李登輝前総統が「週刊東洋経済」(東洋経済新報社発行)誌の「長老の智慧」という1ページコラムに、2007年12月3日発売の12月8日号から連載を始められ、1月19日号掲載の第5回で完結した。本会では5回の連載全てを掲載している。通読すると、李登輝前総統のおっしゃることがよく分かってくる。各回の見出しは下記の通り。
・その1 台湾の基礎を築いた後藤新平 独自の精神性にこそ惹かれる
・その2 現実と仮想との混乱を憂う 最も重要なのは信仰心
・その3 アジアでは米中の覇権争い 日本は自信を持って行動を
・その4 有能な人間を特別部局に 試験だけに強い人材は無用
・その5 台湾はすでに一つの独立国 「新台湾人」が育ってほしい
【12月8日号(12月3日発売)掲載「長老の智慧」その1】台湾の経済発展を指揮したアジアのリーダーは、日本の後藤新平賞を受賞した。後藤は台湾の民政長官時代に多大の業績を残したが、むしろその精神性にこそ魅力があると語る。
台湾の基礎を築いた後藤新平独自の精神性にこそ惹かれる
今年、私は「後藤新平賞」(後藤新平の会主催)の第1回受賞者に選ばれました。後藤はご存じのとおり、100年先を見通して大きなスケールで政策を構想し、数々の業績を残した政治家です。台湾とも縁が深く、1898年から1906年にかけ、台湾総督府の民政長官として、未開発地域だった台湾の近代化を指導しました。悪疫の根絶のために医療や上下水道の整備を進め、教育を普及させ、産業を振興するなど民生向上に多大の貢献をしました。
私が生まれたときには後藤はすでに台湾におらず、直接のつながりもありません。しかし、今日の台湾は後藤が築いた基礎の上にあり、この延長線上に新しい台湾政府と台湾の民主化を促進した私は、決して彼と無縁ではありません。実は何より私は後藤との間に、強い精神的なつながりを感じているのです。
後藤はもともとは医師で、自由民権運動の遊説先で板垣退助が暴漢に襲われ負傷したとき、板垣を治療しています。子どものころ、この事実を知った私は後藤を尊敬し私淑するようになりました。
台湾がまだ清朝の統治下にあったとき、北京から派遣された劉という知事が台湾の近代化を図ろうとしましたが、ほとんど失敗に終わってしまいました。それは開発の初期条件の整備に注意を払わなかったこと、そして開発資金に無頓着だったこと、さらにこれはとても大事なことですが、開発の目的を明確に持っていなかったことです。
ところが後藤はそうしたことをよく理解し台湾統治に当たりました。何より人的リーダーシップに優れていました。彼は台湾に着任すると人事の刷新と人材の登用を行いました。登用された中には、中村是公や新渡戸稲造など優秀な人物がそろっていました。
後藤は「人の世話にならぬよう。人のお世話をするよう。そして報いを求めぬよう」という「自治三訣」を提唱していますが、その人間像は他の日本の政治家には見られない独自の精神性を持っています。
これは普通の論理ではない形而上学的な信仰があるのです。後藤の信仰は私は知りませんが、言動からは強い信仰を持っていることがうかがえます。信仰のセンス(判断、感覚)は理屈ではなく情動、情緒です。私はクリスチャンです。後藤に私が強い精神的なつながりを感じるのは、そうした強い信仰を持っているからです。後藤は私にとって精神的な導きの師でもあるのです。
【12月15日号(12月10日発売)掲載「長老の智慧」その2】文化にも造詣が深い老政治家は、村上春樹を読み、「スタートレック」をも語る。しかし、バーチャルとリアリティの区別がつかなくなった現代人には深い憂慮を感じている。
現実と仮想との混乱を憂う、最も重要なのは信仰心
技術の進歩が速くなり、おカネとメディアが全世界を駆け巡っています。こうしたグローバライゼーション時代ではメディアの役割が重要です。メディア自体が世界で強い影響を与えており、メディアがどういう方向にいくかで世界も変わってしまいます。
メディアが考えなければいけないのは、リアリティとバーチャルリアリティの問題です。今、映画を見ていると新しいシナリオを作れていないのでは、と思います。というのは現実と仮想が混乱しているからです。かつては過去・現在・将来と三つの空間がありましたが、これにバーチャルリアリティが加わります。そして、いわゆる死んだ人の世界がもう一つ入ってきます。となると、五つの空間です。
映画、特に米国映画などをご覧なさい。映画の中では、幽霊やらいろいろな訳のわからないものが出てきて、人間は死んでもすぐ生き返るし、理解できません。でも、そういう話だと売れるんです。
