこの情勢を制御する能力はあるのか等です。事実と一般認識との距離は、一九九一年の日本に於ける平成の危機(アジアの第一次金融危機)と一九九七~九八年の東南アジアに於ける金融危機(アジアの第二次金融危機)の時と同じであると言えます。即ち危機が全体的に認識される以前に、金融体系は既に救いようのない段階にまで悪化していたのです。

中国の経済危機が既に存在しているのであれば、なぜそれに気付く人は少ないのでしょうか。原因の一つとして、中国の経済危機は経済データにではなく、社会と政治に反映されることが挙げられます。また、中国が巨大な規模であるが故に、経済危機の深刻さを正確に測ることができないことも要因となっているのです。その結果、投資家と専門家は依然として中国の見せかけの高度経済成長に惑わされています。それは取りも直さず、当時の多くの専門家が日本と東南アジアの金融危機を見抜けず、逆に経済危機を示していたはずの多くの先行指標(大量の資金が海外に流れるなど)を、経済力の表れとして見なしたことと同様な現象なのです。

事実、二〇〇六年、中国の経済危機は既に顕在化してきていました。一部の国際機関は二〇〇六年五、六月に中国商業銀行の不良債権について次々と報告を発表し、外国直接投資も二〇〇六年第3四半期から停滞しています。この外国直接投資を更に詳細に見ていくと、投資総額は二〇〇四年以降から大きな変化はないものの、香港及びバージニア諸島などタックスヘイブンなどからの投資が顕著に増加しています。これは欧米とアジア各国からの投資が減少していることを意味しており、この重大な傾向が国際メディアに取り上げられていないだけのことなのです。

外資の減少は、中国当局が沿海地域の資金を内陸部に移転させる能力に直接影響してきます。中国の沿海地域と内陸部、都市と農村の経済格差は日増しに深刻化しており、中国政府はこれらの格差を縮小させることにすべての注意力を注ぎ、政府系メディアにも大きく取り上げさせてはいるものの、未だ効果のある具体的な解決案は見付かっていません。

この為、中国政府は経済問題により引き起こされる衝撃を緩和する政策、或いは一種の愚民政策に方針を転じています。この中には中国の宇宙計画や二〇〇八年の北京五輪開催、日本との歴史問題など、大衆の注意力をその他の議題にそらすことも含まれているのです。中国当局はまた、経済危機が全面的に表面化することを無期限に先延ばしにしたいと考えています。彼らが望む中国が歩むべき方向は、日本の長期停滞でもなければ、一九九七年の東南アジアに於ける急速な金融崩壊でもありません。中国政府は、これまで地方政府の経済行為を効果的に管理、もしくは誘導することができなかった為、当局は試行錯誤の方法を採用。即ち政府役人の免職です。上海閥の粛正はこの戦略の一環に過ぎず、二〇〇七年秋に行われる「十七全大会」で、この戦略はピークを迎えることでしょう。

「十七全大会」の真のテーマは、胡錦涛の無限の権力と中央政府への挑戦をはねつける強大な権力の樹立にあるのです。「十七全大会」を通じ、胡錦涛は彼が求めている絶対的な権力を手に入れるに違いありません。その上で、胡錦涛は中国経済の支配権を再び中央に集中させると思われます。経済支配権を再び中央に集中させるには比較的長い時間を要し、二〇〇七年内に完了することはなく、二〇〇八年の北京五輪以降になる可能性も考えられます。しかし、権力のすべてを中央に集中させる準備は既に整っているのです。

こうした内政戦略を背景に、二〇〇七年に於ける中国の対外戦略の核心となるのが米国と台湾なのです。

長期的に見た場合、中国と米国による太平洋制海権の争奪戦は避けられません。しかも双方は自らの行為は純粋に防衛的であると考えています。しかし、この争奪戦は二〇〇七年に公然化したり白熱化したりすることはないと思われます。二〇〇七年の中国の対米関心事は、経済問題に集中しているからです。米民主党による上下院の全面支配と米中貿易の収支不均衡の深刻化に伴い、米議会の中国への経済攻撃が(こうした経済攻撃は二〇〇六年に既に顕著に行われている)、二〇〇七年には一段と激化し、二〇〇八年の米大統領選時にピークを迎えることになるでしょう。

こうした攻撃の度合いは、二〇〇七年に米中関係を決裂させるまでには至らないものの、施政の重点を経済危機の管理に置く中国にとっては、米議会の対中国経済攻撃の動きは、中国当局が最も関心を寄せていることなのです。

