産経新聞社と系列のフジサンケイビジネスアイ(前身は日本工業新聞)が主催する「日台文化交流 青少年スカラシップ」をご存知だろうか。台湾を通じて、日本の若者に世界を見つめ直してもらうのが目的のスカラシップは今年5回目を迎え、作文や絵画など4部門合わせて1100通を超える応募があったという。
台北駐日経済文化代表処の機関誌「台湾週報」によれば、3月25日には代表処公邸で表彰式が行われ、許世楷代表は、同スカラシップが「台湾と長いつきあいになるはじまり」となることに期待を示し、同スカラシップの審査員である金美齢・元総統府国策顧問は「例年よりレベルが高く、作文はこれまで女性が多かったが、今年は男性も多くなった」と述べ、特に大賞を受賞した河合寿也さんの作文に関して、「非常に成熟した文章だった。70年生きてきた私が負けるほど言いたいことが網羅されていた」と評したそうだ。
受賞者一行は25日の夕方に台湾へ出発し、一週間の台湾体験の旅を終えて帰国。台北では、例年のように李登輝前総統との懇談も行われ、参加者に対し、2時間を超える講義を展開したとのこと。その際の講義が、同行した河崎真澄氏(産経新聞・前台北支局長)によってまとめられ、フジサンケイビジネスアイ紙上に掲載された。スカラシップに参加した若者たちへ向けた講義だが、日本人全員必読の内容である。
若者たちよ 李登輝・台湾前総統 「第5回日台文化交流青少年スカラシップ」講演から
■指導者は現場を見ろ、日本人の一人として奮闘せよ
日本の若者に台湾を通じて世界を見つめ直してもらう「日台文化交流 青少年スカラシップ」(フジサンケイ ビジネスアイ、産経新聞社主催、台湾行政院新聞局共催)は今年、第5回を迎えた。
10~20代の若者から作文など4部門で1101点の応募があり、このうち優秀賞の受賞者など17人が6日間の研修旅行を贈られ、台湾を先月訪れた。
一行が訪問した李登輝前総統は、日本や台湾の将来、中国との関係などについて幅広く、流暢(りゅうちょう)な日本語で若者たちに語って聞かせた。(河崎真澄・産経新聞前台北支局長)
台湾の李登輝です。みなさんは(今回の研修旅行で1泊の)台湾家庭でのホームステイを経験したと聞いた。ホームステイは一番いい。自分と関係のない家に住み、その家の人たちに私とはこういう人間だと生活を通して話したり、場所によっては、今でもトイレや風呂もないような台湾の家庭を知ることができる。
昨日(3月27日)、実は今回(3月22日)の選挙で総統に当選した(野党国民党の)馬英九氏が訪ねてきた。私が馬氏に敬服しているのは、彼が選挙前に(台湾の中部や南部で)99日間のホームステイをしたことだ。彼は(香港出身で)台湾生まれではないが台湾の総統になりたい。ならば台湾人の家に住み込んで「私はこういう人物だ」と了解してもらう必要がある。
この考え方は間違えてはいない。まだまだ貧しい家庭も多く、苦しんでいることを知らねばならない。
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最近、「最高指導者の条件」(PHP研究所)という本を私は日本で出版したが、その中で「現場を見なさい」と書いた。馬氏にも話したが、自分とは異なる環境で、人々はどう生活しているのか見なければならない。自分の目で見ることが、台湾と日本を将来、強く結ぶにどうすべきか考えるために、欠かせない。
指導者には何が求められるか。組織を作り上げるには、危機に対応する現場主義(が必要)。現場が分からないと。東京で法律つくって、これで正義をやってるというのは間違いだ。民主政治では国民の細かい事情を知らねばならない。
日本は戦後六十数年、非常に進歩した。私の最近の3回の訪日の感想だ。(終戦を迎えた)昭和20(1945)年8月15日に私は名古屋城にいた。(旧日本軍の)見習い士官だった。あれだけ爆撃を受け焦土と化した日本を見た。そこから立ち上がり、世界第2位の経済大国を作り上げた。
民主的な平和な国として世界各国の尊敬を受けることができた。その間における人々の努力と指導者に敬意を表したい。同時に日本文化の優れた伝統が、進歩した社会の中で失われていなかった。私は田舎を回ってきた。岡山、倉敷、そして名古屋、金沢、石川、昨年は仙台から山形、秋田へと、奥の細道も歩いた。
