20151204-01李登輝総統は、PHPの『Voice』2014年6月号に特別寄稿した「日台の絆は永遠に」の冒頭で次のように書いている。

映画『KANO』のこと
3時間5分の上映時間のあと、私は泣いていた。隣には長年連れ添った妻がいた。映画『KANO』のことである(2015年・日本公開予定)。KANOこと嘉農は正式名称を嘉義農林学校といい、1931年、台湾代表として甲子園に初出場、準優勝を果たす。映画はこの史実を基にしている。当初は弱小だったチームを生まれ変わらせたのが近藤平太郎監督である。映画では日本の俳優、永瀬正敏さんが演じていた。日本人、本島人(台湾人)、そして原住民からなるチームを一つにまとめ上げた近藤監督は、指導者として立派な人物であると思う。(後略)

李登輝総統ご夫妻は、日本と台湾のかくも緊密な関係を語る際に映画をよく例に挙げる。いずれも魏徳聖氏が手がけた「海角七号」や「KANO」だ。

ただ、最近はこれもまた夫人と一緒に見に出かけた「湾生回家」(プロデューサー:田中實加)にもよく言及されるという。「湾生」とは、あまり聞き慣れない言葉だが、日本統治下の台湾で生まれ、敗戦後、強制的に日本内地へ帰国させられた日本人のことを指す。

この湾生の人たちの、台湾への里帰りの模様を追いかけたドキュメンタリー映画が、現在台湾で公開され、大ヒットとなった「湾生回家」だ。

なぜ、台湾で生まれ育った日本人の里帰りを追いかけたドキュメンタリーがかくも台湾でヒットしたのか。その秘密は台湾の若者たちにあるという。

元朝日新聞台北支局長で、『ラスト・バタリオン』、『ふたつの故宮博物院』をはじめ『認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾』などの著書で知られる野嶋剛氏が「湾生回家」ヒットの裏側を東洋経済オンラインに掲載している。下記に紹介したい。


今なぜ台湾で「懐日映画」が大ヒットするのか
戦後70年、無視されてきた「人間の歴史」

野嶋剛:ジャーナリスト
2015年12月2日

20151204-02台湾で今年最も話題を集めた映画の一つが、終戦後に台湾から日本に引き揚げた人々を追ったドキュメンタリー映画「湾生回家」である。

「湾生(わんせい)」とは、戦前、台湾で生まれ育った日本人のことを指す。映画の日本語タイトルは「故郷-湾生帰郷物語」。ドキュメンタリーとしては、興行収入1億円を超える台湾で異例のヒットとなり、来年には日本でも公開される予定だ。

この映画は、「回家」という言葉が示すように、湾生たちは日本に帰った後も、忘れようとしても忘れられなかった「台湾=故郷」に、戦後70年を経て、深い感慨とともに戻っていく物語を描く。映画のなかでは、高齢に達した湾生たちが、それぞれの「故郷」で懐かしい人々や景色と再び出会い、台湾への愛惜や戦後の人生を語り尽くすところが見どころだ。

「懐日ブーム」を担うのは20代、30代
なぜ、湾生たちを取り上げた映画が台湾でヒットしたのか。それは、近年台湾で広がる「懐日(日本を懐かしむ)」ブームと深く関係している。

台湾には、 1895年から 1945年にかけての日本統治時代の多くの建築物や産業遺跡が残っているが、これらの保存・再活用を通して、「日式」を台湾に残そうという取り組みが各地で活発化しているのだ。

昨年は日本でも公開された、戦前の日本統治下の台湾から高校野球・嘉義農林チームが日本本土の甲子園に出場し、準優勝する活躍を描いた映画「 KANO」も大ヒットした。台湾には、戦前に日本語教育を受けた人々もいるが、いまの「懐日」ブームを担うのは20代、30代の若者だという点が特に興味深いポイントだ。

私は映画「湾生回家」を台北市内の映画館で見たのだが、観客の年齢層が意外に若いことに驚かされた。隣に座った20代の女性は、映画の最初から最後まで、涙をハンカチで拭い続けていた。

「湾生回家」は一カ月以上も上映が続くという、台湾では珍しいロングランとなり、私が見に行った日も平日の午後というのにほぼ満席。11月21日に受賞発表式があった台湾アカデミー賞「金馬奨」でも最優秀ドキュメンタリー作品にノミネートされた。映画と同じタイトルの書籍も5万冊を売り上げ、「湾生」はにわかに台湾で注目される存在になった。

ドキュメンタリー作品は、実は台湾では根強いマーケットを持っており、しばしばドキュメンタリーがロードショーの映画館で上映され、「湾生回家」のように億超えのヒットとなることもある。台湾の人々が社会問題に対する高い関心を持っている背景もあり、また、優秀な人材がドキュメンタリー界にひしめいていることも関係しているようだ。

こういった環境が「ドキュメンタリーは単館上映」と相場が決まっている日本といささか違うのは確かだが、いずれにせよ、「湾生回家」は娯楽性とメッセージ性を兼ね備えた優れた作品だと高く評価されている。