今の人は現実に生きていながら、将来のことはわからない。死んだ後の地獄、天国、将来はどうなるかといったことも、宗教ではっきりとは教えてくれない。だから若い人は、メディアから流される世界を信じてしまうんでしょう。
私が1960年代に米国にいたとき、テレビで「スタートレック」をやっていた。今も時々見ていますけどね。そこで出てくる話で、銀河系の中でも1ヵ所だけは行ってはいけない星がある。そこでは死んだ人は生き返る。そういうことを映画やドラマでやっている。われわれはこういう話が受け入れられているという現状を、ある程度、理解をしておいたほうがいい。
最近、村上春樹の『ノルウェーの森』を読んでいるけど、面白いね。ありえないようなことを空想しながら書いている。こうした作品を読まないと、今の人が何を考えているかがわかりません。インターネットでも、また漫画でもありえないようなことが載っている。空想でつくられたものが、実際の世界であるかのように映画館とかテレビでわれわれの前に出てきている。若い人はこうしたものしか見ないから、そこに興味を持っている。
このように混乱した状態にある世界が将来どうなるか、気掛かりです。そこで私は最後に残るのは人間の価値と道徳だと思っています。その道徳を支えるのは宗教です。政治家であった私が信仰の重要性を説くのは、こうした理由からです。
【12月22日号(12月17日発売)掲載「長老の智慧」その3】複雑な国際政治の渦中にいた老練な指導者は、アジアでの米中覇権競争を予見する。日本は今こそ自信を持って国際舞台で存在感を示してほしいと、期待の言葉を投げかける。
アジアでは米中の覇権争い 日本は自信を持って行動を
台湾にとって、アメリカは重要な友好国です。正式な国交はありませんが、米国には「台湾関係法」という法律があって、台湾の現状維持と安全保障に関与することを定めています。つまり、もし台湾海峡に何かが起こった場合には、米国は台湾を守ることになっているのです。
ただし現在の米国はイラク、イランをはじめとする中東問題に縛られてしまっており、東アジアでは何もできない状態になっています。
ロシアにとってそれは好ましいことです。大胆なことをいえば、ロシアは中東で反米的な動きに関与しているかもしれない。米国が中東問題から抜け出ることができない状態は、中国と並んで将来の世界のリーダーになりたいロシアにとって好都合です。
米議会では民主党が優勢になっており、ブッシュ大統領が指導力を発揮しにくくなっています。加えて任期切れを控えており、一層、不利な立場にあります。米国が外交の失敗から立ち直るのは、選挙後の2009年以降ということになるでしょう。こうした米国の影響力低下に乗じて、強権政治の国で米国に挑戦的な国──それはベネズエラから北朝鮮まで──が、より侵略的な行動に出ることが予想されます。
東アジアでは米国の影響力が一時低下している間に、中国がその勢力を増してくるでしょう。だが、そうはいっても米国には世界一の軍事力があります。ブッシュ後の新大統領が体勢を立て直し、新たな政治周期に入り影響力を取り戻したとき、東アジアでは中国との激しい権力競争が繰り広げられることになる。東アジアは米中の太平洋争奪時代に突入するということです。
私の総統時代、台湾を威嚇するため中国は1995年と96年にミサイルを発射しました。中国は今も800発のミサイルを台湾に向けています。しかし、今後、簡単に撃つかといえばそれはない。国家指導者が江沢民から胡錦濤に替わっていますし、撃ったら大変なことになることは彼らもよく知っています。
私は日本にはもっと主体的に行動し、東アジアの政治を主導する国になってほしいと考えています。軍国主義は問題外ですが、東アジアの安全保障にもっと関与してよいでしょう。
日本は経済では長い不況を克服しました。経済協力でも日本の役割は大きなものがあります。いろいろな分野でもっと自信を持ち、堂々と行動に移すことを期待しています。
【12月29日・2008年1月5日迎春合併特大号(12月25日発売)掲載「長老の智慧」 李登輝 その4】台湾を発展に導いた経験から、リーダーシップの重要性は痛感している。真のリーダーをつくるには、特別な部局を設けて実務経験を積ませることが大事だと、日本に提言する。
有能な人間を特別部局に 試験だけに強い人材は無用
日本では安倍前首相から福田首相に政権が代わりました。私は、日本が世界第2位の経済大国にふさわしい政治的地位と影響力を持ってほしいと考えています。その点で、安倍前首相が日本版NSC(国家安全保障会議)の設立を目指していたのを評価していました。現在は具体的な動きが進んでいないようですが、首相の下に安全保障の権限を一元化して強化するのは大切なことです。