みなさんは気づかないだろうが、外国から来るとこんな田舎まで、ゴミひとつ落ちていない(ことは驚きだ)。長い間、伝統的に培われた日本人の考え方であり、国を愛すると同時に村を愛する、自然を愛するという精神に結びついた。
旅館も、新幹線も、仕事に従事する日本人の真面目さ、細やかさをはっきりと感ずることができる。社会秩序はきちんと保たれている。精神的に高い日本文化を日本人はもっている。日本の精神は「武士道」に起源があると私は感じる。
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だが、いまの日本に何かが欠けている。これを取り戻す必要がある。さもなくば国際的に日本は強い国になれない。まず第一に私がいう「私は誰だ?」という問題。私は人間だが、人間の生命には限りがある。
みなさんは倉田百三の戯曲「出家とその弟子」を読みましたか。そこに出てくる考え方の基本は、死を迎える前に、生きている間に何をすべきかという問題がある。生きている間に自分の精神を高め、自分以外の公共のために努力しなければいけない。これが公(おおやけ)の精神だ。自分さえよければという考え方が若い人に広がっているが、日本人の一人として奮闘すべきだ。
私は台湾のために奮闘している。私は「私(わたくし)」ではない私。公のために奮闘する私だ。日本の指導者にその精神が欠けていないか。
■日台で農業技術交流を 休閑地でサトウキビ量産
日本の指導者、政治のリーダーたちはあまり将来を見通しておらず、肝っ玉が小さい。経済は伸びたが指導力が弱い。日本でも社会の一部はカネや権力に左右されているが、そんな問題から脱出するのは政治家の役割ではないか。小泉(純一郎)さんにもっと(首相職を)やらせたらよかったんだ。根回しで決めるのではなく公選(直接投票)で首相を選んだらどうか。
日中関係ももっとはっきりさせればいい。(中国の胡錦濤国家主席が来月訪日する予定だが)中国の指導者が日本に来たら、「何か中国がお困りのことはありませんか。何か欲しいものはありませんか。助けて差し上げます」と、そういえばいいんだ。ただし、「その代わり中国は見返りとして日本に何をしてくれますか。『反日』活動をすぐにやめてくれますか」と付け加えなければいけない。
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最近、日本で「中国製ギョーザ中毒事件」が問題になった。だが台湾製ギョーザなら「毒」はない。台湾はもっと日本に食品を供給すべきで、日本と農業(や食品)でもっと助け合ったらいい。台湾なら残留農薬の問題は起こらないよ。
台湾で1個数百円のマンゴーが日本では1万円もするものがあると聞いた。台湾はマグロの水揚げ量も多く、日本より安くトロが食べられる。台湾のみかんも大量にできるが、みかけの悪いものはジュースにして日本に輸出したらいい。
日本人は「うまさ」が分かる。日本も台湾も世界貿易機関(WTO)の正式メンバーどうし。(農水産品や食品を)交換しあえるよう(努力すべき)。日本の若い人が台湾で大規模農業をするのもいい。ガソリンが高いのなら、台湾の休閑地で(バイオ燃料の原料となる)サトウキビを量産したらどうか。ジャガイモやニンジンを作ってもいい。
土地は動かないようにみえて生産プロセスを工夫すれば“動く”んだ。日本と台湾は農業技術を交流する(余地がまだある)。
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経済政策ではこんなことも考える。(中国はなかなか人民元の大幅切り上げに応じないが)日本は1985年の「プラザ合意」でおとなしく円高をのんで、1ドル=240円前後から1年で約120円になった。
86年に台湾元も1ドル=60元前後から25元前後に上昇したことがあった。当時私は副総統として、このままでは台湾は激しいインフレに襲われると考え、中央銀行に外貨集中させないため市中銀行にも外貨口座を開けるよう制度を改めた。
その結果、外貨を台湾元に両替せず、外貨のまま銀行に預けること可能になって、(台湾元の大量流出を食い止めることで)インフレを防ぐことができた。
