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「訪日成功」、靖国参拝「中国の批判は交渉術」 李登輝氏、帰台前に会見 先月30日に来日した台湾前総統の李登輝氏(84)は9日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で記者会見し、22年ぶりの東京訪問など「今回の訪日は成功であった」と総括した。曾文恵夫人ら、家族とともに芭蕉「奥の細道」ゆかりの地、宮城や山形、岩手などを11日間にわたってたどった。李氏は、「進歩の中にも伝統や文化が失われておらず、若者も日本人の美徳をきちんと秩序よく学んでいる」と訪日の印象を語り、「戦後の焦土の中から立ち上がって経済大国を作り上げた国民の努力に敬意を表する」と評価した。 1923(大正12)年に日本統治下の台湾に生まれた李氏は旧制台北高校を経て京都帝国大に学び、学徒動員先の名古屋で終戦を迎えた経験をもつ。「昭和21(1946)年まで新橋の焼け野原の一軒家にしばらくいたが(記者会見が行われた)今の有楽町の発展ぶりは天地の差がある」と李氏は話し、東京の変貌(へんぼう)ぶりに目を見張った。 第二次世界大戦で戦死した実兄の李登欽氏が「岩里武則」の日本名で祭られている靖国神社に7日、参拝したことについては「一人の人間として兄に対する冥福(めいふく)をささげることができ、一生忘れられない。心から感謝している」と改めて語った。 李氏の靖国参拝を中国が批判したことについて、「中国や韓国などが自国内の問題を処理できないため(民衆の批判の矛先をそらそうと)靖国問題を作り上げた」と反論。さらに「日本の政府はあまりに弱かった。国のために亡くなった人を祭るのは当たり前のこと。外国の政府に批判されることではない」と話し、日本政府の弱腰や中韓の内政干渉問題を指摘した。 また李氏は、安倍晋三政権の外交姿勢について触れ、「(昨年の)就任早々に安倍首相が訪中したことは囲碁に例えれば布石であり上等だった。国と国の関係をつくるのに正しいやりかただ」と評価した。しかし「中国人の言うことは(批判などを軽々に)信じない方がいい」とも話し、中国人が用いる交渉術としての批判を、常に真に受ける日本人の単純さを指摘した。 中国との間で揺れる台湾の主権問題では、「2300万人の住民が主権を握る台湾は、すでに独立した国だ」との持論を述べて、改めて中国から独立する必要はない点を強調した。 李氏の訪日は2000年の総統退任後3度目だが、東京訪問は初めてだった。李氏は「来年以降また芭蕉の足跡をたどりたい」とも話し、再度の来日に強い意欲を示した。李氏一行は同日、成田発の中華航空機で帰台の途についた。(河崎真澄) 【6月11日・フジサンケイビジネスアイ】 |
【噴水台】李登輝 何かと問題が多い靖国神社にもう一つの禍根を残すほどの客が参拝していった。 1988年から2000年まで台湾を統治した李登輝前総統がその主人公だ。 先週日本を訪問した李登輝前総統は、日本軍兵士として第2次世界大戦に参戦し死亡した2歳年上の兄が岩里武則という日本名で合祀されている神社本殿を参拝した。 大勢の人が当惑した。 「私の父母兄弟の名前を靖国神社の名簿から除いてほしい」として日本政府を相手取り訴訟を起こした他の台湾の遺族の努力に冷や水を浴びせる行為だったからだ。 いま靖国神社には台湾人2万8000人だけでなく、朝鮮人2万1000人の魂魄も合祀されている。 李登輝は台湾の歴史に大きな業績を残した。 国民党政府の長期戒厳統治に終止符を打ち、初めて直接選挙を実施した主人公だ。 「一滴の血も流さず軍事独裁から民主体制に変革した」と自ら誇りにしている点に異議を唱える人は誰もいない。 ところが李登輝を最も高く評価しているのは意外にも日本の右翼勢力だ。 代表的な右翼宣伝家・小林よしのりの漫画「台湾論」(2000年)は、日本の植民統治が現在の台湾の繁栄の元肥になったという論理を展開している。 この本で李登輝は「日本精神」のモデルとして描かれている。 公を優先する自己犠牲、普段は行動に慎重だが時期がくれば命を惜しまない勇気、終わりのない自己修養など、日本人が忘れてしまった「武士道」を李登輝から学ばなければならない、ということだ。 彼もこれにこたえるように日本の統治を称賛する。 「匪賊が横行する未開の台湾で1898年(台湾総督府)民政長官として赴任した後藤新平はペストなど病気を根絶し、教育普及に注力した。今日の台湾は彼が築いた基礎の上にある」。「私は22歳まで日本人だった。(京都大を卒業するまで)正統日本式教育を受けた私の教養は日本の伝統につながる」。 日本政府の否認にもかかわらず、李登輝の訪問は入国許容からして政治的な象徴性を帯びている。 自民党内で親台湾派は理念的に右翼に近く、親中派は概して中道保守だ。 彼は今回の訪問で「靖国問題は中国大陸と韓半島で作り出されたもの」とし「日本の対応はあまりにも低姿勢」という指摘も忘れなかった。 日本訪問を終えて帰る彼を空港で待っていたのは、興奮した中国人が投げたペットボトル洗礼だった。【6月11日・朝鮮中央日報 】 |
日本丟瓶後!李登輝下鄉 維安嚴謹 剛結束日本11天訪問的前總統李登輝,才在成田機場歷經丟瓶驚險記,今天下鄉雲林參加農會信用部開幕,維安警戒大陣仗;不過李前總統比較關心農漁會,意有所指的呼籲政府,不要因為擔心農漁會是別人的樁腳,就不照顧不幫忙。 沒看過民眾這樣吧,一個個路邊蒐證還真謹慎,警方維安不平常,更是大陣仗,就是希望86歲的李前總統安全。主持人:「請用剪(剪綵)。」 剛從日本返台,就與台聯子弟兵下鄉雲林農會信用部關心基層,與前幾天相比,李前總統精神好多了,暗批扁政府對基層不夠用心。李登輝:「我們一輩子為台灣打拼出來,不要說誰的樁腳,把誰打倒最好,這種觀念真是要不得。農會發生大事也沒有人向我報告,我氣的要死,氣的整個人差點暈過去。」 別氣別氣,提到政府硬性接管36家農漁會信用部,老人家氣呼呼,只是過幾天會不會跟謝長廷到日本一塊參加椎名參議員的追思會。記者:「總統6月20日要再去日本嗎?」前總統李登輝:「你才回台灣,不累喔!」 訪問一同出訪的記者累不累呀,身上還貼著4塊撒隆巴斯,李前總統還在想,要不要這樣密集訪日呀!【6月13日・TVBS】 |
北京民眾示威抗議 要求釋放襲擊李登輝男子 大陸男子薛義9日在日本襲擊前總統李登輝,遭到日本警方拘留,18日上午大陸反日團體,前往北京日本大使館前抗議,要求日本政府放人,大陸警方三步一哨、五步一崗嚴防發生事端,不過由於現場採訪記者比抗議人數還要多,因此抗議現場有點冷清。 大陸男子薛義因不滿前總統李登輝參訪靖國神社及發表「台獨」言論,9日於李前總統欲搭機返台時丟擲寶特瓶表達抗議,隨即遭到拘捕。今日大陸北京反日民眾就聚集日本大使館前,手持反日及反李白布條,高呼抗議口號,聲援薛義。 為防止抗議事件衍生,大陸警方甚至封鎖現場,提高戒備,氣氛相當緊繃,北京抗議民眾認為,李登輝是中華民族的罪人、無恥的漢奸,參拜靖國神社是罪上加罪,人人得而誅之!抗議領隊更激動表示:「就因為兩個礦泉水瓶子,能把人關這麼長時間嗎?而且李登輝訪日,還參拜靖國神社,我覺得不僅是大陸人民,台灣人民也很憤怒的。」 但有意思的是,現場抗議人數不超過15個,但是採訪記者超過50人,記者人數明顯比抗議人數還要多,且日本使館人員出面接下抗議書後,抗議歷時短短10分鐘立即結束,只是大陸警方不驅趕抗議團體,反而驅散上前採訪的記者,導致場面結束的有些混亂。 雖然大陸反對集會遊行,但只要中日關係一緊張,日本使館前就聚眾抗議,不但現場設置採訪區,大陸警方也出動維持秩序,可以看出這種抗議,象徵大於實際。 【6月18日・東森】 |
聲援擲瓶客 陸反日人士聚集抗議 日前前總統李登輝結束對日訪問時,在機場遭到一名大陸男子薛義投擲水瓶,週一上午,一群大陸反日人士聚集在日本駐北京大使館前,舉行示威活動,聲援薛義,抗議人士表示日方不應該拘留薛義,然而日本方面卻表示早就已經放人,一場抗議活動,也在無人回應的情況下草草結束。 大陸反日人士:「釋放薛義,死路一條!」 星期一上午,反日人士聚集在日本駐北京大使館前,進行示威。 大陸反日人士:「薛義勇士,民族英雄!愛我中華,特愛和平!參拜神社,無恥至極!」 反日人士口中聲援的民族英雄,就是日前在成田機場,向李登輝前總統丟擲水瓶的大陸男子薛義。示威人士遞交抗議信,抗議日本政府拘留薛義。 中國保釣聯合會馮錦華:「只不過是2個礦泉水瓶,把人關了10多天,我們覺得日本政府太過分,遠遠超過我們中國人的忍耐範圍。」 大陸反日人士:「民族尊嚴,不容侵犯!」 根據東京的消息指出,薛義早在幾天前就被釋放,抗議人士卻仍堅持薛義仍被拘留,日本使館方面只好派一名身分不明的官員收下抗議信。 大陸反日人士:「民族主義萬歲!」 儘管口號喊得殺氣騰騰,不過示威人士不多,警方的封鎖線也很快解除,一場沒頭沒腦的抗議,短短20分鐘之內,宣告落幕。【6月18日・TVBS】 |
對李登輝丟瓶案 中國男子薛義先遭拘留十天 北京傳出約有二十多名中國民間人士今天上午到日本駐北京大使館前示威抗議,要求日本政府立即釋放向前總統李登輝丟擲寶特瓶而被捕的中國男子薛義。中央社記者向日本警方查詢得知,薛義目前仍被拘留中,警方還在偵辦此案,最快將於二十日結果會出爐。 中央社記者今天致電日本成田國際機場警察署,詢問六月九日前總統李登輝在該機場遭到中國男子薛義丟擲寶特瓶一事偵辦的進展如何。 |
北京日本大使館前小規模民衆示威,抗議李登輝日本行 北京的日本大使館前週一出現一小群示威民衆,抗議台灣前總統李登輝,大罵他是中國人的叛徒,是日本人的走狗。 約15名抗議人士在優勢警力和媒體的包圍下,譴責日本讓李登輝訪日,並要求日方釋放在機場向李登輝☆擲寶特瓶的中國男子。 警方在日本使館周邊道路拉起封鎖線,媒體僅能在規定區域中,這場精心策劃的示威行動持續約30分鐘後,人群逐漸散去。【6月18日・ロイター】 |
日本大使館前で中国人の釈放求め抗議 18日、北京の日本大使館前で抗議行動をする中国の活動家。来日中の台湾の李登輝前総統にペットボトルを投げ付けたとして中国籍の自称エンジニア、薛義容疑者が逮捕されたことに反発。抗議書を大使館側に渡した。【6月18日・時事通信社】 |
李前総統に中国活動家15人が抗議、容疑者の釈放要求 日本を訪問した李登輝・前台湾総統が今月9日、成田空港で中国籍の男にペットボトルを投げつけられた事件に関し、中国の民間活動家約15人が18日、北京の日本大使館前に集まり、男の即時釈放などを求めて抗議活動を行った。 ペットボトルを投げつけた自称エンジニアの薛義(せつぎ)容疑者(34)(千葉市在住)は暴行の現行犯で逮捕され、現在も拘置中。 民間活動家らは李氏を「台湾独立の親玉」と批判。薛容疑者の抗議行動は正当だとした。現場では特に混乱はなかった。【6月18日・読売新聞】 |