戦後70年の節目に、新たに発掘された価値
湾生とは、どういう人々なのだろうか。

敗戦によって日本は台湾の領有権を放棄し、中華民国政府は日本人(当時台湾では内地人と呼ばれた)を全員、日本に帰す方針をとった。1949年までに日本人の帰還事業は完了。当時、台湾から引き揚げた日本人は軍民あわせて50万人と言われる。台湾生まれではなくても、台湾で長期にわたって少年期や青年期を過ごした人々も湾生である。

「湾生回家」の作品の価値は、激動の歴史を歩んだ台湾の近代史のなかで、「台湾から日本に戻ったあとも、台湾を忘れず生きてきた」という湾生の物語を、戦後70年という節目に新たに発掘したところにあるだろう。

台湾社会のなかで、1945年以降に台湾を去った日本人たちが、これほど台湾を深く懐かしみ、思い続けたことは、これまでほとんど語られなかった話だった。そればかりでなく、むしろ日本人は「台湾を捨てた」と広く受け止められてきた。

李登輝との対談で知られる司馬遼太郎著「台湾紀行」では、司馬遼太郎が、台湾である老婦人から「日本は台湾を二度捨てた」と詰め寄られ、答えに窮したところが描かれている。私自身、台湾で暮らしている間に、何度か高齢の方々にそう言われ、心のなかに罪悪感が残った記憶がある。

二度捨てた、というのは、1945年と、1972年のことだ。前者は日本の敗戦による台湾の放棄、後者は日華断交である。前者も後者も、日本にとっては、かなりの部分、自力ではどうしようもないものだった。

前者については降伏の条件として台湾放棄を約束させられた。後者もまた、日本の国益のため、世界の潮流に乗り遅れないよう、やむを得ない判断だったと、いまからすれば言うこともできるだろう。しかし、台湾にとってみれば「捨てる」という言葉で言いたくなる気持ちも理解できる。

歴史のなかで忘却された、湾生たちの「人間の歴史」
終戦当時、台湾にいた日本人のなかにもいろいろな考え方があっただろうが、「台湾を離れたくない」という気持ちでありながら、国家が定めた運命によって無理矢理台湾から引き離された人々がいたことは、この作品を見れば十分に伝わってくる。

こうした人間レベルの関係は、戦後の日台関係のなかで政治的に隠されてきた部分がある。台湾では国民党の「中国化教育」によって日本への思いは「皇民意識」として克服すべき対象となった。日本でも、台湾統治という植民地領有行為そのものが批判の対象となった。

その結果、国家の領有や放棄というレベルとは本来別次元であるべき湾生たちの「人間の歴史」までが忘却され、軽視されてきたのである。

しかし、台湾では近年、「中国は中国、台湾は台湾」という認識が完全に定着し、その分、台湾へ向ける人々の郷土愛が盛んに強調されるようになっている。「愛台湾(台湾を愛する)」というスローガンは、もはや独立志向が強い民進党支持者だけでなく、国民党の候補者も語らなければ選挙に勝てない状態だ。その意味では、この湾生回家のヒットは「日本人も愛した台湾」という点が、より台湾の人々の涙腺を刺激するのだろう。

記憶は環境によって育てられる面はある。台湾における日本時代への懐かしみは、国民党の苛烈な統治や弾圧が強化したものであろう。

日本での湾生たちの台湾思慕も、敗戦によって焦土となった日本は当時の台湾に比べてはるかに暮らしにくかったことや、日本で引揚者が受けた差別的視線なども関係しているはずだ。戦前の台湾の経済水準は、日本の地方都市を大きくしのぎ、給料面でも東京に遜色ない金額を得ることができた。日本に戻った「湾生」たちが台湾での生活をより一層懐かしんだことは疑いようがない。

だが、やはり重要な問題は、人間にとってのアイデンティティは、必ずしも教育やイデオロギーだけで決まるものではなく、個々人が抱いている実体験によってしか本当の意味で形成されないということだと思う。

他人に語れない「台湾の私」を抱えて生活してきた
映画のなかの印象深いセリフに「(湾生たちが育った台湾東部の)花蓮のあの自然、景色をそのまま日本に持って帰りたい」という言葉がある。彼らには、そんな気持ちにさせられる景色は花蓮以外に存在しないだろう。そこに経済的豊かさがあろうがなかろうが、国籍が日本であろうが中華民国であろうが、それはひとりの人間にとって絶対的な体験なのである。

映画で湾生たちは、口々に「私の故郷は台湾」と語っていた。そして、戦後の日本でずっと他人に語れない「台湾の私」を抱え込んで生活してきた。その感覚を映画の主人公のひとりである老婦人は「自分がいつも異邦人のような気持ちだった」と明かしている。

「湾生回家」は、そうした湾生たちの思いを、いまを生きる台湾の人々に「懐日」というトレンドのなかで、より深く理解させ、共感を得られたからこそ、ここまでの大ヒットになったに違いない。