桃園市大渓区の中正公園内に、台湾で唯一面影を残す日本時代の相撲場がある。
中正公園の前身は日本時代の大渓公園。1912年(明治45年)に旧地名を冠した「大嵙崁公園」の名称で竣工し、敷地内には大渓神社のほか、忠魂堂や公会堂などがあった。その後、1920年(大正9年)に「大渓公園」と改称されている。
相撲場があるのは大渓神社に隣接する一角。中央に土を盛って土俵を作り、四方に観客席が配置されるとともに周囲には日陰を作る樹木が植えられた絶好の相撲場であった。ここで地元の公学校の児童らが相撲をとっており、大会が開かれると、街をあげての盛り上がりとなったという。
戦後、大渓公園は中正公園と名称を変え、相撲場は潰されて円形の池となり、大渓神社の本殿は撤去されて東屋が置かれた。その後、2006年に池が埋め立てられ、野外演劇場へと生まれ変わったが、円形の舞台と観客席がもともとの土俵の面影を残している。
日本時代は、台湾全土の学校や公園にあった相撲場や土俵だが、戦後は日本文化を象徴するものとして撤去され、現在ではその面影さえほとんど残されておらず、大渓公園の相撲場は台湾で唯一、相撲場の構造が残された場所といえる。中華民国相撲協会や桃園市観光旅行局は今後、積極的に相撲場を復元していく予定だという。
大渓区はもともとの桃園県大渓鎮。昨年12月、桃園県が直轄市に昇格したことを受け、現在は桃園市大渓区となっている。報道によれば、鄭文燦市長(民進党)も「台湾で唯一残された相撲場。復元されれば、大渓の観光資産として大きな意義を持つだろう」と話している。
桃園市には、台湾に残された日本時代の神社のなかで最も原型を留めているとされる桃園神社をはじめ、大渓の武徳殿など、戦後もほぼ形を変えずに使われたことで、当時の面影を今に伝える建築物がとりわけ多く残されている。
本会台北事務所では今後も引き続き、こうした日本時代の名残を伝える建築物などについてお伝えしていく予定だ。
【台湾での報道を本会台北事務所でまとめたものです。
また、日本時代のものを除き、画像はすべて本会台北事務所で撮影したものです】