「政治と『想像の力』」 政治部・島田学(6月18日) 先日、台湾の李登輝前総統が来日した際、ある外交筋から興味深い話を聞いた。「アジア各国の外交インテリジェンス(情報)の世界の関心は『安倍晋三首相は李氏と会ったのだろうか』ではなく、もはや『彼らが会って何を話したか』だ」――。 そもそも首相が李氏と会ったのではないかということ自体、誰も確認しておらず憶測の域を出ない。5月30日に来日した李氏の目的は、あくまでも松尾芭蕉ゆかりの「奥の細道」の探訪。ただ今回は総統退任後の来日で初めて東京に滞在したほか、初めての記者会見、靖国神社参拝など、政治的要素が強かったのは否めない。中国外務省は敏感に反応し、「中国の重大な懸念を重視し、台湾独立勢力のために政治的舞台を提供しないよう強く求める」(姜瑜副報道局長)と強い懸念を表明した。 小泉政権時代に冷え込んだ日中関係が、安倍首相の昨年の電撃訪中によってようやく改善機運に転じている状況で、首相が李氏と面会すれば一気に悪化するのは確実。だから首相と李氏の会談はあり得ない――。だがインテリジェンスの想像力は時に、こんな「常識」をも軽く超えるようだ。 首相の1日の動静を細かく伝える弊紙小欄「首相官邸」。李氏来日後の5月30日と6月1日の欄をみると、首相は両日とも夜はホテルオークラで夕食をとった。 <5月30日> 18時47分 ホテルオークラの「ケンジントンテラス」で勝俣恒久東京電力社長、岡素之住友商事社長ら。 <6月1日> 19時28分 ホテルオークラの日本料理店「山里」で森元首相、的場官房副長官。評論家の宮崎哲弥氏が加わる。 何の変哲もない情報だが、李氏が両日ともホテルオークラに泊まっていたとなると話は別。しかも首相が途中、1時間にわたり席を外したとのうわさが現場で飛び交い、集まっていた報道陣は一時、色めき立った。もちろん関係者は言下に否定し、真偽はわからない。だがインテリジェンスの世界では首相が李氏に面会したことは前提で、関心はその先に向けられている。 別のある外交筋は「中国にも当然同じような情報は入っているだろう。そのうえで直後の日中首脳会談で李氏の来日問題にほとんど触れなかったとすれば、中国は日中関係改善にかなり真剣だということだ。日本も相当の覚悟で臨まねばなるまい」と解説する。なかには「首相側がわざわざ会合場所に李氏の宿泊先を選び、関係者の想像をかき立てる仕掛けを設けて中国側をけん制したのではないか」との見方まで飛び交っている。 政治の世界では想像が政治家のイメージを作り上げていくことがある。「大物政治家AがライバルBと密会したらしい」――。それを利用して時にライバルをかく乱し、自らの存在感を高めることもできる。あえて会ったことを公にして「2人きりで一体何を話していたのだろう」と想像をかき立てる方法もある。 麻生太郎外相はそんな術を身につけた政治家の1人ではないか。弊紙「首相官邸」を調べてみると、昨年9月の安倍政権発足以来、短時間でも2人きりで会った回数は少なくとも32回(6月17日現在)。これは女房役である塩崎恭久官房長官の40回を除くと、閣僚の中でも群を抜く多さだ。「ポスト安倍」の有力候補にも擬せられるが、実は総勢15人の小派閥の長に過ぎない。「安倍側近」のイメージを醸し出すのに、首相との「サシ」の面会が効果的であることを麻生氏は知っているようだ。 想像が力を持つのは何も政治の世界に限らない。以前、取材した自動車メーカー幹部に「経営における戦略的思考とは何か」と尋ねたことがある。その幹部は少し考えたあと「誰も想像し得ない可能性をひたすら考えることだ」と答えた。目前に迫った参院選は年金問題を最大の焦点に、自民、民主の2大政党が激しく争う展開になるだろう。選挙後の政治風景について、永田町に棲(す)む面々はどんな想像を巡らしているのだろうか。【6月18日・日本経済新聞】 |
6月19日の中国外交部秦剛・報道官の定例記者会見(2007年6月19日の中国外交部秦剛・報道官の定例記者会見のうち、日本関係の一問一答は次の通り) 問 先ごろ、中国籍の男性が日本の空港で李登輝にペットボトルを投げつけ、日本の警察当局に拘束されたが、中国外交部は日本に申し入れを行ったのか。 答 われわれは関係の報道に留意しており、この問題が適切に解決されるよう希望している。【6月19日・駐日本中華人民共和国大使館HPより】 |
向李登輝擲瓶 中國男子被罰五萬餘台幣 本月九日在前總統李登輝結束十一天的訪日之行準備搭機返台時,在成田國際機場向李登輝投擲寶特瓶被捕的中國男子薛義,今天被以暴行罪加以簡易方式起訴,被判罰金二十萬日圓(約新台幣五萬三千元)。 日本成田國際機場警察署今晚接受中央社記者詢問時表示,薛義以現行犯的身份遭到逮捕被拘留十天後,,今天被千葉區檢方以暴行罪加以簡易方式起訴,同日,千葉簡易法院判處薛義二十萬日圓罰金。 警察署針對這名被告是否已繳納罰款表示不清楚,但指出,如果被告繳納罰金的話,應會被釋放。 三十四歲的中國男子薛義於二零零五年來到日本,他自稱是工程師,日本警方查出他住在千葉市美濱區。 這名中國男子表示由於不滿李登輝在日本發表台獨言論,於李登輝結束訪日準備搭機返台時,向其丟擲寶特瓶而當場被捕。由於他投擲的兩瓶裝有飲料水的寶特瓶都未打中任何人造成傷害,因此未被以傷害罪加以問罪。【6月20日・中央】 |
朝李登輝擲瓶 中國男子薛義判罰五萬餘台幣 台灣前總統李登輝本月稍早訪問日本時,遭到中國籍男子薛義扔擲寶特瓶,法院20日判罰薛義20萬日圓(台幣5萬3千多元)。 今年84歲的李登輝結束訪日行程,前往東京市外的成田機場準備搭機返國時,在日本工作的薛義對他扔擲寶特瓶,但並未砸中任何人。 法院根據攻擊罪名,判處34歲的薛義罰款。 根據日本各新聞通訊社報導,檢方認為薛義是個人不滿李登輝主張台灣獨立,他與任何組織無關。 李登輝訪日期間,曾前往中國與南韓眼中象徵日本軍國主義的靖國神社祭拜亡兄。【6月21日・AFP】 |
拿瓶丟擲李登輝男子判日幣20萬元罰款 在前總統李登輝訪日期間,對他投擲飲料瓶的大陸籍男子「薛義」,經日本「千葉地區簡易法庭」判決,罰薛義20萬日元,合台幣五萬三千多元的罰款,而薛義也已經繳納了罰款。 據日本共同社報導,薛義是在日本某公司任職,他表示,他之所以拿瓶子丟擲李登輝,僅僅是因為他討厭李登輝,由於薛義的行為是屬於個人行為,背後沒有組織策動,所以簡易法庭只讓薛義罰款。 薛義是在這個月九號下午,李登輝準備由日本返回台灣的時候,在成田機場第二候機大樓,向李登輝丟擲了兩個飲料瓶,飲料瓶並沒有擊中李登輝,李登輝也沒有受傷。【6月21日・中廣】 |
砸李登輝男子 判罰20萬日圓 不久前訪問日本的前總統李登輝在離開日本時,曾遭人投擲寶特瓶,20日這名中國籍男子,被日本法院判處20萬日圓罰金。 相當於台幣5萬多元,而罪名是攻擊他人,這名男子叫薛義,今年34歳,職業為工程師。 根據檢察官調査,他出手攻擊李登輝,應該是不滿李登輝政治立場,純粹是個人行為,而非有人指使。 薛義在成田機場,拿裝有果汁的寶特瓶丟擲李前總統,結果沒有打到人,自己卻馬上被制服,遭到警方逮捕。 【6月21日・民視】 |
向李登輝擲寶特瓶 薛義獲釋 大陸媒體視為英雄 六月九日李登輝前總統訪日期間,遭到大陸籍工程師薛義投擲寶特瓶,薛義在交付二十萬日圓後獲釋。薛義在接受大陸媒體《國際先驅導報》專訪時透露了作案過程,包括設定作案位置、降低警察戒心等方面,薛義顯得相當冷靜,而大陸網民及媒體,則多以「英雄」的角度看待薛義。 薛義指出,因為東京成田機場的自動販賣機只能識別一千日元面值的紙幣,而當時他手裡的紙幣都是一萬日元的,硬幣也只夠買三瓶二八○毫升的塑膠瓶裝飲料,在擲出第二瓶飲料之後,他馬上被後面的警察抱住,所以第三瓶沒能擲出。 至於作案過程,《國際先驅導報》記者曾問薛義「李登輝訪日的安保應該很嚴格,當時你是怎麼衝破防線的,有人阻攔嗎?」 薛義回應稱,當時李登輝的支持者都站在安全線外,他並沒一直和李登輝的支持者站在一起。買了飲料後,他回到旅客休息座位上等候。在聽到李登輝的支持者高呼李登輝名字的時候,他以比平常稍快的速度走到人群背後,找到一個相對來說人較少的位置,同時喝了一口飲料,以降低李登輝支持者和警察的戒心。 薛義指出,事前他並沒有任何明顯舉動,所以李登輝支持者和日本警方並不知道他的目的,也沒人阻攔。 至於為何選擇投擲寶特瓶這種較為激烈的手段表達向李登輝的抗議之意,薛義指出,他也想過口頭抗議等表達態度的方式,但是當時覺得口頭抗議(效果)太微弱了。日本警察曾問他,周圍有那麼多人,而他為什麼偏偏要把飲料瓶投向李登輝?他當時就說了「擒賊先擒王」這句話。 儘管向李登輝投擲寶特瓶是違法行為,薛義也遭到日本方面罰款,但是大陸若干民眾仍將薛義視為「英雄」;不過,薛義仍然必須為此一案件付出除了罰款之外的代價,他說,「這件事肯定會影響我在日本的工作,也就是說,我可能不會留在日本太長時間了。因為按照日本法律,畢竟我的行為屬於刑事犯罪。」【6月26日・中時電子報】 |
【6月6日・外務省報道官会見記録(抜粋)】 李登輝氏の靖国訪問 (問)台湾の李登輝・前総統が明日東京に戻り、一部の報道によれば靖国神社の参拝に非常に強い関心を持っているということですが、現段階においてどのような認識を持たれているのでしょうか。 (報道官)李登輝氏について、日本に滞在しておられる間の日程の詳細を承知している訳ではありませんが、これまで日本側の受け入れ団体の方々などから説明を頂いたところでは、今回の訪問は私的なものであり、学術的、文化的な活動を行うということでありますので、政府サイドとしては、李氏として政治的な活動を行わないという前提で、現在のご滞在が行われていると理解しています。 (問)李登輝氏がもし靖国神社に行った場合も、政治活動とは見なさないという認識でよろしいでしょうか。 (報道官)私共が説明を受けている限りでは、今申し上げたような事情で靖国に行かれるようであると聞いていますので、そういうことであれば、それはあくまでも私的な訪問なのだろうと受け止めています。 |
【6月7日・外務省副大臣会見記録(抜粋)】 李登輝氏の靖国訪問 (問)台湾の李登輝前「総統」が靖国神社に参拝されましたが、外務省としての受け止めと、中国から抗議や意向が伝えられているでしょうか。 (浅野副大臣)私人としての行動ですので、外務省としてコメントすることはありません。外務省としてコメントする立場にはありません。北京での中国外務省のスポークスマンの記者会見によると、何度も日本側にこの件について申し入れを行っていると述べているようです。 (問)その会見で不満という表現を中国は使っているのですが、それに対しては、どう受け止めていますか。 (浅野副大臣)この会見では、日本が訪日を許したことに改めて強い不満を表明すると述べておりまして、中国側の立場としてはこのようなスタンスだろうと受け止めています。 (問)今後の首脳会談等、日中関係に与える影響はどのように予想されますか。 (浅野副大臣)李登輝氏の個人の訪日によって日中関係に何らかの影響があるとは私どもは考えておりません。今の時点では、日中首脳会談に何か変更があるという情報には接しておりません。 (問)外務省には公式、非公式含めて靖国参拝について特段止めてほしい等、抗議の念が伝えられてはいないのですか。 (浅野副大臣)相手がどこの国であれ、外務省に対するそれらの一つ一つの申し入れについてコメントすることは致しかねます。従って、先程申し上げましたように中国側は外務省のスポークスマンが日本に対して何度も申し入れを行ったと述べております。 (問)中国の方から何度も何度も抗議の申し入れを受けているという認識でよろしいでしょうか。 (浅野副大臣)何度も何度もその点について、私の方からコメントできないと申し上げております。 (問)今の時点で日中首脳会談に変更があるという情報はないというお話ですが、サミット開催中の8日に日中首脳会談を行うということでよろしいでしょうか。 (浅野副大臣)そのような理解を今の時点ではしております。 |