日本の政治で欠けているのは強いリーダーシップです。総理と閣僚が別々の意見を平気で言い、内閣はバラバラです。安倍内閣では失言も目立ちました。これでは駄目です。総理の方針に従わない大臣はクビにする、これぐらいの覚悟がないといけません。安倍内閣にはちょっと問題のある人がいましたね。
昔は、政治指導者が何から何まで決めていたパトロン型で独裁的なこともできましたが、現代は民主主義の時代です。確かに、大きな権力を背景にしていたからこそ、息の長い巨大プロジェクトや重要な政策決定を行うことができたのは事実です。だが今はそれが否定され、しかも権力は分散しています。
では民主主義の中でどうやって指導力を発揮するか。それは課題ではありますが、指導者は将来への提言、国の将来をはっきり示すことが必要です。
私は小泉元首相は日本の政治を変えたと思っています。一つは根回し型の政治をなくしてしまいました。カネや部下(派閥)を持つ人間と調整するのではなく、意見を言わせて最後には自分で決めた。それまでのリーダーと違っていました。それに総選挙を前に中曽根さんなどの長老を引退させた。世代を交代させた、これも功績です。
リーダーシップを発揮するためには人材の活用も大切です。私の周りでも、新聞人にしても学者にしても立派な人がたくさんいた。しかし、そうした中で有能な人材を無駄にした例がある。それは階級だとか人間関係だとかで浮かび上がらなかったからです。
日本でもそうです。国家発展特別局のような部署をつくって、有能な人間に仕事をさせる。実行力をつけるためにきついことをさせる。そうやってリーダーをつくることです。アメリカもイギリスもリーダーは経験を積ませて育てています。日本のように、単に優秀な成績で東大で1番だったとか、法律ばかり覚えて試験のときだけ強いとかではしょうがありません。
【2008年1月12日号(1月7日発売)掲載 「長老の智慧」 李登輝 その5(最終回)】台湾はすでに独立国で.今必要とされているのは台湾人としてのアイデンティティ。その思いは李氏の信念になっている。本省人、外雀人といった区分けがなくなることが願いだ。
台湾はすでに一つの独立国 「新台湾人」が育ってほしい
今年3月に台湾では総統選挙が行われます。いろいろな人から選挙について尋ねられますが、何も言いたくありません。私は国民党の指導者として台湾の民主化を進めましたが、国民党から見れば反逆者でしたので、潔く国民党から離れました。総統に誰がなるかは台湾人民が決めることであり、私ではありません。
ただし、こうしたことを指摘しておきたい。台湾では総統の権限が強い時代が長く、総統選に勝つことが政治の実権を握ることだと誰もが思っています。しかし、本当は国会(立法院)が政治の主になるべきなのです。国会が人民の声を反映して発表し、決めていく。それが(民主主義国では)当たり前のはずです。
台湾では憲法改正が大きな争点になっています。陳水扁政権は改正に前向きで住民投票も行いたい意向ですが、そんなに改正を急ぐ必要はないと考えています。少しずつ見直していき、その後で名称の変更も含めて住民投票すればよい。
同じように台湾の国連加盟についても、わざわざ住民投票にかける必要もないでしょう。実際のところ、住民投票で国連に加盟すべしとなっても、何も具体的なことはできません。台湾は国際的に法的な地位を獲得しておらず、国連での加盟賛成は少数です。逆に、中共(中国)は台湾は自国の領土だとあらためて持ち出してくるだけです。
アメリカは台湾の法的地位についてあいまいな態度をとっています。1951年のサンフランシスコ条約でも、日本が台湾をどこに返すか、一言も触れられていません。ちなみに米国は1898年のスペイン戦争の戦後処理でも、フィリピンやキューバの帰属をはっきりさせませんでした。米国は台湾について明確には言わないのです。
私は以前から、「台湾はすでに独立した一つの国である」と言っております。ですから今さら独立うんぬんという必要もないと考えています。台湾は国際法上で判例のない特殊な状態にあります。そうした状態で、台湾の人々に「台湾は自分たちの国だ」という確信がないと誰も助けてはくれません。
台湾人に必要なのは、台湾人としてのアイデンティティを持つことです。台湾人は自国の歴史というと大陸のことばかりでしたので、私は総統時代に台湾の歴史を編纂した新しい教科書もつくりました。「本省人(戦前からの住人)」、「外省人」という区分けではなく「新台湾人」が一人でも多く育つことが私の願いです。(完)