5月30日から6月9日まで、台湾の李登輝前総統が日本を訪れた。後藤新平生誕150年を記念して創設された後藤新平賞の受賞のためである。6月1日に六本木の国際文化会館で行われた授賞式は、立見の人が出る盛況だった。
その後、曽文恵夫人とお孫さんらを伴って芭蕉の奥の細道の一部を歩き帰京、都内での講演には、これまた1,4000名近くが集まった。日本滞在最後の夜の李前総統主催の答礼の宴でも一連の行事は終わらず、急遽、離日当日に日本外国特派員協会で記者会見が行われ、300名を越える特派員らが集まった。
李前総統の言葉は日本人の心に深く浸透する。前総統が告げているのは世界やアジア情勢の分析にとどまらず、日本人とはどのような民族であったか、日本とはどんな国家であったかという、私たちの魂に直接つながる内容だからである。李前総統が私たちに語りかけるのは日本と日本人が失って久しい価値観であり、日本人が疾うの昔に置き去りにしてきた価値観を、いまもたしかに生きているのが李前総統である。
1923年1月15日生まれの氏は現在84歳。日本統治下の台湾で生まれ、22歳まで日本人として生きた。そのことについて氏は、日本人であったこと、日本文化の下で基本的な教育と教養を身につけたことを、〝心から感謝〟していると強調した。
氏を日本の旧制中学、旧制高校に通わせたのが、父親の李金龍氏、警察学校出身の官吏だった。母の名は江錦。李前総統と兄の登欽氏への両親の慈しみの深さは、登欽氏の死に、どのように向き合ったかという事例からも窺える。
李登欽氏は芸術家肌の多芸多才の人だった。オルガンやヴァイオリンをよくした氏は、帝国陸軍の第一期の志願兵だ。だが、マニラ戦で死亡、靖国神社には岩里武則名で祭られている。
兄と祀ってくれた靖国神社
李前総統は、死に際して登欽氏はたしかに台北の自宅に戻ってきたと、次のように語る。
「兄貴が戦死したと思われる丁度そのとき、兄貴は自宅に帰ってきたのですよ。使用人が、兄貴が血まみれになって帰ってきた姿を見たと言っていた。兄の魂が帰ってきた。僕はそう思ったけれど、親父は違った。12年前に96歳で亡くなりましたが、親父は死ぬまで、兄貴の戦死を信じなかった。だから、墓も作らない。親父の気持ちを思えば、僕が兄貴の墓を作ることは出来ないでしょう」
亡父の気持を尊重して兄の死を前提とする行事もお墓を作ることも控えてきた。その李前総統にとって兄の霊が靖国神社に祭られていたことを知ったのは心の安らぎだったという。
「前回の22年前の訪日のときには、兄貴が靖国にいることを知らなかった。今回はじめて、62年振りに靖国神社で兄貴に会って、兄貴の霊の前に深々と頭を垂れ、冥福を祈ることが出来た。私としても、残り少ない一生のなかで、やるべきことをやりましたという気持です。人間として、有難く、深く感謝しています」と李前総統は涙を見せる。
中国が目の敵にする靖国神社については、「わが家で出来なかったことを、よくやってくれた。兄の魂を祭り、ここでお祈りしてくれていたことを、私は感謝しなければならないと思っております」と繰り返す。
李前総統は台北の旧制淡水中学から旧制台北高校に学んだが、7日の講演会には、台北高校の同級生ら約30人も集った。彼らは「あの頃はいつも議論していた」と懐かしむ。
「人間とは何か、死とは何か、人生の目的は何か」など、実用につながらないことばかり議論していたという。李前総統も振りかえった。
「その頃読んだ書物は数限りないです。特に私の心を揺さぶったのは、鈴木大拙や西田幾多郎、倉田百三、夏目漱石、阿部次郎、和辻哲郎をはじめとする〝人間の内面を深く省察する〟書物でした」
やがてカント、ヘーゲル、カーライル等を経て、李前総統は新渡戸稲造の『武士道』に出会った。
「青春時代の魂の遍歴に、最も大きな影響を与えた本を三冊あげるとすれば、ゲーテの『ファウスト』、倉田百三の『出家とその弟子』、カーライルの『衣装哲学』」と語る李前総統の、泉のように溢れ出す人間的な魅力に接するとき、私は、教養を深め人格を磨くことを基本にした旧制中学、旧制高校の教育のすばらしさを、他の誰からよりもリアルに実感する。
「僕はいつも、人間とは何か、死とは何かを考えてすごしました。少年時代から、自分は一体何者かと問いつづけていたのです」と、機嫌のよいしっかりした声。
「漱石の『こころ』、西田幾太郎の『善の研究』にどれだけ、感化を受けたか。こうした書物が日本人の教養の基本だった。そのおかげで、私はいまようやく、『私は、私でない私』であると、実感するところに辿り着きました」
「僕は日本の骨董品」
「私は、私でない私」をどのように説明すれば、正しく李前総統の思いを伝えることになるのか、正直に言って、私には分からない。けれど、かつて伺ったこんな話を想い出す。
「人間は誰しも、自分を肯定する強烈な自我がある。同時に自己を否定する激しい想いもある。自己肯定と自己否定。この過度な自意識から脱却して、自己中心から他者中心、社会中心に、心を切り替えなければならない。クリスチャンとして言えば、神は人の心の中に在る、深い愛によって人間を受けとめ許してくれる神は心の中に在る。そのことを知れば、私はもはや、自我の強い私ではなくなるのです」
それがどんな宗教であろうとも、社会の指導者たる者が宗教を持つことこそ重要だと説く李前総統。氏が心おきなくカントを語り、カーライを語り、西田哲学を語った夜は瞬く間にすぎていった。滞在中に李登輝前総統が見せた姿のひとつが鮮やかによみがえる。旧制台北高校の同級生と揃いのハッピを着て学生帽を被り、校歌を歌った姿である。一番から四番まで、手で大きく拍子をとりながら歌う姿は、日本と台湾をつなぐ本来の絆の深さと親密さを雄弁に物語っていた。
「なぜ、日本にはこのように多くの友人が私を待っていてくれるのか。なぜ、李登輝は日本で歓迎されるのか。それは僕が骨董品だからだよ。そうだ僕は、日本の骨董品だなぁ」と破顔一笑の氏。
李前総統は今回歩けなかった奥の細道の残りの道を、来年また、歩きたいと語った。来年といわず、いつでも、自由に、芭蕉の道を楽しみ、靖国神社での兄上との静かな語らいの時間を持ってほしいものだ。
今回の訪日を可能にしたのは安倍晋三首相の決断であり私はそれを高く評価する。だが、日米の政治家たちは、これが当たり前なのだということを深く肝に銘じるべきなのだ。
『週刊新潮』 2007年6月21日号 日本ルネッサンス 第268回