一方、日本では円高の結果、(円建てでみれば安くなった)米国の資産をたくさん買った。国内ではインフレになり地価も高騰して結局、バブル経済が崩壊してしまった。その後の十数年にわたり日本経済が伸びなかった。米国でサブプライム(高金利型)住宅ローン問題からドル安になっており注意が必要だろう。
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■「権力を『私用』しない」 農業経済学者の姿
国家や国民の経済基盤として農業の重要性を強く意識していた李登輝氏。自ら京都帝国大に農業経済学の門を叩(たた)き、米コーネル大で農業経済博士号を取得。
台湾に戻って農業経済の専門家として頭角を現したことが、当時の国民党政権から注目されるきっかけになった。蒋経国元総統時代に副総統に就任、蒋氏死去で1988年1月に総統昇格し、2000年5月まで12年間、総統を務めた。
だが、李氏自身にそもそも政界への進出意欲や権力志向はなく、求められて政界に入った後には、農業経済学者としてのベースを応用し、国家経営や民主化推進に誠心誠意あたった。
李氏はかねて、「権力は国のため人民のため必要なときだけ取り出して使えばよく、使い終わったらしまえばいい」と発言。権力を決して「私用」しなかった希有の政治家となった。
京都学派の哲学を基本にして自己を確立した農業経済学者が、偶然にも“後天的に”政治の仕事を任されたと解釈すれば、その発言は理解しやすいかもしれない。国家と国民、農業と経済の行方がいまも気がかりなのは、政治家である前に、実践躬行(じっせんきゅうこう)をモットーとする農業経済学者が李登輝氏の真の姿だからだ。
「中華」とは何か。定義が難しいが、中国は(世界の)中心にある「華」だといい、中国人は「大中華帝国」ととらえている。しかし、あの国(中華人民共和国)には人権がない。皇帝がすべて。中国は5000年の歴史と言うが、(現在も)古いしきたりにとらわれており、中国人の考え方にあまり変化はない。皇帝が権力を握って財を集めては周囲に脅威を与える。
文字や歴史的な発明など独特の文化があり、自分の国が最も偉いと思っているのが「中華」の意味。台湾は清代に「化外(けがい)の地」と呼ばれていた。では私(李登輝氏)は何人か。(日本統治時代の台湾に生まれ)22歳まで日本国籍。京都帝国大学に進み、軍に入って陸軍少尉にまでなった。戦後はどうか。(台湾人としてのアイデンティティーに)まったく苦しんでいない。
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しかし台湾が歴史に登場して400年ほどしかない中で、長らく外来政権に治められてきた。被支配民はどのように主人になって国を作るか分からない。(3月22日の総統選挙で台湾本土派で落選した)民主進歩党の謝長廷氏の得票率は約41%。台湾で最近行われた調査で「私は台湾人だ」と答えた人が40%と、ほぼ一致した。私は「台湾人」だとの意識をもつ人が70%近いと思っていたが、実際は40%に落ちてしまった。私は悲しい気分になった。
台湾人主体の体制。台湾のために奮闘する。民主化する。私は(中国大陸から戦後、台湾に移ってきた外来政権の)中国国民党の中にあって、主席、総統という立場で民主政府に変えてきた。自分たちで自分の国をどう作るか。台湾人はまだ大いに勉強しなければいけない。台湾人が自分なりの精神を持つまで時間がまだかかる。私の悩みだ。
いかに早く台湾人が自主的な考え方、主体性をはっきりと持ち、民主化を深める努力をするか。「公(おおやけ)」のために一生懸命努力することが台湾人にも大切だ。
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台湾の状態も今年、変わった(3月の総統選挙で8年ぶりの政権交代が決まった)。国民党の馬英九氏が総統選挙で勝って、台湾は中国に統一されてしまうのではないか、と心配する人が日本にも大勢いる。だがその考え方は打ち消さなければいけないな。一部の考え方にだまされている。