 台湾海峡については、中国当局の関心は台湾の政局動向にあり、特に二〇〇八年の総統選で、どの政党が政権を執るかに注目しています。基本的に、中国当局は民主進歩党(民進党)よりも、中国国民党(国民党)の候補者の当選を期待しており、国民党が制すれば今後の台湾政府の施政に、より影響を及ぼしやすいと考えています。と同時に、これまでの多くの経験と教訓に基づき、中国当局はすべての希望を国民党の総統候補者に委ねることはしません。今度はより慎重な手法を採り、国民党への影響力を維持しながら、民進党への影響力も強化させていく。つまり、二〇〇七年、中国は過去数年にわたって蓄積してきた国民党への影響力を維持・拡大するに留まらず、「民進党内部への働きかけ」をより積極化させ、リスクを低減すると共に民進党への影響力の拡大を図っていくものと思われます。

五、戦略的意義

二〇〇七年、世界の政治の中心は米国とイランの二国間関係となりますが、同時に米国とロシア、米国と中国の競り合いもますます重要となり、米国が中東情勢を安定させた後、これらが徐々に世界の政治を変える新たな主軸となって行くでしょう。

この二つの新たな主軸が依然形成されない二〇〇七年、東アジア各国は内政事務、特に権力の新たな分配と配置に追われ、この面から言えば、東アジアにとって二〇〇七年は特別な年であり、内部に激しい競り合いのある過渡期の一年となることが予測されます。

この特殊な年が過ぎ、二〇〇八年を迎えると、中国では胡錦涛が更に力を得た最高指導者となり、一方、彼の国際政治に於ける最も重要なライバルである米ブッシュ大統領は、「弱々しい大統領」とまでは言えないものの、少なくとも「トラブルに遭遇した大統領」のままでいるでしょう。

この趨勢には三つの重要な戦略的意義があります。

 まず、ブッシュ大統領の弱体化と外交上の困難により、米国は一時的に東アジアに於ける主導権を失います。こうした状態は歴史的にも度々見られましたが、態勢を一変させるには米国が新たな政治周期に入るまで待たなければならい。つまり、二〇〇九年に新しい大統領が誕生した後、新大統領がブッシュ大統領の失敗に終わった政治周期から米国を救い出し、米国の権力を取り戻すことが必要なのです。これは米国が東アジアと中国で激しい権力競争を繰り広げることを意味しており、東アジアの歴史は米中の太平洋争奪戦時代に突入することになるでしょう。

 第二に、二〇〇七~〇八年の二年間、米中間の太平洋争奪戦はなく、中国は専ら、東アジアの政治の主導を目論んでいます。米国がイスラム世界に縛られ、ブッシュ大統領が依然として弱体化したままの状態でいるとすれば、それは東アジアの地縁政治が第二次世界大戦前の状態に戻ることを意味します。即ち、東アジアでは域内に限定された権力競争が繰り広げられ、その権力競争の主軸となるのが中国と日本なのです。

安倍首相は靖国神社参拝問題に於いて中国に白旗を上げたようにも見えますが、彼の本当の答えはNOB(None of Your Business)であり、中国の内政干渉の要求を実質に受け入れた訳ではありません。更に日本の防衛省長官が米国のイラク政策を批判しています。こうした「内政(七月の参院選)を考慮した外交」手段から見ると、日本は少なくとも短期内に(安倍政権の時代に)中国と対等に張り合う力を持てるよう努力しなければならないと思います。これにより、日本は初めて、二〇〇七~〇八年以後の東アジアの政治を主導する国となり得るのです。

 第三に、中国が二〇〇七~〇八年に東アジアの戦略情勢を主導することは、二〇〇八年五月に就任する台湾の新しい総統が中国から一段と厳しい挑戦を受けることを暗示しています。それはたとえ誰が就任しても同じことなのです。国民党と民進党には国家安全保障に於ける真の実戦人材がいない為、国民党の総統が就任すれば、台湾はこの期間中に(特に二〇〇八~〇九年上半期)、困難に直面する可能性も排除できません。一方、民進党の総統が就任したとして、この新総統は一九九〇年代に育てられた国家安全保障チームを起用しなければ、中国からの挑戦に対応することはできないのです。これが新総統の向こう四年間の総統職(Presidency)を左右する重要な鍵なのです。

 ご清聴ありがとうございました。