20151229昭和20年から戦後70年を迎えた今年、節目の年ということで安倍晋三総理の談話発表をはじめとして、新聞やテレビも特集や連載を組んで報道した。

産経新聞も「戦後70年」をテーマに、特攻、大空襲、玉音放送から首相談話まで様々な記事を掲載。12月28日には蔡焜燦氏が代表をつとめる「台湾歌壇」を取り上げ、日本語世代同人(会員)の日本への思いを中心に伝えている。

本会会員にも「台湾歌壇」の同人は少なくない。本年7月には、李登輝学校研修団で蔡焜燦先生のご講義を拝聴して感銘を受けた仲間を中心に「和歌の会」(坂口隆裕代表)を設立、「台湾歌壇」と同じ進め方で月1回の歌会を開いている。

9月歌会には、この産経新聞記事で取り上げている「台湾歌壇」顧問の北島徹氏が所用で帰国した際に参加し、歌の指導を受けている。また11月には、坂口代表ら有志が22日に開かれた「台湾歌壇」に参加するなど、活発に活動している。


【戦後70年】韓国とは真逆、台湾人“日本愛”の理由 

「早く日本人に戻りたい」と本気で願う台湾歌壇会員の熱い思い

【産経新聞:2015年12月28日】

われわれは日本人であることを“中断”させられているだけ・・・。日本へのそんな強い愛着をもつ人たちの集まりが台湾にある。「台湾歌壇」。本省人と呼ばれる、もともと台湾に住んでいた人々を中心に構成される和歌の同好会だ。月1回、歌会のために、というよりは「日本語で思う存分話す」ために台北などに集まる会員らは「自分たちの『戦後』はまだ終わっていない」「日本時代に戻りたいと思うぐらいだ」…と“望郷”の念を歌に詠んでいる。

70年たってもまだ終わらぬ「戦後」

モンペ脱ぎ/目玉焼き出る/十五日/玉音聞きて/七十年も

龍眼(南国のフルーツ)を/食めば八月の/十五日/玉音聞きて/籍替れる日

この2首は、70年前の終戦の日(1945年8月15日)を思って、2人の会員が詠んだ歌だ。

ある日突然終戦を迎え、野生の果物しか口にしかできなかった飢餓生活から解放された喜び。そして、一夜にして敗戦国から戦勝国国民となり、同時に「日本人」から「中国人」(中華民国)となったことへの戸惑い…。当時の複雑な心中が綴られている。

台湾・開南大学で日本語を教えながら、「万葉集」の研究者であるという専門性を生かして台湾歌壇の顧問も務めている日本人、北島徹さんは「大人たちは敗戦の悲しみに暮れたでしょうが、子供たちにとっては、モンペを脱いだ解放感、目玉焼きを食べられる喜びを感じられた日だったわけです」と評する。

しかし、こうしたことがうれしかったのか、悲しかったのかということについては、この2首は余韻を残している。

「その後、台湾で起きたことを考えると、台湾歌壇の会員に限らず、台湾の方たちが喜ばしい『戦後』を迎えたわけではなかったんじゃないか、と感じます」

外省人による恐怖政治“白色テロ” 重い李登輝氏の言葉

台湾歌壇は台北歌壇として1967年に創設。会員は台湾の人口の8割以上を占める本省人が中心で現在130人。会の代表は、作家、司馬遼太郎さんの「街道をゆく 台湾紀行」で案内役を務めた実業家、蔡焜燦さん。現在は、顧問の北島さんと事務局長の女性の2人が会を支えている。

「実は、台湾の歴史のことはあまりよく知らず、当初は、なぜ台湾の人たちがこんなにも日本時代のことをよく思ってくれるのか、わからなかったんです」と北島さんは振り返る。

その理由を知ったのは、李登輝元総統と初めて会ったときに聞いた、こんな言葉からだった。

〈私が総統になったとき、まっさきに考えたことは、この国を枕を高くして眠れる国にしたい、ということだ〉

李登輝氏の話では、それ以前の台湾では、夜中にドアをたたかれたら「出てはいけない」「すぐに裏口から逃げろ」と言われていた。さもないと、当局に捕らえられて、もう二度と帰ってこられないかもしれないからだという。