中国はいま、台湾を飲み込む計画も力もない。自分自身(中国)が大変だ。そういう中国の状態を知らないから(心配する)。産経新聞とフジサンケイビジネスアイが載せた(3月26日付「中台統一」加速はない、との内容の)私のインタビュー記事は大きな影響がある。内容に私が責任を取るよ。怒られるのは私だけだ。(中台の問題について)こわごわとせず、大きな気持ちでハッキリ発言なさいと、福田(康夫)首相には伝えてくださいよ。
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■揺るぎない現実派 新時代の「台湾人」へ
戦前から台湾に住む本省人(台湾籍)と中国大陸から戦後渡ってきた外省人(中国大陸籍)とに大きく分けられる群族(エスニック)はこれまで、総統選挙や立法委員(国会議員)選挙のたびに対立し、逆に溝を深める場面も生んできた。台湾世論が大きく2つに分かれる現象を、地元誌は「香港は『一国二制度』だが台湾は『一島二国』だ」と揶揄(やゆ)した。
だが、李登輝前総統は2005年10月の訪米時、ワシントンでの講演で、台湾は台湾以外から渡ってきた時期や省籍(祖先からの出身地)の異なる群族が共存する社会だが、台湾に暮らして根を張る人すべてが「新時代の台湾人」になるべきだと述べた。一部の政治家や中国が、群族間対立や内部分裂を煽っていることに危機感を示し、台湾の人々に団結を求める主張だ。
群族間の認識の違いや迫害を受けた負の記憶は簡単には埋められないだろう。李氏はそれを十分に承知しながらも、人口13億人の中国大陸から政治的にも軍事的にも脅威を受け国際政治面でも弱い立場にある台湾が、人口2300万人の中でアイデンティティーの混乱を続けることは得策ではなく、「分裂」は国際社会に誤ったシグナルを送ることになると考えた。まず「国家レベル」で優先すべきは「団結」である、と。
中国などから「独立派」と指弾されてきた李氏が、今回の総統選で最終段階では台湾本土派の謝長廷氏(民主進歩党)支持を決めながら、中国国民党の馬英九氏(香港出身)が当選した後、インタビューで馬氏に「一党支配をもって民主化を進めるべきだ」と注文を付けたことなどに“姿勢の変化”を指摘する声もあった。しかし、群族対立に今度こそ終止符を打ち、台湾の置かれた状況を直視して将来を見つめ直すべきだという「現実派」の李氏の信念は揺るぎない。さまざまな批判を覚悟で李氏は現実路線を訴えた。
■公の人、後藤新平に学べ 日本人として奮闘せよ
みなさんは後藤新平という人を知っていますか。(日本統治時代に)児玉源太郎が第4代台湾総督だった時、8年7カ月にわたって(1898~1906年)民政長官として台湾総督府で仕事をした日本人だ。当時、台湾を(他の国とは近代化のペースで)1世紀違う国に築き上げた。
台湾での功績は非常に大きかった。(日本統治が始まる1895年以前の)清朝時代の台湾は漢文を読んで暗記することが基本だったが、後藤新平は(台湾全土に学校を建設して教科書を作り教員を多数派遣する)教育政策を進めた。
後藤新平は元は医者。岩手県水沢の人だ。医学校を出て当時の日本でも珍しい(先進的な考え方)。日清戦争(1894~95年)からの帰還兵に検疫検査を行い、外地からの伝染病侵入を防いだ。また岐阜で遊説中に暴漢に刺された板垣退助を医師として救出して、命を救った。その後、台湾では衛生観念の向上やアヘン吸飲習慣の根絶など、実にさまざまな仕事をした。
後藤新平の伝記を読んでほしい。公共につくす人。信仰をもっている。「私は何者だ?」との問いに、結論を出すにあたって(研究対象として)最もふさわしい人物だ。公(おおやけ)のため、日本のため、学校のためでもいい。日本人としてみなさんも奮闘してください。
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若い人たちに何を期待するか。指導者の条件として私はまず「信仰」をもちなさいいという。どんな宗教でもいいから、(物事の正否の判断に当たって)しっかりした考え方の基準が必要だ。次に「権力放棄」してほしい。自分が置かれた立場がもつ権力は自分のものじゃないんだ。すなわち「公と私(わたくし)の区別」。「私は私でない私」と言ったけれども、すなわち公のために尽くす私がいるのであって、私だけのために生きる私がいるのではないということだ。