月刊「Will」8月号が李登輝前総統の2つの講演抄録を掲載 日本人はもっともっと台湾という国を大切にしなければ罰が当る[編集長・花田紀凱] 6月26日発売の月刊「Will」8月号が、李登輝前総統の来日時に行われた講演の抄録と、招聘者であるアジア・オープン・フォーラムの世話人代表で訪日行程に同行した中嶋嶺雄・国際教養大学学長の同行記を掲載している。 なお、この8月号では「この無法な国、中国」を総力特集し、金美齢氏が「中国人にモラルなどありません」、本会理事の宮崎正弘氏が「著作権なんて知らないよ」と題して執筆している。 【月刊「Will」編集長 花田紀凱】2度にわたって李登輝さんの講演を聞き、深い感銘を受けました。84歳という高齢ながら矍鑠(かくしゃく)たるもので、一時間半立ちっ放し。大きな声で、日本と日本人に対する熱い想いが迸るような素晴らしい講演でした。超満員の会場からも大拍手。 日本人はもっともっと台湾という国を大切にしなければ罰が当る、改めてそう思いました。読者の皆さんに、少しでも李登輝さんの想いを感じていただきたいと、講演を抄録しました。靖国に祀られた兄上と、兄上の死を信じないまま先年、98歳で亡くなった父上の話をしている時、李登輝さんの目に涙が滲んでいました。 ■李登輝講演録 ■中嶋嶺雄 |
台湾報道が唯一の目標 [産経新聞記者 金谷かおり] 6月17日発行の本会メールマガジン『日台共栄』第558号で、産経新聞・宮城県版に、李前総統一行を歓迎した人々がどのように「おもてなし」するかを悩んだことに焦点を当ててレポートした、金谷かおり記者の「【特報 追う】李登輝前総統 みちのくの旅-真心でもてなす『古きよき日本』」をご紹介しました。 すると、読者の黒田裕さんから「金谷かおりさんは、前職はRITのアナウンサーだったと記憶しますが如何ですか。20代? の台湾を愛する女性です。退職して新聞社勤務となったと聞きましたが」とのお便りがありました。 その後、金谷かおりさんご本人より「台湾報道が唯一の目標」という、何とも嬉しいお便りをいただきましたので、HP上でご紹介します。金谷さんは台北の国立台湾師範大学に一年以上の留学経験を持つ若手新聞記者です。 また、その金谷さんのお便りに、李登輝前総統一行に警護官の通訳として同行していた本会の薛格芳理事(明星大学大学院生)が、その取材態度に感心して金谷さんにお便りを寄せていますので、それも併せてご紹介します。 それにしても、金谷さんに見られるように、昨今、若い世代の台湾に寄せる関心の度合いが深まっていることを実感しています。 台湾報道が唯一の目標 産経新聞記者 金谷かおり 宮城県版の特報追う、李登輝前総統みちのくの旅、お読み頂いた皆様本当にありがとうございました。そして、私が以前RTIでアナウンサーをしていたことを記憶してくれている方がいらっしゃることを知り感激しました。 20代?、とありましたが、現在23歳です。産経新聞社に今年入社し、初任地が東北総局で、修行中です。台湾報道が唯一の目標です。頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。(7月1日) 金谷さんの取材態度に感動 本会理事・大学院生 薛格芳 金谷様 仙台と山寺での取材の様子に感動しました。台湾の取材陣と比べると天地雲泥の丁寧な、礼儀をわきまえられた取材態度でした。一生懸命で真摯な態度はとてもかわいいです。台湾留学生と一緒に飲みましょう。東京に来たときにはぜひ連絡ください。(7月4日) |
李登輝前総統訪日の意義について柚原事務局長が「明日への選択」7月号に寄稿 「李登輝前総統の訪日が成功した理由」 「主張するシンクタンク」として日本の再生に向けた実践運動を展開している日本政策研究センター(伊藤哲夫所長)が編集・発行する月刊「明日への選択」7月号に、李登輝前総統訪日の際、その全工程に同行した本会の柚原正敬事務局長が「李登輝前総統の訪日が成功した理由」と題して寄稿しています。柚原事務局長は同行者ならではのエピソードを交え、なぜ李登輝前総統の訪日が成功したのか、これまでの来日経過を踏まえて7つの意義を挙げつつ、その理由を論じています。 「明日への選択」7月号では、帰国した李登輝前総統を台北桃園空港で出迎えた羅福全・亜東関係協会会長(前駐日大使)へのインタビュー「価値観外交が強める『日台の絆』」、全行程に同行した黄昭堂・台湾独立建国聯盟主席へのインタビュー「台湾の政治動向と次期総統選の行方」など、台湾関係記事も掲載されています。 「明日への選択」は本来ならば講読誌ですが、バラ売りも可能だそうですので、詳細は日本政策研究センターへお問い合わせください。 |
10日発売の『文藝春秋』と『Voice』が李登輝前総統の講演録を掲載 『正論』8月号は「フォトギャラリー」で来日ミニ特集 7月10日発売の「文藝春秋」8月号(定価:710円)は、李登輝前総統のホテルオークラ東京における講演(6月7日)内容を「中国よ、だから私は靖国へ行く-亡き兄は日本人としてお国のために戦いました」と題して収録掲載しています。 また、やはり10日発売の「Voice」8月号(定価:620円)が、秋田の国際教養大学における特別講義(6月6日)の内容を「『奥の細道』と武士道精神-日本文化の高い精神性を再認識した探訪の旅」と題して収録しています。 一方、6月30日発売の月刊「正論」8月号(定価:680円)は、本会が提供した写真も使い、「李登輝氏来日」と題してグラビアの「フォトギャラリー」で7ページを費やして報じています。講演を聞き逃した方、活字でもう一度味わってみたいという方、台湾関係者にとっても必見の内容です。 なお、李登輝前総統は6月1日の第1回後藤新平賞の授賞式でも「後藤新平と私」と題して講演されましたが、これは後藤新平の会の「会報」第3号に掲載される予定だそうです。 |
東京・江東区報に李登輝前総統の芭蕉記念館訪問の記事掲載 5月末に来日された李登輝前総統は、訪日2日目の午後、東京・江東区にある芭蕉記念館を訪問されました。 芭蕉記念館は、芭蕉が奥の細道に旅立つまで住まいとしていた芭蕉庵の傍に建てられており、当日は山﨑区長や、地元出身の中津川博郷・元衆議院議員らが出迎えました。 当日の模様が、 今月の江東区報に写真入りで掲載されておりますのでご紹介します。 |
警察官専門誌『BAN』に李登輝前総統講演録が掲載 5月末からの李登輝前総統の来日につきましては様々なメディアが取り上げました。本会でも可能な限り情報を収集し、掲載メディアをご紹介しておりますが、情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご協力をお願いいたします。 警察官向けに発行されている月刊誌「BAN」8月号に掲載されましたのでご紹介します。
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月刊「大学の使命」第190号(7月12日発行、全日本学生文化会議)に特集/台湾前総統、『李登輝氏』訪日 全日本学生文化会議という「学生にとって大切にすべきことや重要な問題について活発に意見を論じ合い、次代の日本を担う人材にふさわしい見識を身につけるべく研鑽に励んで」いる研究活動団体がある。 昭和59年(1984)、全国の大学サークルである「日本文化研究会」「国史研究会」「日本教育研究会」などの代表が集まり、サークル間の連帯と相互研鑽を深め、学問的深化を図るために、日本の文化や歴史、日本思想、国際情勢等に造詣の深い当代一流の先生方に顧問に就任戴き、結成されたという。 オピニオン誌として月刊「大学の使命」を発行している。7月12日発行の第190号で「特集/台湾前総統、『李登輝氏』訪日」を組み、「学生による台湾論」として下記の3編を掲載している。 1、李登輝氏が日本に訴えた中華秩序との対決 首都大学東京3年 和田浩幸 学生の論文だからと甘く見てはいけない。なかなか読み応えがある。本誌では全日本学生文化会議の許可の下、李登輝前総統の来日に関する和田浩幸氏と坂直純氏の論考を順次ご紹介したい。 尚、文中の漢数字を算用数字に改め、読みやすくするため改行を施すなど、いささか編集させていただいたことをお断わりします。 李登輝氏が日本に訴えた中華秩序との対決 ―今、国家のアイデンティティが問われる時―首都大学東京3年 和田 浩幸 ■李登輝前総統の訪日を歓迎 台湾の李登輝前総統が去る5月30日に訪日された。今回は、奥の細道をはじめとした文化交流を目的とした訪日であった。訪日後、東京都江東区にある芭蕉記念館を訪ねられた際、多くの日本人や台湾人が詰め掛け、李登輝ご夫妻の到着を歓迎した。 私もその場に参加することができ、多くの方々と共に日の丸と台湾独立旗を掲げて、李登輝ご夫妻を歓迎させていただいた。李登輝氏を真直に見ることができ感動すると共に、今回の訪問が大きな妨害を受けることもなく、無事、果たされたことを心から喜ばしく感じた。 この日、最も驚いたのは町の方々が大変温かく歓迎されていることだった。こうした町のごく普通の人々との交流が為されたことは、入国すら拒否された以前と比べれば、非常に画期的なことであると感じた。 この芭蕉記念館は、松尾芭蕉の奥の細道出発の地らしく、最後に歓迎団の方から金の杖が授与され、皆でこれから奥の細道へと旅立たれる李登輝ご夫妻の前途を祈って、「行ってらっしゃいませ」の掛け声で終了した。 その後も、李登輝ご夫妻は国際教養大学学長の中嶋嶺雄氏の先導のもと、かねてから切望されていた奥の細道の旅を堪能された。 そして、再び東京に戻って来られ、6月7日の午前10時に靖国神社への参拝を果たされた。 ■李氏が我々に投げかけたこと 李登輝ご夫妻が無事、靖国神社への歴史的参拝を遂げられたその日の夕刻、東京のホテルオークラ東京にて、講演会が催された。九州や近畿の学生と共に私は首都圏の代表としてその場に参加させていただいた。