台湾の日本統治時代を語る上で、インフラ整備もさることながら、教育に関してもはずせない。とりわけ大きな意義を持つ。それは、就学率に端的に現れている。

日本が統治をはじめて4年後の明治32年(1899年)の就学率は2.04%に過ぎなかった。しかし統治50年目を翌年に控えた昭和19年(1944年)の入学児童就学率は92.5%にも及んでいる。

学校の設立にも注目したい。李登輝元総統も学んだ台北高等学校が海外初の高等学校として設立されたのは大正11年(1922年)だった。昭和3年(1928年)には、大正13年の京城帝大に続き台北帝国大学が設立されている。これは、昭和6年(1931年)の大阪帝大や昭和14年(1939年)の名古屋帝大に先行して設立されている。

日本が台湾人子弟の教育に力を入れたのは、初代学務部長をつとめた伊沢修二(いさわ・しゅうじ)の教化方針による。伊沢は文部省入省後、アメリカに留学して音楽教育などを学び、ハーバード大学では理化学や聾唖教育などを修め、帰国後は東京師範学校長や東京音楽学校長などをつとめた明治教育界のパイオニアだった。

伊沢の台湾人を見る目はたいへん興味深い。台湾人は日本人と人種的に近い、言語に共通性がある、台湾人は知徳量や推理力、観察力が高い、日本人に似た気風を持っていると見ていた。そこで教化方針として、徐々に同化してゆく「混和主義」を採用した。

台湾は日本の植民地だったと言われる。しかし、イギリスやフランス、あるいはアメリカなどの植民地政策とは根本的に異なる。それが教育に現れていた。日本の台湾統治は「内地延長主義」と呼ばれた。

伊沢は明治28年(1895年)6月14日、学務部長心得(翌年、初代学務部長)として樺山資紀・総督、水野遵・民政局長、森林太郎・軍医部長らとともに台北に赴任。総督府始政式翌日の6月18日に学務部事務を開始している。6月26日に台北郊外の芝山巌に移転し、7月16日には7人の伝習生に国語の伝習を開始している。『台湾大年表』は「之れを以て本島民教育の嚆矢と為す」と記している。

この芝山巌学堂で行われた台湾人子弟の教育だったが、伊沢が日本に戻っていた翌明治29年(1896年)1月1日に起こった悲劇が芝山巌事件だった。

統治間もなくの台湾はまだ政情が不安で、日本人を敵視する匪賊も少なくなく、周辺住民は教師たちに再三退避を勧めたが「身に寸鉄を帯びずして群中に入らねば、教育の仕事はできない」として学堂を離れなかった。1月元旦、6人の教師が台湾総督府における新年拝賀式に出席するため芝山巌を下山しようとしたとき、100人ほどの匪賊に取り囲まれ、6人は教育者として諄々と道理を説くも、匪賊たちは槍などで襲いかかり、衆寡敵せず全員が惨殺されてしまう。

この非命に斃れた6人の日本人の教師は、楫取道明(かとり・みちあき)、関口長太郎(せきぐち・ちょうたろう)、桂金太郎(かつら・きんたろう)、中島長吉(なかじま・ちょうきち)、井原順之助(いはら・じゅんのすけ)、平井数馬(ひらい・かずま)。後に「六士先生」と尊称され、明治31年秋、靖國神社に合祀されている。

今年は事件から120年の節目の年。本会が去る6月26日に靖國神社で開催した「六士先生・慰霊顕彰の集い」には、楫取道明命令孫の小田村四郎・本会前会長をはじめとする9名のご遺族が集い、参列者70名とともにその事績を顕彰した。

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近年、関口長太郎命や平井数馬命の慰霊祭が行われるようになってきたものの、芝山巌事件について語られることが少なくなった印象がある。

しかし、7月22日発売の別冊「正論」(第27号)で、片倉佳史(かたくら・よしふみ)氏が「台湾教育に命懸けた芝山厳の六士 今も息づく平等・博愛・勤勉─日本の心」と題して、詳しく芝山巌事件について寄稿している。読み応えがある。

伊沢修二の事績や芝山巌事件についてはもちろんのこと、戦後台湾に生まれた「日本精神(リップンチェンシン)」にも筆が及び、この「日本精神」にまつわる廣枝音右衛門(ひろえだ・おとうえもん)を祀る台湾人の物語、そして台湾に生まれた「湾生」と呼ばれる日本人と台湾との交流物語、最後に台湾の日本語世代を象徴する李登輝元総統が指摘された日台に通い合う「心と心の絆」を紹介している。

ページを改め、台湾教育にまつわる「名残」として、台中・清水国民小学(旧清水公学校)にある「誠石」や、台北・台北第一女子高級中学(旧台北第一高等女学校)にある「正しく 強く 淑(しと)やかに」の校訓碑、苗栗・三義郷にある奉安殿なども紹介している。今年で台湾在住19年目を迎える片倉氏ならではの観点からの紹介だ。

13ページに及ぶ片倉氏の力作「台湾教育に命懸けた芝山厳の六士」を味読いただきたい。

◆「別冊正論」第27号(7月22日発売 定価:1,000円)