「人がいやがる仕事」を進んでやりなさい。私は中学生のころ、進んで便所掃除をやったよ。どれだけ自分が耐えられるか、自分で試したかった。最後に「カリスマのマネをしてはいけない」。新聞やテレビに登場するような人物ばかり(が実社会を構成しているの)じゃないんだ。
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昨年、東京から仙台、松島や山形、秋田を回って、芭蕉(ばしょう)の「奥の細道」を歩いた。だがまだ、芭蕉の旅は新潟から大垣まで残っている。できればもう一度、歩いて「奥の細道」の旅を終わらせたいと思っている。それ以外に、長いこと行っていない九州にもいってみたい。宮崎とかね。
台湾の人が日本に行くにはもうビザ(査証)がいらないはずだが、どうも私は違うみたいなんだ。日本の外務省はちっとも変わっていない。福田(康夫)首相は(仮に)私が日本に旅行に行く、といったら(中国政府が)怖くて来させないかもしれないな。
福田首相はこわごわとしないで、大きく座って(大きな気持ちでどっしりして)言うことはハッキリ言って。そう伝えてくださいよ。みなさんありがとうございました。
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■台湾で交わる2人の精神性
李登輝・台湾前総統は昨年の訪日時に「第1回後藤新平賞」を受賞し、6月1日に東京で記念講演を行った。後藤新平が民政長官として戦前の台湾で行った業績を挙げ、「今日の台湾は後藤新平が築いた基礎の上にある」とまで称(たた)えた。その中で、政治家には権力掌握を目的とする者と、仕事を目的とする者の2種類がある、と指摘。「後藤新平のもつ人間像には、今の日本の政治家にはみられないものがある」と語った。
李氏は曽文恵夫人とともに敬虔(けいけん)なクリスチャンとして知られている。総統時代など苦しい決断を迫られたとき、政界やマスコミ、時には同僚たちや民衆からも激しい批判や非難を浴びたとき、夫妻で聖書を開き、そこに示されれた言葉に苦難を乗り越え、解決の道を見つけるすべを求めたという。
その李氏からみて、「後藤新平はどのような宗教かは不明だが信仰をもっていたと十分に認められる」という。信仰は機械的な論理ではなく、人的感情の感覚や判断が大事だと話した。「後藤新平と私をつなぐ根本的な精神は強い信仰(異なった宗教でもかまわない)を持っていることで、後藤新平は私にとって偉大な精神的導師だ」とまで言い切っている。
仕事のために権力をもち、その権力を台湾という「公」のためにすべて使い切ったという点において、仮に年代は異なっていても2人は、台湾という空間を共有し、精神的に交わっているといえる。
【プロフィル】李登輝 り・とうき
旧制台北高等学校から京都帝国大農学部に学び、戦後、台湾大卒。米コーネル大で農業経済学博士号。台湾大教授時代に蒋経国元総統の求めに応じて政界入り。台北市長や台湾省長などを経て1984年に副総統。88年に蒋氏死去に伴い総統昇格。自ら導入した総統直接選で当選し2000年まで総統職にあった。一党支配時代の国民党の政治体制や社会構造を内側から変えた「台湾民主化の父」。85歳。台北生まれ。
■人を残す人生こそが上 本来の「愛国心」取り戻せ
第5回「日台文化交流 青少年スカラシップ」(フジサンケイビジネスアイ、産経新聞社主催、台湾行政院新聞局共催)で6日間の台湾研修旅行を贈られた若者17人は、李登輝前総統以外にも多くの日本語世代の台湾人から話を聞いた。なかでも司馬遼太郎氏の著書「台湾紀行」に博覧強記(はくらんきょうき)の“老台北(ラオタイペイ)”として登場する実業家の蔡焜燦(さい・こんさん)氏は、「自分の国を愛せない人が世界を愛することなどできるか」と話し、本来の「愛国心」を取り戻すよう訴えた。番外編として蔡氏の思いを伝える。(河崎真澄)
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台湾の蔡焜燦です。台湾人からみて、いまの日本人は幸福の中にいて幸福を知らないのではないか、と感じる。日本と日本人は好きだが、これは困った問題。「君が代」を歌っただけで、「愛国心」と言っただけで「あいつは右翼だ」と言われかねない時代の雰囲気が戦後続いている。