表題は、「2007年とその後の国際情勢」とあり、世界的視野から国際情勢に関する李登輝氏の分析がなされた。 私はこの講演会参加に当たって、一つの目的意識を持って臨んだ。それは、台湾民主化のリーダーである李登輝氏が現在の中国情勢をどのように見ておられるかということであった。中国を知ることによって、今後の日本のあるべき姿が見えてくるのではないかという思いがあったからである。 会場には溢れんばかりの人が詰め掛けており、それだけでも李氏が日本においてどれほどの影響力をお持ちであるのか、その発する言葉に熱い視線が注がれているのかということを感じた。 「李登輝」といえば、云わずと知れた台湾民主化の英雄であり、当然話は中国情勢が中心になると思われた。しかし、まず、イラン、イラク、ロシア、アメリカの情勢について話を進められ、難解きわまる国際情勢の問題を大変わかりやすくお話しされていると感じた。中国を知るためには、世界第一位のパワーを持つアメリカやアメリカと関係を持つ国々について、正確に理解しなければならないということだと感じた。 この講演で私にとって、とりわけ印象に残ったのは2007年が政治の年であるということだった。日本、台湾、韓国、フィリピン、オーストラリアなどが政治リーダーの選挙を控えており、共産主義各国(北朝鮮、中国、ベトナム)も人事調整の時期であるが故に、各国が外政よりも内政に奔走するため大きな政治の動きは起きず、来るべき2008年に備える年になるだろうという話だった。 また、李氏は中国の経済危機を筆頭とする内政問題を述べた上で、混迷する中国を救うのは台湾の民主化しかないのだと力強く宣言された。「進歩と退歩を繰り返す」中国をはじめ、世界秩序の安定のためには台湾の民主化こそが必要であるというのだった。李氏の台湾民主化への切実かつ緊迫した語り口を通して、この問題を考えることの意味について改めて考えさせられるところがあった。 ■李氏の台湾民主化に懸けるロマン 多くの日本人が、固唾を呑んで一言一句逃すまいと熱い視線を注ぐ李登輝氏とは如何なる人物なのであろうか。簡単にその歴史を振り返ってみたい。 李氏の先祖は、大陸から渡ってきたいわゆる「客家」であり、李氏はその何代目かの子として1923年台湾に生まれた。そこで受けた教育こそ台湾における日本統治時代の教育であった。李氏は、その正統な学歴を歩み、公学校、旧制中学、高校を卒業し、京都帝国大学に入学した。大学においては、農業経済学を学び、それが後に中国から渡ってきた国民党主席蒋介石の跡を継いだ蒋経国に登用されるきっかけともなった。 大学時代は、万巻の書を紐解き、生とは何か、死とは何かということにつて真剣に考え抜かれた。そのような気質ゆえであろうか、大東亜戦争期の学徒出陣の際には、帝大のエリートでありながら、前線に向かい危険性が極めて高い歩兵に自ら志願されるほどであった。 大東亜戦争を生き残られ、戦後は台北大学、コーネル大学と更なる学問研鑽を積まれた。その後、1971年に国民党に入党、1973年には台北市長になられている。李氏自身は政治の道を歩む気持ちはほとんどなかったが、蒋介石の死後、1984年には蒋経国によって、副総統に抜擢された。そして、「総統職の継承は憲法に従って行なわれるべきものであり、蒋家のものが総統職を継ぐことはない」との蒋経国の意向もあり、彼の死後、1988年7月国民党大会において総統職への就任が決まった。 日本統治時代の教育を受け、戦後は祖国・台湾への憂国の情に燃えた李氏が大陸から渡ってきて外省人と現地の本省人とを厳格に区別し、1947年の二・二八白色テロを実行した国民党に入党したのは、不思議なことのように思われる。このことに関して、『李登輝-新台湾人の誕生』の著者である角間隆氏は次のように述べられている。 「要するに、当時の台湾には『国民党』以外の政党が存在せず、李登輝氏が本当に『台湾のために奉仕』しようとすれば、嫌でも国民党に入党せざるを得なかったのである。(中略) そして、この瞬間(国民党総統として蒋介石時代の白色テロの全貌を明るみに出し、同時に直接、犠牲者の遺族に陳謝した)から、かつて南京を首都に中国大陸全土に覇を唱えていた『中国国民党』から、台湾の台湾人の台湾人のための『台湾国民党』へと、党の性格そのものを根本から変えてしまったのだ。 だからこそ、2000年3月の総統直接選挙の時に、『国民党』が予想外の敗北を喫して、『民進党』の陳水扁候補が第4代総統(第10期総統)の座に就いて、歴史的な一党独裁時代の幕引きをした際にも、李登輝氏は全く騒がず、『これが民主主義なのだ』と呟いて、むしろ微笑みさえ浮かべて、21世紀を背負って立つ若き獅子に、心からなる祝福とともに全ての権力を禅譲したのである。」(角間隆著『李登輝-新台湾人の誕生』) 李氏は、総統就任後、長きに渡って敷かれていた戒厳令の解除や「新党の結成」を認める法案作成など矢継ぎ早に民主化への道を突き進んだ。そして、「いつか、かつて我らのものであった中国大陸の覇権を取りもどさなければならない。今は、そのための力を蓄えているに過ぎない」というかつての国民党の方針を一転し、99年の「台湾と中国は特殊な国と国の関係である」という二国論の表明に象徴されるように、新しい台湾のモデル、氏の言うところの「新中原」の確立へと着実に歩んで来られたのである。 しかし、2000年の総統選挙において、出馬すれば再選が確実と思われていた李氏は、政界引退を発表し、次の世代に総統職を譲渡する意向を示した。結果、民進党の陳水扁が勝利し、中華世界において始めて国民による選挙によって、政権交代が果たされるという歴史的快挙が成し遂げられた。これは、李氏が訴え続けた台湾人による台湾のための政治が平和裡に実現された待望の瞬間でもあった。 ■今こそ確立すべき日本の国家のアイデンティティ 李登輝氏は、講演会において、台湾民主化の意義を我々に訴えかけ、かの共産党一党独裁の中国にまで民主化のうねりを起こそうと言われた。これは、あまりにも果てしなく不可能とも思えるような話であった。しかし、このような李氏の発言は不可能を可能と思わせるようなプラスの力で満ち溢れているように感じられた。それは、李氏が歩んで来た「結果を残す政治家」としての存在感がもたらすものなのであろう。 台湾において、国民による平和的選挙によって民主化が実現された。このことによって、台湾は大陸の中共とは一線を画するようになったのである。中国でも1980年代、民主化運動が盛んに行なわれていたが、1989年の天安門事件を境に、共産党政権への怒りの矛先は反日という形に取って代わられるようになってしまった。 そして、つい最近まで、日本政府は中国の歴史認識を中心とした反日政策に対抗することができず、ただひたすら謝罪を繰り返すばかりだった。しかし、中西輝政京都大学教授が「小泉前首相の靖国参拝を機に、歴史の季節から安保の季節へと変わりつつある」と指摘される通り、いまや日中両国の情況は大きく変貌を遂げている。事実、今回の李登輝氏の訪日に関して、反日勢力が期待した中国からの抗議はほとんどなかった。今後の日中関係の在り方について、評論家の石平氏は以下のように述べられている。 「日中間の抱えている対立点と問題点のほとんどは、そもそも、完全に解決することが不可能なものである。(中略)靖国問題もそうである。それぞれの民族的アイデンティティ・国家理念・伝統文化の相違から生じてきたこの対立は、最初からいわば『文明の衝突』として、妥協のできないイデオロギー紛争の側面を強く持つものである。 つまり、諸々の解消法のない深刻な対立を抱えながら、それでもできるだけ安定した相互関係を作っていくべきなのは、日中関係の宿命である。日本はこれから、国家の尊厳を懸けて中国という巨大な存在と対峙しながら、この国との全面衝突という『最終局面』だけは避けなければならない。大変な難題ではあるが、中国大陸の近海から引越しすることができない以上、日本という国はこのような宿命を背負っていくしかないのである。」(石平著『日中の宿命』) 国家のアイデンティティの源泉である歴史で二度と負けない、という気概を持つことは勿論、我々自身が中華思想を凌駕するだけの国家理念を国内で打ち出していかなければならないのだと強く思われてくる。 李氏は、ご講演の中で前述の通り、「2007年は政治の年である」と述べられた。このことについて、講演会終了後に参加したメンバーで討論が為された。「この言葉の真意は、それぞれの国家のアイデンティティをこの一年でどれだけ充電できるかということであり、学生集団である我々に言い換えれば、如何にして、日本文明の使命を内に秘めた学生集団を形成できるかということである」という趣旨のことが自分にとっては非常に心に残り、己のあり方を問われるような思いがした。 安易な親中は勿論、外圧への反発だけでも駄目なのである。李氏が私達日本人に残した台湾民主化へのロマンに匹敵するようなものを自ら日本人として育んでいけるかどうか、これこそが李氏が私達に問い掛けたものであり、このことをより一層追求する学生集団を作っていかなければならないのだと考えさせられた。 今回の李登輝氏のメッセージを心に刻み、中国と如何に対峙するか、また、中華秩序に打ち勝つべく、日本文明に関する理解を深めていきたいと感じた。そして、それを友らと共有すべく夏季の遊学事業に向けた取り組みに邁進していく決意を改めて強くした。 李登輝前総統の靖国神社参拝の意義甲南大学5年 坂 直純 ■62年ぶりの兄との再会 去る6月7日午前10時、台湾前総統の李登輝氏が靖国神社を参拝された。台湾前総統であられる李氏が靖国神社を参拝されるというその歴史的な瞬間に、私はぜひ立ち会いたいと思い近畿から上京した。 李氏には、大東亜戦争の際にフィリピンのマニラで戦死された兄・李登欽氏(日本名は岩里武則)がおられ、靖国神社に合祀されている。今回、李氏は靖国神社参拝を、「62年前に別れた兄に頭を下げる個人的行為です」と述べられた。境内では日の丸と台湾独立旗(編集部注:緑の台湾旗で、主に在日台湾同郷会などが使用)で迎える多くの人々の中、靖国神社の社頭で実に62年ぶりの兄との再会を果たされた。 マスコミなどで報道されていないが、その日の夕刻、李登輝氏は国際情勢の講演の質疑応答で靖国神社参拝の話にふれられた。これまで李氏の参拝が実現しなかったのは、98歳まで御存命であられた父親がおり、その父は60年間ずっと兄の戦死を信じず、李氏は父の心情を配慮してずっと家で供養することができなかったからだという。しかし、兄の供養ができなかった60年間も、靖国神社でその兄がずっと祀られ、慰霊され続けてきたことに李氏はとても感謝していると述べられていた。 その話から私は身寄りのない方などを含めた、すべての御霊を国家として祀る靖国神社の使命の大きさを改めて感じた。講演のなかで靖国神社への参拝について「あと短い人生の中でやるべきことをやったと思います」と述べられ、私は李氏がどれほどこの参拝を切望されていたのかを感じた。 ■李氏の靖国神社参拝にみる歴史的意義 一方で、今回、李氏の靖国神社参拝が達成されたことは、これまでの日中関係が大きく転換しているといえる。 中国政府は台湾を中国の一部であると主張しているが、李登輝氏はそもそも台湾は独立主権国家であると主張してきた。そのため平成13年に李氏が心臓病の手術のため来日したとき、中国政府からビザを発給しないよう日本政府に圧力がかけられた。また平成16年の2度目の来日には、政治的発言はさせず観光旅行に徹するという条件で日本政府がビザを発給し、外務省職員ふたりがスケジュールを掌握して監視するなど、中国政府におもねるような状況にあった。 これほど中国から敵視されてきた李氏が今回靖国神社を参拝し、また講演会まで開催できたことは大きな前進である。 李氏はその靖国神社参拝に先立ち、自分の参拝を政治利用してほしくないと報道関係者に語られていた。靖国神社はいつも中国などから歴史や政治問題にされてきた。そもそも靖国神社をめぐる問題について、李氏は「中国大陸やコリアにおいて、自国内の問題を処理できないがゆえに作り上げられたものと思っている」と述べている。李氏が言われていることは、中国共産党による一党独裁のもとで虐げられている国民の不満が、中国共産党へと向かないように反日を煽って、不満のはけ口としているということである。 今回、中国は李氏の参拝を批判しているものの、これまでのような内政干渉を加えることはなかった。そこには昨年8月15日の小泉首相による靖国神社参拝が大きく影響していると思う。これまで中国は歴史問題を武器として日本を骨抜きにし続けてきたが、小泉首相の参拝は「もう歴史カードは通じない」というメッセージを中国につきつけたのだと思う。 中国の内政干渉に屈しないことが、国家のリーダーとしてあるべき姿だと改めて李登輝氏は示してくださったと感じる。 ■台湾人の慰霊の心を代表した李氏 李登輝氏は国家のために命を捧げた方々を純粋に慰霊することは当然であり、他国から内政干渉されるようなものではないと身をもって示された。 大東亜戦争において当時日本人として戦い散華された台湾人は約3万3千人といわれる(編集部注:厚生省が昭和48年4月に発表した台湾出身戦歿者数は30,304人)。高砂義勇隊という台湾原住民による部隊などは、戦場の前線などでも日本人以上に勇猛果敢だったため、6千人といわれる内の約半数が亡くなられたという。その御霊も当然靖国神社で祀られているのである。 そのためこれまでにも台湾人の方々は、大東亜戦争で亡くなられた英霊を慰霊しようと、ずっと靖国神社での参拝をなされてきた。つまり、李氏が靖国神社を参拝したことは何も特別なことではなく、これまで粛々と行ってきた台湾人の慰霊の思いを代表して伝えるものだったのではないだろうかと思う。 ■「運命共同体」としての日台関係 中国はいまも台湾領有を主張し続けており、毎年10パーセント以上といわれる軍拡を背景とした武力で台湾を恫喝している。もし中国による台湾侵略が現実となれば、日本は台湾海峡を通ってくるシーレーンを中国によって遮断されてしまい、日本は石油輸入の大部分を依存する中東からの輸入航路を遮断されてしまうことになる。台湾の死とは即刻日本の生存問題にまで発展するものなのだ。つまり、日台は文字通り運命を共にしている「運命共同体」である。 そして、大東亜戦争のときにも日台はまさしく運命共同体として戦い、日台の多くの先人が台湾を守るために命をおとされた。いま戦後60年を経て再び、運命共同体としてのあり方が日本人に問われていると思う。 日本を守ろうと純粋な思いで戦われた台湾人の英霊の方々は、いま台湾の置かれた苦境に私たちが目も向けないようではどれほど嘆かれるだろうか。今一度私たちは学生として台湾をめぐる問題を真剣に考えていく必要があると思う。 |
「李登輝前総統の訪日が成功した理由」 自由な発言を認めた政府の決断が中国の干渉を排除した柚原正敬 本会事務局長 台湾の李登輝前総統が曾文恵夫人や孫娘の李坤儀さんなどの家族とともに、去る五月三十日に来日して六月九日に帰台した。総統退任後、三度目となる今回の訪日は「学術・文化交流と『奥の細道』探訪の旅」と名付けられ、念願であった「奥の細道」を訪問した。 日本人の印象に強く残ったのは、やはり靖国神社に参拝したことだろう。また、東京や秋田で講演したことで、その肉声を初めて聞いた日本人も少なくなく、印象深く残ったに違いない。 李氏は最終日の六月九日、当初の予定にはなかった外国人特派員協会で「このたびの旅行は今までの旅の中で最高の旅でした」と述べている。その理由として、後藤新平賞の第一回受賞者に選ばれたことや、「奥の細道」を半分だけだったが堪能できたこと、あるいは靖国神社に参拝できたことなどを上げている。 来日して以降、アジア・オープン・フォーラム世話人らとの会食と拓殖大学訪問以外の行程に同行させていただいた者としても、やはり今回の訪日は大成功だったと言える。 それは、成田空港をはじめ各地での歓迎ぶりや講演会参加者数に現れていた。 成田空港では、平日の昼間にもかかわらず二百人を超える人々が集まり、日の丸や日本李登輝友の会会旗の小旗を千切れんばかりに打ち振って歓迎し、「李登輝先生、万歳」の歓呼の声が空港内に響き渡った。 また講演は、後藤新平賞授賞式後の記念講演「後藤新平と私」、秋田の国際教養大学での特別講義「日本の教育と台湾|私が歩んだ道」、ホテルオークラ東京での講演「二〇〇七年とその後の世界情勢」を行ったが、いずれも立錐の余地もないほど詰め掛けた。特にホテルオークラ東京での講演には約千三百人が参加し、まさに壮観の一語に尽きる。 ◇ 今回の訪日の成功は、来日の意義を鮮明にした。平成十三年四月の心臓病治療のための来日および平成十六年十二月の来日と比較してみれば、さらにその意義は明瞭となる。 平成十三年の来日時は、ビザの発給を巡ってもめた。森喜朗首相らがビザ発給を認めたにもかかわらず、河野洋平外相や槇田邦彦・アジア大洋州局長が頑強に抵抗し、特に槇田局長などは「こんなことしていたら、北京の怒りを買って、日中関係はメチャクチャになる」などと恫喝めいた発言を繰り返していたことは未だ記憶に新しい。 また、平成十六年のときは、ビザ発給の条件として一、記者会見しない、二、講演しない、三、政治家と会わない、という三つの条件が付けられ、東京は訪問しないという条件もあったと言われている。このとき、中国の王毅駐日大使は「李登輝は中国を分裂する方向に狂奔している代表人物。その人物を日本に受け入れることは『一つの中国』政策に反する」と政府にビザ発給方針の再考を求めたことを思い出す人も多いだろう。 ところが、その年の十一月に李氏が翌年五月の訪日を発表したことに対し、麻生太郎外務大臣は李氏の入国は問題ないとの見解を表明する。昨年一月のことだ。二月に入ると、政府としても五月来日を容認する。しかも、入国条件を緩和し、政治家に会わないことは従来通りだったが、講演は文化や歴史をテーマにしたものなら認める方針に転じた。中でも、東京訪問を認めたことは画期的なことだった。三月に入ると、ビザの申請も必要ないことを表明するに至るのである。 この五月来日は健康上の理由から、またその年九月の訪日も体調不良のため延期され、ようやく今回の来日となった次第だが、この六年の間に政府の方針は劇的と言えるほどに転換していたのである。 一方、中国政府の反応は、政府方針が転換していくにつれトーンダウンしてゆく。今回の中国政府の発言は政府を牽制する形だけのものに終り、靖国神社参拝に至っては批判するどころか反応すらなく、李氏が「いま中国は日本と喧嘩したくない」と述べたことを証明する結果となった。中国政府が抑制的にならざるを得ないと読んだ政府と李氏の読み勝ちに終わったのである。 そこで、今回の来日の意義をまとめてみれば次の七つとなるだろう。 一、ノービザでの初来日実現。 では、これだけのことを実現し得た背景として、いったい何が変わったのか。 まず第一に、安倍首相が首相就任後、最初の訪問国として中国へ行って「戦略的互恵関係」を築きつつ、一方で豪州と「日豪安保宣言」を締結するなど、対中戦略を徹底的に追求してきたことが上げられよう。 また、平成十四年に台湾のWHOオブザーバー参加を支持したあたりから、日本政府の台湾に対する姿勢が鮮明になってきたことも大きい。それは、中国とは別に台湾で天皇誕生日レセプションを開催し、台湾人への叙勲の再開や観光客へのノービザを実施したことに端的に現れている。最近では台湾免許証が日本でも使えるよう道交法を改正した。このようなことは、日本が台湾を「統治の実態」と認識しないとできない措置である。 李氏に自由な発言を認めた今回の訪日は、台湾併合を最大の課題とするが故に独立派の親玉と目す李氏の訪日に反対する中国政府の発言を封じたことで、日本政府が媚中外交を脱しつつあることを証した点からも、やはり大成功と言ってよい。 ◇ 最後に、六月七日の靖国参拝に触れておきたい。参拝は、秋田で田沢湖を訪れていた六月五日にほぼ決定していた。 当日、李氏は曾文恵夫人や作家の三浦朱門・曽野綾子夫妻などを伴い、実兄の岩里武則命が祀られる靖国神社に到着した。李氏は貴賓室で南部宮司に「兄貴と僕は二人兄弟で仲がよかったんです」と語り始めた。 「兄貴が死んだとき、血みどろになった格好で霊が現れたと家の者が言いましたが、父は兄貴が死んだことを死ぬまで信じませんでした。家には遺骨も位牌もありませんでしたので、兄貴の慰霊はできませんでした。気になって気になって仕方がなかったんです。今日、六十数年ぶりにやっと兄貴の慰霊ができます。ありがとうございます」 李氏の声はくぐもり、目には光るものがあった。隣室に控えていた私は込み上げて来るものを抑えられなかった。 そして、昇殿参拝が終わって貴賓室に戻ってくると、李氏は南部宮司に「長い間お世話になりました」と頭を垂れたのだった。【日本政策研究センター機関誌『明日への選択』2007年7月号掲載】 |
