昨年11月上旬に行われた第24回・日本李登輝学校台湾研修団では、野外研修で2度目となる金門島訪問を実施した。かつては国共内戦の最前線として「戦争の島」だった金門も、現在では両岸関係の安定などにより、観光の島へと変貌しつつあり、その実態をこの目で確かめようという主旨からだった。
3月4日付の台湾紙・中国時報に「李登輝、政界入りのきっかけは金門にあった」と題する記事が掲載された。もともと学者で、政治とは何ら関わりがなかった李総統が政治の世界に足を踏み入れるきっかけとなる出来事が金門にあったというのだ。興味深い記事なので翻訳して下記にご紹介したい。
「李登輝、政界入りのきっかけは金門にあった」
【3月4日付・中国時報】
李登輝がなぜ政治の世界に入ったのか、疑問に思った人もいることだろう。
李登輝は京都帝国大学で農業経済を学び、後に米国留学でその研究を深め博士号を取得した。農業経済は本来、政治とは関係のないものだ。しかし、金門島での出来事が彼の一生を変えることになる。
1958年、金門島で砲戦が始まり、蒋経国は父である蒋介石の命により、台湾本島から金門へ9度にわたって視察に出掛けた。砲戦が一段落すると、両岸は「奇数の日は台湾側が砲撃して、偶数の日は大陸側が砲撃する」ことが暗黙のルールとなり、戦闘は形骸化していった。この頃にも、蒋経国は蒋介石に同行してたびたび金門を訪れている。
視察の途中、蒋介石は金門島の黄砂の問題が深刻なことを知る。屋外で炊飯、食事をする駐留兵士たちにとって黄砂は大きな悩みとなっていたのだった。そこで蒋介石と蒋経国は、駐留兵士たちの生活の改善と、戦闘時に身を隠す場所になることを兼ねて、金門防衛司令部に対し、植樹による緑化を命じた。
しかし、植樹を始めてみても、金門島は砂地が多いためにほとんどが枯れてしまいうまく根付かない。サボテンや果樹などで試してみたものの、サボテンは緑化の効果が限られ、果樹は後にハエなどの害虫を大量発生させる結果となり、ともに失敗に終わる。
そこで、現地の軍司令部は植樹専門家を招いて植樹や造林を強化しようという考えにいたった。これを知った蒋経国は、王昇(40年以上にわたって蒋経国に仕えた腹心)に対し、農林関係の専門家と連絡を取り、金門の植樹問題を解決するよう命じた。
そこで白羽の矢が立ったのが、米国帰りで農業経済博士の李登輝だった。金門島の現場を視察した李登輝は、金門防衛司令部の蒋仲苓司令に対し、金門の地質にはタイワンキリとモクマオウ(木麻黄)の木が適していると提案。蒋司令は即座にその意見を採用し、数年後、砂地だった金門は緑が生い茂る景観に変わっていった。
1971年、当時行政院副院長だった蒋経国は、次期行政院長として組閣を命じられる。蒋経国は組閣するにあたり、本省人を入閣させることを考えた。そこで、前述の王昇に適当な人物がいないか尋ねたところ、王昇はしばし黙考した後、数年前に金門の植樹事業のために派遣した人物を思い浮かべた。温厚で慎ましく、礼儀正しいうえに米国で博士号を取得している。そして王昇は蒋経国に李登輝を推薦したのだ。
結果、蒋経国は王昇の進言を聞き入れ、李登輝の名前を入閣名簿に載せる。政務委員、李登輝の誕生であった。ただ、当時の規定では閣僚は国民党員の身分を有していることが「望ましい」とされていたものの、李登輝は未加入であった。そこで蒋経国は李登輝のために入党手続きの労をとってやったという。
翌年、蒋介石によって蒋経国が行政院長に指名されると、蒋経国は即座に新閣僚名簿を公表した。当時の関係者たちは、名簿にある李登輝という聞き慣れない名前に、どんな人物かとささやきあったという。こうして蒋経国の目にとまった李登輝は、政治の世界における第一歩を踏み出したのである。
【本会台北事務所で翻訳したものです】