日本とは異なり、台湾は歴史上、ずっと外来政権に支配され、自分たちの「国」をもてずにいる。いまも中国大陸と(政治的立場の論争で)戦っている(不安定な状態)といっていい。ただ、台湾人には「恨み」の文化がない。われわれ日本時代の教育を受けた世代は、子供のころ日本人として受けた教育が宝だ。
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「三種の神器」を言えますか? 「テレビ、冷蔵庫、洗濯機」じゃありませんよ。
「八咫鏡(やたのかがみ)」「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」「八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)」だ。故郷の台中州、清水(きよみず)公学校(台湾子弟のための小学校)には当時の日本の版図のどこにもなかった校内有線放送設備や16ミリ映画の映写設備があり、「総合教育読本」を使って目と耳で幅広い教育を受けた。いまから70年以上も前のことだ。
神話や歴史物語は(科学的でない部分も含め)古くからの日本人の考え方を今に伝えてくれる。自分の国の歴史を知ることが誇りを生む。堂々と胸を張って、自分は日本人だといえることが大切だ。
現代の日本人にも読んでもらいたいと考えて、私は清水公学校の「総合教育読本」の復刻版を(自費で)作って数多く配布(すでに終了)したが、このところ少しずつ、日本の若者にも歯ごたえが出てきた。日台間の懸け橋になれる人が育ち始めたようだ。
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台湾の戦後教育は中国大陸から渡ってきた蒋介石政権が行った中国人主体のもの。
反日教育を受けた私の息子の場合も、親父(蔡氏)の日本に対する言葉を快く聞いてくれなかった。だが1999年9月21日に起きた台湾中部のマグニチュード7・6の大地震の時、その日のうちに世界で一番乗りに駆けつけて不眠不休で救援活動に当たったのが日本の救援隊だった。その姿をみて息子は初めて「日本人を見直した。親父の言う通りだ」と話してくれた。
蒋介石政権時代の台湾人への恐怖の弾圧で、われわれは中国人の考え方や手の内を思い知らされた。いまチベットで起きている僧侶や住民への弾圧は、戦後の台湾で起きた住民弾圧とそっくりだ。当時の台湾には国際的なメディアもなく、海外の人々にはほとんど知られることがなかっただけ。中国人は歴史を繰り返す。しかも4000年だ。
◇ ◇
中国製冷凍ギョーザ中毒事件が起きたとき、福田康夫首相は「(中国の対応は)非常に前向きだ」と言ったが、私にはとても考えられない一言だった。国を守るために、かくもお人好しでいいのか。結局、中国はすべて相手の責任にしようとしている。中国人に「反省しろ」「謝れ」ということは、彼らにすれば「死ね」と言われるに等しい。
そこを理解した上で、日本人は中国に相対していかねばならない。そこで鍵を握るのは「愛国心」だ。自分の国を愛してこそ、隣の国も愛せるだろう。お人好しだけでは論外だが、恨みや怒りだけでも解決できない。(同じ価値観を共有する)日本と台湾が関係を築き直していく(と解決策も探せる)。福田首相や民主党の小沢一郎氏らに何を求めるか。何も求められまい。若い世代に託す以外にない。
私は戦前、台湾総督府で民政長官を務めた後藤新平の言動を信条としている。すなわち「カネを残す人生は下。事業を残す人生は中。人を残す人生こそが上」だ。一人でも多くの日台の若者に、本当の意味の「愛国心」を取り戻してもらうのが生涯の夢だ。
【プロフィル】蔡焜燦 さい・こんさん
日本統治時代の台湾で台中州立彰化商業高校卒。志願していた岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に1945年1月配属。そこで終戦を迎え翌年台湾に。体育教師を振り出しに航空貨物取り扱い業やウナギの養殖事業などで苦労し、IT(情報技術)ビジネスで成功。産経新聞の吉田信行・台北支局長(当時)の紹介で、93年から翌年にかけて3回にわたって台湾への取材旅行に訪れた司馬遼太郎夫妻の案内役も務めた。81歳。台中州清水(きよみず)生まれ。