『日本の皆さん、李登輝先生のメッセージを聞いてください』台湾人留学生 薛格芳さん 李登輝前総統の「奥の細道」の旅に随行した、台湾人の留学生で日本李登輝友の会・青年部の薛格芳(セツ カクホウ)さんにお話を伺った。(※薛さんは八月十五日、靖國神社参道での戦歿者中央国民集会に登壇予定) ■李登輝前総統のメッセージ ─ 李登輝前総統に随行しての感想は 薛◆李登輝先生は、観光だけで日本に来たわけではないと思います。そのことを、日本の皆さんに知って頂かないと勿体ない! 「奥の細道」の旅に随行して強く感じたのは、李登輝先生の日本人を励ましたいという強い気持ち。 実際、李先生は講演やマスコミへのコメントで、日本の優れた精神性、情緒などに触れて、自国のことを知らない多くの若い日本人に伝えたいお気持ちが溢れていました。更に、外国人にまでその素晴らしさを紹介したいというお気持ちだったのでしょう。国際教養大学の講演では、学生たちに日本の素晴らしさ、独特な文化について熱心にお話していました。 ─ 訪日中、三回の講演をされました 薛◆李登輝先生のお言葉から、日本人に対する強いメッセージが聞こえてきます。それは日本文化への深い思い、日本への強い期待です。 李先生はこう言われました。「日本人は押し寄せる外来文化に呑み込まれず、独自の伝統を立派に作りあげただけでなく、それらの良い部分を巧みに取り入れ、自分の文化として作りかえた。世界でも希有な才能に恵まれた日本人が、易々と日本精神という貴重な遺産・伝統を捨て去るはずはない。日本文化とは、高い精神と美を尊び、美学的な考えを生活に織り込むこと。精神と生活の混合体こそが日本文化そのものである」と。 李先生は、若者にもエールを送っています。「昔は自分さえ良ければ良いという人も多かったが、今はこの国を守りたいという思いを持つ若者も増えている」と。 現代においても戦前の日本人が持っていたまじめさやきめ細やかさが生きていて、日本の社会が秩序良く運行していることに大変感心をされましたし、例えば、高速道路を走ってもチリ一つない。ここまで出来る国は国際的に見て、日本しかないと言われているんです。 ■台湾人は靖國神社に感謝しています ─ 念願の靖國神社に参拝されました 薛◆李先生は靖國神社では一遺族として神職の皆さんに「ありがとうございました」とお礼を申し上げていました。感動的でした。「参拝できて本当に良かった」と声をつまらせていました。六十二年ぶりのお兄さんとの再会でしたから……。 私から見て、李登輝先生の靖國神社参拝は、日本を中国、韓国の束縛から解き放ってくれたと思います。これまでは靖國神社のことで、中国や韓国の反応に日本の政治家は過剰反応してきました。 靖國神社で祀ってくれなかったらどこで祀って貰えますか。台湾では、祀ってもらえませんから、有難いことだという台湾人も多いんです。若い人もそう言います。海外でしかも、春と秋にお祀りして貰える。有難いことじゃないですか。 李先生は、外国人記者クラブの会見で「靖國神社問題とは、中国大陸や韓国が自国内の問題を処理出来ないが故に作り上げられたのが事実だと思う。それに対して日本の政治はあまりにも弱かった。自国の戦歿者の慰霊について外国政府から批判される理由は全くない。祖国のために戦った若い命をお祀りするのは当たり前のこと」と言われました。 台湾の多くの若者も、このような感覚を持っています。しっかりした日本を期待しています。李先生が参拝されたことで、日本の方も参拝しやすくならないでしょうか? ■秋田の旅館女将も李先生に感動 ─ 「旅」では、多くの人々と交流を深められたそうですね 薛◆世界中の国家元首で、これほど日本を知り、日本のことを思い、日本語も堪能な方は他にはいないでしょう。李先生は、出来るだけ、多くの人と交流したいので、スケジュールは、三、四十歳代の人でも大変だと思うようなハードなものでした。八十四歳の李先生はもっと疲れたと思います。でも先生は「みんなが待っている。がっかりさせてはいけない」と、本当に元気に回られていました。李先生は周りの方々に大変心を配られます。東北で宿泊した旅館の女将さんは李先生の姿に感動して、もう一度お会いしたいと東京の講演会にわざわざ飛行機で秋田から来られました。 李先生は、教養が高いのにとても謙虚です。昔の日本人の姿だと、私は凄く感動しました。 ─ 薛さんはもともと親日的でした? 薛◆もともと日本に特別興味を持っていたわけではなかったんです。日本に留学するチャンスがあって、留学して日本で生活するうちに変わったんです。 私たちは台湾では中華民国人として教育されています。日本に来て初めて大陸から来ている中国人と出会いましたが、その時初めて、これが中国人なのか、私たちとは違うと思いました。 中国人は自我が強すぎるんです。日本人は相手のためにすれば、相手も同じように応えてくれると思っています。しかし中国人はそうでない人も多いです。李先生も、「日本人は中国を日本的に考えるからいけない」とおっしゃっていました。留学生を見ていても分かります。中国の留学生は、日本には日本のルールがあるのに、何度も先生から注意を受けたりすると、最後には「先生そんなこと言わないで下さい。あなたの祖先は、私の祖先をいっぱい殺したじゃないか?」と言うんです。生徒のためを思って注意してあげているのに、なぜそのような言葉が返ってくるのかな。 台湾人と日本人には、「相手を思いやって行動する」という気持ちがあるんです。だから両国人は言葉が通じなくても仲良くやっているケースはよく見ます。 ■数年前と変わった日本の態度 ─ 最後に、今後の日台について 薛◆旅で大変感動したことがあります。台湾や李登輝さんを通じて自分の人生観が変わったという若い女性に出会いました。なぜそこまで日本を思ってくれるのかと、勉強したそうです。李登輝先生が来られると知り、駆けつけて、「同時代に生きていて本当に幸せ。自分にできることを精一杯やりたい」と言っていました。 台湾では、今、李登輝先生の旅の影響で旅行会社が大変です。「奥の細道はどうやって行くのか」という問い合わせが殺到しているんです。台湾の”李登輝学校”の卒業生たちも、「私たちも奥の細道へ行こう」と言っています。今企画中ですが、その前にもっと勉強しないといけませんね。李登輝先生が、各地で芭蕉の俳句を皆に紹介したように……。 今回の訪日は成功でした。李先生も「台日関係はこれから、もっと密接になる」と言われ、訪日中も「日本と台湾は運命共同体。台湾がやられれば、日本がやられる。それなのに日台間は国交がなく、日本は台湾に対して赤の他人のような顔をしている。政治的には関係がなくとも、うまく付き合っていかなくちゃならん」と話されました。 今まで台湾人にとっての対日感情は“片思い”でした。しかし今回、色々な所で台湾を応援して、李登輝先生を歓迎してくれる日本の皆さんがいました。その姿を見て、私たちも頑張れると思いました。 日本の政府も、「今回の訪日は観光、学術文化交流だ。我が国の台湾に対する立場は日中共同声明にある通りで、何らの影響も受けることはない」とはっきり言いました。安倍総理も靖國神社参拝について「李氏は私人として来日した。私人として信仰の自由がある。本人の判断ですること」と明言した。数年前の日本とは明らかに違う。 台湾は日本にとって凄く大事な国。もっと多くの日本人に台湾の重要性を知って貰いたいです。【日本会議機関誌『日本の息吹』8月号掲載】 |
李登輝前総統の靖国神社参拝について曾野綾子さんが「新潮45」に執筆同行は「お供をしたい」との曾野さんからの申し入れで実現来日中の李登輝前総統が曾文恵夫人や孫娘の李坤儀さん、黄昭堂・台湾独立建国聯盟主席らを伴って靖国神社に参拝されたのは6月7日だった。その折、おしどり作家として知られる三浦朱門氏と曾野綾子さんが同行した。 この同行の詳細について、曾野綾子さんが「夜明けの新聞の匂い」を長期連載している月刊誌「新潮45」8月号(7月18日発売)に「李登輝氏の靖国参拝」と題して執筆している。 同行参拝は、曾野さんが「もし李登輝氏が靖国に参拝されるなら、お供をしたい」と連絡して実現したことや、李前総統の参拝の様子など、同行者でなければ書けないことを流麗な筆致で書いている。 曾野さんが同行を申し入れるには、やはり理由があった。その詳細も書かれている。また「信仰と靖国参拝とは全く矛盾しない」として、新約聖書の記述をたくさん引用して紹介している。李前総統を非難する中国については、「兄である人の死を悼む人の心を踏みにじる。中国とはそういう国なのだ」と辛辣に批判もしている。 李登輝氏の靖国参拝作家 曾野綾子 李登輝前台湾総統がかねがね来日して松尾芭蕉の奥の細道の跡を静かに廻りたい、という希望を持っておられたことは、多くのマスコミが書いていた。李登輝氏は戦前の京大農学部の出身で、夫人の曾文恵さんも、日本語に関しては読み書きとも全く日本人と同じだといつか話されたことがある。 私がご夫妻に初めてお会いしたのは私的なきっかけだったが、日本財団に勤めていた九年半の間に、仕事としても数年に一度ずつお会いする機会があった。一度は一九九九年の台湾中部の大地震の時、三億円のお見舞い金を持って行った時である。当時日本政府の見舞い金は五千万円だったから、日本財団は、民間の財団としての自由な立場で、国家よりももっとはっきりと隣人の痛みを担おうとする心を見せることができた。 こういう場合、私たちは別に李政権に肩入れしたのではない。フジモリ政権時代、ペルーの僻地に五十校の学校建設を引き受けたのも同じ目的からである。フジモリ氏がペルーを追われた後でも、あのアンデスの山中の主に貧しいインディオたちのために建てられた学校はすべて機能しているであろう。もし機能していなかったら、それは現政権の堕落と越権を示す証拠である。 その時台湾においても、私たちは民間の被災者たちの生活を建て直すために少しだけお手伝いをしようと考えただけである。私は総統府で李総統とお会いし、公的な口上を述べた後で、以前お眼にかかっていたこともあったのをいいことに、 「このお金は決して大きな額ではございませんが、もし老人ホームが倒壊しているようなことでもありましたら、それを建て直して頂いて、後で日本の老人ホームのおじいちゃん・おばあちゃんたちがお訪ねして、いっしょにカラオケでも歌えるようなことにでもなれば、嬉しいと思っております」 と言ったのである。それは、国家に対する寄付は、数パーセントの例外を除いて「あなたのお金はこれこれのことに使われました」という使途が明示されるケースが極めて少ないのに苛立っていた私の希望を、それとなく、お願いという形で示したものであった。 数年かかったが、李登輝氏はそれにきちんと応えてくださった。それまで台湾にはなかった人命救助のための機器を備えた、政府と民間からなる国際消防隊が編成され、その出初式に招いてくださったのである。これで日本に大規模災害が起こった時、台湾からの救援も当てにできるようになった。 しかし私には李登輝氏に関して、別の思い残しがあった。それは日本財団の姉妹財団である社会貢献支援財団の日本財団賞の選考委員会が、長年日本の理解に尽力してくださった方として、李登輝氏に日本財団賞を贈ることを決めたのに、理事会がそれを覆すという結果が出たことだった。私は選考委員の一人としてその会に出席していたので、一切の経緯を知り、その結果に苦慮したのである。 理事会が選考委員会の決定を覆す例は極めて異例であろう。その理由は数人の理事の勇気のなさ故の怯えであったとしか思えない。 選考委員会では、どの候補者に対しても点数を入れて行って上位から受賞者を決める。李登輝氏の場合も過半数の票が入ったのだから他の二十人近くの受貧者と同じ条件であった。 私の耳に入った反対の主立った理由は、三つあった。 