20150914またもや台湾メディアが李登輝総統の発言の一部分だけを切り取った偏向報道を行っている。

李登輝総統は9月13日午後、ヒマワリ学生運動に参加した学生を中心に結成された団体「民主鬥陣(Democracy Tautin)」の招待を受け、台北教師会館で講演を行った。

「台湾の主体性を確立する道」と題した講演で、李登輝総統は「日本もまた外来政権」、「実際のところ、私も日本の奴隷だった」などと述べたことを受け、新聞各紙やネットニュースはこの発言を見出しとしてセンセーショナルに報じている。

また、PHP『Voice』9月号に掲載されたインタビュー記事で李総統が「私たち兄弟は祖国日本のために戦った」などと発言したことへの批判が相次いでいることを受けて「李登輝が路線変更」と報じるメディアもあった。

しかし、この見出しに使われた発言の前後の部分がほとんど報じられておらず、李登輝総統の真意が曲解されているため、本会は講演原稿と講演の映像を入手し、該当部分の前後を下記の通りご紹介することとした(下線部分は原稿上にはない発言)。

「私は台湾に生まれ、台湾で育ち、台湾のために尽くしてきました。そんな私にとって、故郷台湾への想いは尽きることはありません。

同時に、台湾の人々がこれまで長期にわたり外来政権によって抑圧されてきた悲哀を思うと憤慨せずにはいられないのです。

日本もまた外来政権です。李登輝は日本人だなどと批判されていますが、実際のところ、私も日本の奴隷だったのです。とても悲しいことです。

だからこそ、私はかつて日本の作家に『台湾人に生まれた悲哀』と言ったのです。

私はこれまで、台湾がいつの日か主体性を確立させ、台湾の人々の尊厳が高まることだけを望んできました。

後に、私は政治の世界へ入り、最終的には総統を12年務めるという偶然のチャンスを得ることになりましたが、そこで私は台湾のために全力で働こうと決心したのです。

そして、台湾を外来政権の統治から解き放って自由な国へ、そして台湾人として生まれた悲哀を、台湾人として生まれた幸福へ、これこそ私が人生をかけて力を注いできた目標なのです。」

この原稿からも分かる通り、李登輝総統の「私も日本の奴隷だった」という発言は、決して「奴隷」という字義そのままの意味ではなく、「日本統治時代を含め、外来政権下にあった台湾では、台湾人としての主体性を確立することが出来なかった」という意味で「奴隷」という言葉になぞらえて発言したに過ぎない。

実際、李登輝総統ご自身による日本時代の教育の素晴らしさや、日本人の社会貢献を賞賛した発言は枚挙にいとまがない。

今年7月に発売された月刊文藝春秋8月号誌上でも「少年時代から高校時代の私は、古今東西の先人による書物や言葉にふんだんに接する機会を得ることが出来ましたが、これはまさに当時の、教養を重視する日本の教育による賜物と今でも感謝しています」と発言しているほか、PHP『新・台湾の主張』やウェッジ『李登輝より日本へ 贈る言葉』などの著書には、日本統治時代の教育への感謝や、これからの日本への期待がふんだんに盛り込まれていることからも分かるだろう。

ただ、会員諸氏にはご承知の通り、こうした日本統治時代における日本の貢献への賛美が取り上げられることが多い一方で、台湾人に対しての賃金格差、職業選択の制限、参政権の制限など数多くの厳然たる差別があったことも事実だということを忘れてはならない。

李登輝総統の発言は、こうした歴史の光と影の部分にそれぞれ言及したまでであり、これらの発言がお互い矛盾するものではない。

台湾のメディアは、前後の文脈やこれまでの発言を一切考慮せず、センセーショナルな発言の部分だけを切り取って報道する傾向が強い。

国民党寄りのメディアが多いこと、若手記者の不勉強、歴史教育、センセーショナルな記事を好む国民性などの原因が挙げられるが、台湾のニュースサイトには、中央社(通信社)のように、中国語の記事を日本語に翻訳しただけで、解説記事も入れずにそのまま日本語サイトに掲載しているものもあるため注意が必要だ。


本会では、曲解された報道によって日本でも李登輝総統の発言に対する誤解が広まることを懸念し、特に、外来政権による統治に言及した箇所を講演原稿からご参考までに下記に掲載します。

二、外来政権統治下の「新しい時代の台湾人」

1945年、台湾を統治していた外来政権たる日本は、大東亜戦争に敗れ、台湾を放棄させられました。台湾は米英をはじめとする連合国によって中国国民党の軍事占領下に置かれることになり、新しい外来政権「中華民国」による統治を受けることになったのです。

この時期、台湾社会を取り巻いていた「天皇」や「天下は国家のために」を強調する「大日本帝国」という環境が、中国国民党による「天下は党のために」を標榜する中華民国へと取って代わられることになります。この二つの外来政権の交替が台湾で行われたのです。

日本による50年間の統治によって高度に現代化されていた台湾が、文明水準の劣る新政権によって統治されたことで、台湾人にとっては当然のごとく政治や社会への変化や影響をもたらしました。起こるべくして起きた228事件の原因は、二つの異なる文明の衝突によるものです。

台湾は数百年来、ずっと外来政権による統治を受けてきました。1996年、台湾が初めて有権者の直接投票によって総統を選挙することで、やっと正式に外来政権の統治を脱することが出来たのです。

日本統治時代、学生が学校で台湾語を話すと、罰として運動場に正座させられました。戦後、新しい外来政権たる中華民国の統治が始まっても同様に罰を受けさせられました。こうしたところに私は「台湾人の悲哀」というものを深く感じずにはいられません。

台湾人は努力して自分の道を歩むことが出来ず、自分たちの運命を切り開くことが叶わなかったのです。そうした状況は日本統治時代と同様、戦後の国民党政権の時代になって変わることはありませんでした。

こうした状況下、台湾人のあいだには「新しい時代の台湾人とはなにか」という深刻な問題が生まれてきました。ここで強調しておきたいのは、戦後のこの時期、外来政権たる中華民国は台湾人を「同胞」として「台湾は祖国に復帰した」と称えるその一方で、奴隷たる存在に貶めて来ました。台湾人はまたもや外来政権の奴隷という苦境に置かれたのです。

台湾人は、それまでの外来政権の統治による異民族の奴隷という耐え難い状況にあったということです。たとえば、日本の統治下、台湾人は学術的に言う「境界人(marginal man)」という位置づけにありました。

戦後、228事件の発生によって、台湾人は徹底的に自分たちを省みるようになり、それと同時に自分たちが外来政権の人格的主体性を成すものではないといった考えが形成されていったのです。外来政権の奴隷たる存在を脱してはじめて、尊厳ある独立した「新しい時代の台湾人」たりうるのです。

こうしたことからも分かる通り、皮肉にも台湾人が自らの強固なアイデンティティを確立することができたのは、外来政権の統治下にあったからであり、外来政権が台湾人の「独立した〈台湾人〉」という意識をかき立てたからと言えましょう。(後略)