平井数馬先生慰霊祭・顕彰会のご案内
台湾近代教育の礎を築いた「六氏先生」のご遺徳を偲ぶ
日本が台湾を統治しはじめた直後、台北郊外の芝山巌学堂において台湾教育に身命を懸けて取り組んでいた6人の教師が匪賊の兇刃に斃れます。芝山巌事件です。当時、台湾を訪れていた総理の伊藤博文はその遺徳を偲び「学務官僚遭難之碑」と揮毫、慰霊祭が執り行われました。
「六士(氏)先生」と尊称された彼らの教育に懸けた熱情は「芝山巌精神」と讃えられ、昭和5(1930)年には芝山巌神社も建立され、台湾教育の聖地となります。
現在、芝山巌は公園整備が進み、一時期は横倒しになっていた伊藤揮毫の「学務官僚遭難之碑」も再建され、芝山巌学堂の後身に当たる士林国民小学を卒業した有志によって1995年に建立された「六氏先生之墓」もあります。
日本でも、平井数馬命の出身地の熊本では熊本芝山巌会が顕彰碑を建立して「英魂祭」を執り行っていましたし、最近では関口長太郎命の出身地である愛知県西尾市で「関口長太郎先生慰霊顕彰祭」が行われていて、今年で4回目となります。
このたび、熊本に平井数馬先生顕彰会(白濱裕代表)が設立され、来る2月1日、「平井数馬先生慰霊祭・顕彰会」を執り行うこととなりました。本会の熊本県支部(廣瀬勝支部長)も協賛しています。下記にご案内しますので、お近くの方はふるってご参加ください。
台湾の近代教育の始まりは、明治28年(1895年)日清戦争に勝利し、我が国による台湾統治が始まった時です。文部省学務部長心得の伊沢修二(東京音楽学校初代校長、「小学唱歌集」編纂者)は、初代台湾総督の樺山資紀に対して、統治政策のなかでも教育を最優先すべしと具申し、日本全国から6人の優秀な志ある人材を募集し台湾に渡りました。そして、台北北郊の士林に「芝山巌学堂」という最初の学校を開き、台湾人子弟と寝食を共にし、心魂を込めて教育に当たります。
ところが、翌明治29年元旦、6人の教師と一人の用務員が台湾総督府における新年の拝賀式に出席するため、芝山巌を下山しようとしたとき、約百人の「土匪」(抗日ゲリラ)に取り囲まれます。この頃の台湾は、内地人を敵視する匪賊が盤踞し、周辺住民は教師たちに再三退避を勧めましたが、「もとより教育とは命がけのもの」として芝山巌学堂を離れませんでした。6人は教育者として諄々と道理を説きますが、ついに匪徒は槍を持って襲いかかり、全員惨殺されてしまいます。
その6人の教師の名は、楫取道明(山口県 38歳)、関口長太郎(愛知県 37歳)、桂金太郎(東京府 27歳)、中島長吉(群馬県 25歳)、井原順之助(山口県 23歳)、平井数馬(熊本県 17歳)であり、後に「六氏(士)先生」と尊称されました。
ちなみに、リーダー格の楫取道明の父、楫取素彦は吉田松陰が最も信頼した弟子の一人で、初代群馬県令をつとめました。母、寿は吉田松陰の妹に当たり、いずれも、平成27年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」に登場する人物です。明治維新の胎動をもたらした「松下村塾」の精神は、芝山巌学堂における、楫取道明を始めとする六氏先生の身命を賭した教育に継承されたと言っても過言ではありません。
さて、台湾近代教育の礎を築いた「六氏先生」の一人、若干17歳で非命に斃れたわが熊本県出身の平井数馬先生は、中学済々黌に学び、語学や柔道・剣道等文武に秀でた俊才で、「日台会話集」等語学書の編集に携わった人物です。土匪に襲われた際も、土匪を組み伏せ敢闘奮戦したという逸話が残っています。
このように、「六氏先生」の芝山巌学堂における教育は1年にも満たないものでしたが、悲報が内地に伝わるや、その遺志(「芝山巌精神」)を継承すべく、全国各地から陸続として有志の教師達が渡台し、台湾全土で献身的に子弟の教育に従事しました。本県からも、平井数馬先生に続けとばかり、延べ2000名を越える多くの教師が渡台し、大正期後半には、台湾における公学校、小学校教員のほぼ一割を本県出身者が占めていたと言われます(元熊本県立大学 弘谷多喜夫教授)。
戦後、本県においては、台湾で教育に従事した教師達によって作られた「熊本芝山巌会」によって、熊本市立田山麓の小峯墓地にある平井家墓地に顕彰碑(裏面参照)が建てられ、戦前2月1日に、台湾芝山巌神社で斎行されていた祭典にちなんで、近年まで平井数馬先生を慰霊顕彰する「英魂祭」が挙行されてきました。また、平成21年には、台湾の李登輝元総統が墓参を果たされ、その偉功を讃えられました。
つきましては、この度新たに、平井数馬先生を敬仰してその御霊をお慰めし、国家百年の計たる教育の再生に向けて、「芝山巌精神」に学ぶべく、左記により慰霊と顕彰の集いを行いますので、ご参加頂きますよう御案内申し上げます。
平井数馬先生顕彰会 代表 白濱 裕
記
◆日 時:平成27年2月1日(日) 午前10時~午後1時
慰霊祭 10時~
熊本市営小峯墓地 平井数馬先生の碑前
熊本市中央区黒髪4-10-49
顕彰会 11時~
熊本大学「くすの木会館」(同窓会館)
熊本市中央区黒髪2-39-1 ※小峯墓地より徒歩約7分
・講話 平井幸治氏(ご遺族)
・講演 戎義俊氏・台北駐福岡経済文化弁事処長(総領事)交渉中
◆食事会:12時~午後1時(食事代:1,000円)
◆参加費:1,000円(玉串代)
◆主 催:平井数馬先生顕彰会
◆連絡先:平井数馬先生顕彰会(白濱裕)
熊本市北区清水岩倉2-12-11
TEL:080-5261-3294
墓 誌(小峯墓地墓所碑文)
平井数馬先生は台湾教育のために殉ぜられたる先覚者なり。先生は熊本市外松橋町に生まれ幼児より神童の名高く、熊本高等小学校より済々黌に進み、常に成績抜群、中国語を九州学院に学び、剣道を星野道場に励み、早くより海外雄飛の大志あり。明治二十八年八月台湾総督府通訳官に任ぜらる。
学務部長伊沢修二先生の下、楫取道明・関口長太郎・桂金太郎・中島長吉・井原順之介の五士と共に芝山巌の学堂に於いて藁を敷いて起居、寝食を忘れて専心島民の教育に精励され、特に「日台会話」の本の如きは、先生の苦心研究の結晶にして台湾に於ける国語教育の根源たり。
然るに当時の台湾は施政日尚浅く、物情騒然たるもの有り。二十九年一月元旦、六士が年賀のため総督府に赴かんとして山を下るや、蜂起したる一部土民の襲撃を受け一同無念の最期を遂げらる。然りと雖も六士先生の偉大なる教育精神は芝山巌精神として後進に継承され台湾教育の指針となる。
六士先生逝きて七十五年、此の秋にあたり我等は殉国の士平井数馬先生の遺徳を称え、その英魂を慰めんとして茲に其の碑を建つ。在天の霊、降りて我等の微衷を亨けられんことを。
熊本芝山巌会