第一は外務省が、李登輝氏にヴィザを出すかどうかわからない不安がある、ということであった。そんなことは日本財団の問題ではなく、外務省の問題だ。もし出さなければ、私なり社会貢献支援財団会長なりが、台湾ヘ賞をお届けに行けばいいだけのことだ。 第二の理由としては、授賞式には毎年常陸宮同妃両殿下がご臨席くださる。政治的に中国がらみで微妙な立場にある李登輝氏がもし受賞して出席すると、宮さまにご迷惑がかかる、というのである。そんなことはないでしょう、と私は言った。もし李登輝氏が授賞式に出席すれば、それは外務省が氏の個人的渡航を認めたことなのだから、その決定にお従いになるだけで宮さまは少しもお困りになることはない。反対に外務省が氏にヴィザを出さなければ、氏はその式に列席していないのだから、これまた宮さまがお困りになることはない。 第三の理由はマスコミ対策が大変だ、という怯えであった。そんなことは全部責任をもって引き受けます、と私は言った。李登輝氏は既に私人である。日本で青春を過ごして、第二の故郷は京都である。私は李登輝氏から「昔の日本の貧乏学生は、ナットウ売りのアルバイトをしたんだよ」と教えられたのである。一方日本財団は、一切の国家からの税金を受けていない一財団である。その両者の間の、立場を限定した選択をマスコミが非難するなら、それは思想・学問の自由に対する侵害だから、私は戦うだけであった。 しかし私は理事会の決定には従った。そして日本財団は、それまでの外務省の弱腰に対して一つの選択を迫る好機を失った。氏の受賞は何の問題もなかったことは、今回の李登輝氏の来日の第一の目的が後藤新平賞の受賞であることもそれを示している。 私は内定していた賞を取り止める、という非見識な行為に対して、いささかの不快感も示されなかった李登輝氏にお詫びをするため台北にお訪ねし、ご夫妻に温かく迎えられて、半日以上をごいっしょに過ごして帰った。 李登輝氏と夫人の来日を私は新聞で知ったが、公表された日程は、日本財団が主催し、私も個人として参加する第九回目のアフリカ旅行の直前だった。私事になるが、私は昨年五月に骨折した足がまだ完全には使い物になっていなかった。まだ足の中に十本のチタンの釘が入っているので、拒絶反応を示して腫れるのではないか、と言う人もいたが、私自身は七月中旬に釘抜きの手術をすれば解決する問題だと割り切ってはいた。ただ何をするにも行動が遅いか足元が危ないかで、アフリカの奥地に行くにはあまり適した状態ではなかった。 そのうちに李登輝氏の滞在に関する一連の講演会やレセプション、招宴の招待状などが来た。招宴は私の出発後である。私は李登輝氏にほんの一、二分でもお会いできる時間があるかどうか疑問だと思い始めた。そのうちに李登輝氏が今回初めて靖国神社に参拝されるという発表があった。十数年前まで、氏は実の兄上が岩里武則という日本名で、靖国に祭られていることを知らなかった。亡くなったのはフィリピン戦線であったという。 私はそこで初めて、もし李登輝氏が靖国に参拝されるなら、お供をしたいと連絡した。それなら氏のお時間を全く余分にお取らせせずにお眼にかかれるだろう、と思ったのである。氏も私の一家も偶然だがカトリック教徒であり、ご夫妻からもぜひいっしょにお参りしてくださいという伝言が来た。 信仰と靖国参拝とは全く矛盾しない。ヴァチカンの態度もそれを裏付けているし、何より新約聖書には、その基本となる思想が随所に出て来る。 新約聖書は、寛大と、報復の禁止を義務づけている。二〇〇一年九月十一日の同時多発テロ以来、実に多くの学者や知識人が、一神教は狭量で、他宗教を受け入れないし、報復するものだ、と書いた。それは全くキリスト教に無知であることを示している。 新約聖書には次のような個所がある。 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(『マタイによる福音書』5・44)」 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。(中略)人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。(中略)人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。(中略)あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。(『ルカによる福音書』6・27~36)」 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、謁いていたら飲ませよ。(『ローマの信徒への手紙』12・20)」 しかし決定的な思想は聖パウロの書簡の一つである『コリントの信徒への手紙』の9・19以下に示される。 「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」 この聖書的表現には多少の解説が要るだろう。その人を得るため、というと、何か人気取りの行動をせよ、という風に読む人もいるかもしれない。選挙に立候補する人が、誰とでも愛想よく握手し、どこの会合にも出席するような心情かと誤解されるのである。しかし聖パウロが言うのは、自らが相手と同じ目線に立てということである。自分の信仰を誇って相手を見下したり、貧しい人が貧乏を愚痴る時にそんな生活は自分には関係ないことだ、というような顔をしないことなのである。それらはすべて信仰の真理を知ってもらうためであって、現世の利得のためではない。 靖国問題もそれを考えれば、少しも矛盾しない。戦争中多くの若者が戦地で死んだら靖国へ帰ります、と言った。強制されてそう言ったのではない。死後の魂のことは誰にもわからないから、待合場所を決めるようにそう言った人が多かったろうと思う。 そのような死者の言葉が大きな力を持つことはいくらでもある。「僕が死んだら、相模湾に散骨してくれないか。あそこの夕陽を二人でよく眺めたから」と誰かが言葉を残して亡くなれば、残された人は、愛する人と会いに行く思いで相模湾の夕陽の見える丘に行く。靖国も同じだ。 李登輝氏の靖国参拝は六月七日、午前十時頃だと知らされた。「朝早い方がマスコミとも無縁に静かにお参りになれますね」と私は知らせて来てくれた人に言ったが、「いや、そうじゃないんです。李登輝さんは、ちゃんと自分の態度をマスコミにも示して、個人の参拝をしたいと言われているんです」という答えだったので、私は小説家的反応と政治家としての姿勢の違いを快く感じた。 私と夫が九時半近くホテルオークラに着くと、李登輝夫妻は既に記者会見中であった。我々もそこで同行を許されたご挨拶をした。それが終ってから、夫妻は車で靖国神社まで移動され、私たちも自分の車で後を追った。 初め李登輝氏は、普通に拝殿の前で神式ではない礼拝の形を取るなどと言われていたが、それは元国家元首には不可能なことであったろう。靖国神社側は玄関で待ち受けられ、そのまま私たちは応接室に通された。そこでお茶を頂いた時の李登輝氏の顔にも、いつもの温かい笑顔はなかった。 それは苦痛に、或いはもしかしたら涙に耐えている表情に私には見えた。現代の男たちは平気で人前で泣く。しかし戦前の日本の男たちは、どんなことがあっても泣かないものであった。李登輝氏の兄上は、今でも、遺骨もない、墓もない。兄上の死の詳細は今もってわからない。それは、もしかすると長い間、亡き父上にとってはむしろ一縷の希望であったかもしれない。どこかで長男は生きているのではないか、という思いが父上に、息子の死を信じさせなかったとしても不思議はない。だから位牌も墓も、父上は作ろうとはされなかった。 兄が靖国に祭られているとわかったから、今度はどうしてもお参りに来なければならない、と思った。仲のよい兄弟だったし、その決定は、李一家の家庭の個人的なものです、という意味のことを李登輝氏は記者会見の時も宮司さんにも繰り返された。それから長い間、兄を祭ってくださっていてありがとうございました、という意味のお礼も言われた。私でも同じことを言ったろうと思う。そう言う他にどういう言葉があったろうか。それは悲痛な言葉であった。 私たちはいわゆる昇殿参拝を許された。渡り廊下で用意されたお祓いを受けた。そして畳敷きの拝殿で、李登輝夫妻は立ったまま、亡き兄の存在と対面した。 「やっと来ました」だったか「これでうちに帰ってきてください」だったか、その思いは計り知ることはできない。神社側が、静かな声で、このような順序でご拝礼くださいと、お辞儀や柏手を打つ回数を教えた。私にとってもそれはほっとすることだった。キリスト教徒は、どのようにしたら神社で礼儀を失しないで済むのか、手立てを知らない。李登輝氏は静かにその通りに従われ、私たちも従った。 その後再び応接室に戻ると、そこには亡き方の名前、軍隊の階級、所属部隊などを書いた「証明書」のようなものが用意されていた。李一家の長男の、不明だった死の経緯、長い長い戦後はこうして終った。 外へ出るとホテルオークラとはまた別の新聞記者の一団が李登輝氏を取り囲んだ。私たちは少し離れたところで待っていた。李登輝氏の車が移動すると、私のところへもマスコミの一群が来た。 「神式の礼拝をしたんでしょうか」 「玉串料は渡しましたか」 という質問も聞こえた。 およそ宗教や信仰を知らない記者たちであった。私は今までどれだけイスラム教のモスクに行ったことだろう。行けば必ずまず履物を脱いで裸足になり、女性だから長い上着を羽織りフードで髪を隠す。異教徒はモスクの手洗いの場所では手を洗わないという約束、モスクの内部の床には坐らないという礼儀を守る。だからと言って、私がイスラム教になったことがあるか。お寺や神社に行けば、お賽銭箱にもお金を入れるし、必要とあれば、何と書いていいかわからないので白いままの封筒に志を入れた金一封を出すこともある。だからと言って私が仏教徒や神道になったわけではない。そうしたことを何も認識していない記者たちが、口々にそうした浅はかな質問を繰り返した。 中国は果たして李登輝氏の靖国参拝を非難した。李登輝氏はA級戦犯を祭った靖国を拝みに行ったのではない。そこに兄がいたとわかったから会いに行ったのだ。再会の場所が上野駅でも靖国神社でも、氏にとっては同じだったろうと思う。それを政治に結びつけて、息子であり、兄である人の死を悼む人の心を踏みにじる。中国とはそういう国 ホテルに戻ると夫人が私にお土産をくださった。中に台湾のみごとなカラスミが入っていた。夫はそれをうちでは食べずにアフリカヘ持って行けと言った。靖国参拝の翌日、六月八日に私は一行十八人でアフリカヘ発った。 マダガスカルの奥地、モザンビーク海峡に面したモロンダバという町から四駆で八時間、地図にさえ載っていないベレーブという寒村にできた小学校の完成を確認するために埃に塗れて辿り着いた夜、薄暗い電灯の元で私たち十八人の日本人は、この思いがけない珍味を一緒に味わったのである。 (二〇〇七・七・五) |