「いつドアをたたかれるかわからず、いつも聞き耳を立てているから、台湾の人たちは安眠できなかったそうです」

周知の通り、1945年の終戦後、中国は毛沢東率いる中国共産党と蒋介石率いる国民党による内戦に突入、49年、戦いに敗れた国民党側は台湾に政府を移転し、多くの中国人(いわゆる「外省人」)も移住した。それ以前の47年、本省人と外省人の大規模な抗争が起き、国民党政府はこれを武力で鎮圧。以降、戒厳令が敷かれ、“白色テロ”と呼ばれる恐怖政治によって、多くの本省人が投獄、処刑され、言論の自由も制限された。この“暗黒の時代”に終止符を打ち、「民主化」を実現したのが李登輝氏だった。

「年配の台湾人の多くの方が、日本統治時代の方がよかった、と懐かしんでくれるのは、こういう歴史もあるからなんですね」と北島さん。

「日本人であることを中断させられているだけ」

もちろん、恐怖政治時代と日本統治時代の比較による“消極的日本シンパ”ばかりでなく、「日本統治時代は本当によかった」と心から思う“積極的日本シンパ”も「潜在的にかなりいると思われます」と北島さん。その最たる例が、台湾歌壇に集う人々なのだ。

ある女性会員(88)は「戦後、父が国民党当局に捕らえられ、財産もすべて没収された上、投獄されました。10年間、出してもらえず、ひどい拷問を受けました。そんなこともあって、長い間、日本語を話すことも書くこともできませんでしたが、今は自由に歌を詠めます。誇らしくてしかたありません」と話す。

さらに、「私たち日本語で教育を受けた世代の心の中には、人として正直に生きるという日本の教育が浸透しています。私たちは日本のいいものをたくさん身につけて育ちました。それを子供や孫たちにも言っています。だから台湾の人は若い人でも日本が好きなんです」とも。

この女性によると、台湾には「あいつは日本精神だから安心しろ」という言い回しがあるという。これは台湾人同士での「あいつは信頼できる」という意味の褒め言葉で、「同じ台湾人でも、日本精神を持っているのと持っていないのとでは、信頼性に大きな違いがある」という。

また、ある男性会員(90)は「私は日本人として生まれ、日本人として育った。今でも母国は日本だと思っている」とした上で、こう話す。

「今は、日本人であることを無理やり中断させられているだけ。まだ私の“戦後”は終わっていません」

さらに別の男性会員(87)も「私のように、いつか日本時代に戻れる日が来ると信じている人は多い。たとえ自分たちがその日を迎えられなくても、子や孫たちがその心を引き継いでくれるだろう」と日本への思いを語った。

若い世代にも広がる「日本愛」

月1回開かれる台湾歌壇の会合は毎回盛況。高齢者の会員は亡くなるなどして年々減っていってはいるが、会員総数は10年前の約80人を底に逆に増えているという。戦後生まれの若い世代や台湾を愛する日本人の入会が相次いでいるためで、父母、祖父母から日本統治時代の話を聞いて育った戦後世代が日本文化に興味を持って入会してくるケースが多いようだ。

22歳の男性会員は「子供のころ、父が歌っていた歌のメロディーが好きで、調べたら日本の演歌だったことがわかり、以来、日本語や短歌の勉強をするようになりました。短歌や演歌に使われている日本語の古い言葉や表現が好きです」と話す。

46歳の女性会員は「戦後の国民党教育のせいで、日本語世代と戦後世代の私たちは分断されました。この会で歌を通して、先輩方と思いがつながった気がします。戦後の台湾に対する悔しさと、建国独立の願いと、日本を愛する気持ちが強くなりました」。

変わっているのは、山岳地帯に住む33歳の男性会員で、先住民族ブヌン族である自身のアイデンティティーを確認するために会に入ったという。「そもそもは私は、日本語しか話さない祖母の話を聞くために日本語を習い始めました。私の住むところには、今でも普通に日本語で日常会話をする人が多いのです。早くしないと間に合わないので・・・」

会合のたびに会員らの日本への熱い思いに触れている北島さんは言う。

「同じように日本から統治を受けた韓国は今や“反日”一色ですが、台湾は違います。確かに、日本のことをよく言えない時代はありましたが、自由にものを言えるようになってから、どんどん親日になっています。戦前世代と戦後世代が交わるこの会の持つ意味は、台湾にとってだけではなく、日本にとっても重要だと思っています」

北島徹(きたじま・とおる) 昭和26(1951)年6月16日、兵庫県西宮市に生まれる。平成15年2月、台湾・開南大学に客員教授として赴任。現在に至る。17年から台湾歌壇顧問を務めている。