月刊カレント7月号で李登輝前総統訪日の記事 月刊「カレント」という、昭和39年(1964年)創刊の月刊誌がある。新書判より少し大きいB6判で80ページほどの、ポケットに入るサイズだ。最近その7月号(第755号)をお送りいただき、李登輝前総統来日記事を掲載していたことが判明した。早速ご紹介したい。 なお、月刊「カレント」は、下記のような来歴を持つ。この7月号でも本会の加瀬英明副会長や経済学者の丹羽春喜氏などが執筆している。購読をご希望の方は下記の潮流社までご連絡を。 「カレント」は賀屋興宣(元蔵相・衆議院議員)が昭和39年、左右に偏することなくアメリカ合衆国を盟友として、自由主義社会であるわが国に、正しい世論を喚起することを目的に創刊。政治・経済・防衛・外交・教育を正しく導く論を広く求め、かつ訴えつづけている。カレントの意味は[潮流」。昭和61年には木内信胤(元世界経済調査会理事長)が継承。その間、福田赳夫元総理が維持会世話人代表をされ、根岸龍介が社長として行ってきたが、厳しい環境もあり77歳を期に退任する。平成10年6月、潮流社がこの精神を受け継ぎ、日本再生のための潮流を起こす言論活動を開始。次世代のためにも日本の再創造することを広く呼び掛けている。 李登輝前台湾総統が訪日-靖国神社も参拝【月刊「カレント」7月号】台湾の李登輝前総統(84)が5月30日から6月9日まで訪日した。今回の訪日は私人としての学術文化交流で、第1回後藤新平賞受賞や奥の細道を辿る旅や記念講演などそれにふさわしい日程をこなした。 ただ東京訪問は22年ぶりで総統退任後3度目の訪日では初めてのこと。6月7日には靖国神社を参拝して大東亜戦争で日本兵としてフィリピンで戦死した亡き兄、李登欽氏(日本名・岩里武則)の霊を慰めた。 その6月7日夜、東京・虎の門のホテルオークラで盛大に開かれた歓迎パーティーで講演し、靖国神社参拝について「父は兄の死を信じようとしなかった。98歳で死んだが、兄について家ではまったく何も(弔いも回向も)していなかった。訪日の機会を得て、それも東京に来られて参拝できたことは本当によかった。やるべきことをやったおもいだ。兄の霊が私のところへ帰ってきていた。一生のうち必ずおまいりしなければと思っていた」と語り、重荷を下ろした表情を見せていた。 また李登輝氏は国際情勢についての講演の中で、2007年から2008年中にアメリカ、ロシア、中近東、中国、アジアなどで政治経済状況が変化する。つまりアメリカがイラク、イランに手こずっているうちロシアが経済、エネルギー軍事にわたって旧ソ連圏や中東での勢力を回復しようとし、中国はみせかけの経済成長から金融危機、経済危機を深め、矛盾から来る国内問題に胡錦濤政権は翻弄される。 そうした状況の中で米・イラン、米・ロシア、米・中国の形でのせめぎ合いが続き、新しい世界情勢が展開されていく、との見方を示した。 とくに中国について「救いようのない危機が存在しており、人間の数が多く国土も広いだけに深刻さは測りしれない面がある」と強調した。 日本については「安倍政権時代にすべての面で中国と対等の(安全保障上の)勢力を保持するようにしておかないといけない」との期待を表明した。 質疑応答では、中国という国について「世界のまん中にある、との考え方を持っており、進歩と退歩の繰り返しをしている。ここから抜け出すことを教えてあげないといけない」と述べた。 |
李登輝先生来日の意義(神田ロータリークラブ・10月25日卓話要旨)日本李登輝友の会 事務局長 柚原正敬氏 本李登輝友の会は、平成14年に作家の阿川弘之さんを初代会長として設立されました。現在は拓殖大学元総長の小田村四郎会長の下、1500人の会員が所属している台湾との交流団体です。 台湾と日本の交流は、1990年代後半から非常に盛んになりました。昨年は116万人が日本から台湾に行き、130万人が台湾から日本に来ています。ちなみに中国から来た人は80万人で、母数である人口は中国13億人に対して台湾は2300万人と、大きく違います。これには、愛知万博をきっかけにビザが不要になったことが大きく関係しています。 そんな中で、今回、李登輝さんが来日されました。李登輝氏が正式に台湾の総統に就かれたのは1990年です。台湾では蒋介石の時代から38年間戒厳令が布かれて、自由な言論や集会等はすべて禁止されていました。この戒厳令が解かれたのは蒋経国時代の終わりの1987年で、蒋経国の死後、副総統であった李登輝氏が総統に就任しました。当時は彼がどんな政治をするのかと世界中が注目する中で、李登輝氏は憲法を改正するなど次々と民主化に取り組み、1996年には国民が直接選挙で総統を選ぶという画期的な制度を導入しました。これは、台湾の民主化を象徴する大きな出来事です。 日本と中国は1972年に日中共同声明を発しています。その中で、中国政府は「台湾は中国の不可分の領土の一部である」と言っていますが、それに対して日本政府は「理解し、尊重する」と言っているだけで、「承認する」とは言っていません。ところが、徐々に「一つの中国」政策なるものが登場してきて、日本政府はそれを尊重するという立場を取ったため、台湾では民主化が進んでいるにもかかわらず、その現状が認識できないという状況が90年代後半まで続いていました。そこで、私どもは新しい台湾との交流を図るために「日本李登輝友の会」を設立した次第です。 李登輝氏はご存じのとおり京大の農学部を卒業されています。その後、今回を含めて5回来日していますが、平成13年には岡山で心臓のカテーテル手術を受けようとしたのに対して、政府の許可が出たのは来日直前でした。今回の来日は後藤新平賞の受賞式に出席されるためでもあったのですが、李登輝氏は以前から靖国神社に参拝することを希望されており、飛行機の中でそれをマスコミに発表されたために、日本に到着されてからの記者会見ではそのことに質問が集中してしまいました。 そのときに「一緒に参拝しませんか」と声を掛けてくださったのが、作家の曽野綾子さんです。曽野さんは李登輝氏と同じくクリスチャンで、李登輝ご夫妻とは台湾の大地震の際に日本財団の理事長として義援金を持って行かれて以来のおつきあいだそうで、「クリスチャンが靖国神社に参拝して悪いわけがないし、まして李登輝さんは実兄をなくしておられるご遺族なのだから」とおっしゃっていました。このときもマスコミが大きく取り上げて書き立てたので中国が反発してくるだろうと思っていたのですが、予想に反して何も起こりませんでした。当時の安倍首相は「人には信仰の自由があるから」とおっしゃったのみです。 今回の来日で、李登輝氏は講演と東京訪問、記者会見、奥の細道の散策、そして靖国神社の参拝を実現されました。奥の細道に関してはまだ半分回られただけなので、ご本人も「次回に持ち越しますが、そのときはよろしく」とおっしゃっています。ただし、本来はどこを訪問されても、誰とお会いになっても構わないはずで、政治家や閣僚との面談についてはまだ実現していません。 日本政府の台湾に対する姿勢を見ていると、平成14年以降、台湾を容認する方向に変わってきたように思います。例えば台湾の運転免許があれば日本でも運転ができるようにするなど、中国とは違った措置を取り始めました。今後、台湾自体が揺れる可能性もありますが、日本、アメリカ、オーストラリア、インド等が台湾の動きを支援するような形になれば、台湾の現在の国際的な閉塞状況が破られる方向に動くのではないかと思っています。そのためにも、私どもは微力ではありますが、皆様のお力添えをいただきながら、今後も活動を推進していきたいと思いますので、よろしくお願い致します。 |
今年6月にドイツで開催された主要国首脳会議(ハイリゲンダム・サミット)での安倍晋三首相(当時)と中国の胡錦濤国家主席との首脳会談をめぐり、中国側がその直前の台湾の李登輝前総統の訪日を理由に会談を拒否していたことが27日、複数の関係者の証言で分かった。しかし、日本側が譲らず、中国側が全面的に折れるかたちで決着、会談は行われた。安倍前政権の中国に対する強い姿勢が奏功したといえるが、外交関係者には「親中色」が濃いとみられる福田政権が中国に「くみしやすし」と見られているのではないかとの見方が広がっている。 関係者によると、サミット開催に合わせた日中首脳会談は、日中間の戦略的互恵関係の促進や北朝鮮問題などを話し合うため、早い段階で日本側が呼びかけ、中国も応じる構えだった。 ところが、中国側は、5月末になって会談中止を通告してきた。理由は、5月30日の李氏来日だ。中国政府は、28日の日中外相会談で楊潔篪外相が麻生太郎外相(当時)に李氏訪日への懸念を表明していた。それにもかかわらず、日本側が李氏の入国に何の制限も加えなかったことを問題視したのだ。 これに対し、日本政府は、「サミット正式参加国は日本だ。招待国の中国と無理して会談することはない」(当時の官邸筋)と会談の提案そのものを引っ込めた。 これにあわてたのが中国だった。すぐに「李氏は日本で講演を予定している。これを(マスコミなどに)完全クローズにするなら安倍氏と会談してもいい」とハードルを下げてきた。 それでも日本側が「会談開催に李氏訪日の件を絡めるならば、会う必要はない」という安倍氏の考えを伝えたところ、中国側は6月3日になって「条件はつけない。ぜひ会談を行いたい」と全面的に譲歩。8日の首脳会談が実現した。 李氏は7日に靖国神社参拝と講演を予定通り行い、講演では、「多くの人々が中国経済の高度成長に惑わされ、危機の存在を否定するが的外れだ」などとも語った。 日本側は「首脳会談で胡主席が、李氏に靖国を参拝させた日本を批判すると予想した」(官邸筋)。だが、胡主席は李氏の靖国参拝にさえ触れなかった。 中国側が強硬姿勢をあっさり転換したことについて、外務省幹部は「それが中国の交渉術」とした上で、「これまで日本は中国の機嫌を損ねることばかりを恐れ、相手の思惑通りに動いていた。しかし、このときは日本がぶれず、譲歩を引き出した」と振り返る。 外交筋は「安倍氏は靖国神社に行くとも行かないとも言わない『あいまい戦術』というかたちで靖国カードを保持していたので、中国も強く出られなかった」と解説する。中国としては、あまり日本を刺激すると安倍氏が反中国の姿勢を鮮明にし、安倍氏の靖国参拝を招き、中国国内の暴動や反政府活動を誘発しかねない状況になるのを恐れたというわけだ。 政権交代後の今月11日に北京で開かれた東シナ海のガス田開発に関する局長級協議で、中国側は、改めて強硬姿勢をみせている。外務省は「“親中派”の福田康夫首相に花を持たせる考えはない」とみている。外交筋も「福田首相は早々に『靖国には参拝しない』と述べ、靖国カードを手放しており、くみしやすいとみている」と指摘している。【10月27日・産経新聞Web版】 |