これが殖民地の学校だろうか-母校「清水公学校」- 蔡焜燦

【榕樹文化 2006年秋、第17号】

蔡焜燦先生の訃報は産経新聞紙面でも報じられた(7月18日付・大阪夕刊より)

私は昭和2年台中州大甲郡清水街で生れた。幼稚園2年を経て昭和8年4月に清水公学校*に入学した。校舎は縦貫道路に面した一棟が2階建てであり、コの字型になっている。別の二棟は平屋であった。勿論すべてが木造建築ある。この校舎で1年2年を学び、昭和10年に新しく建てられた鉄筋コンクリート及び赤いレンガ造りの新校舎に移った。ちなみに昭和10年は日清戦争で日本が明治28年清国政府より領土割譲され、台湾を領土にしてから40年の年である。

*「公学校」は台湾人子弟の通う小学校。昭和16年「国民学校」となる。師範学校では台湾語が必 修科目。

昭和に入ってから日本は前途多端な道を歩む。昭和3年張作霖事件、昭和6年満州事変、7年満州国建国、国際連盟脱退……。明るい話では7年ロスアンゼルスのオリンピック大会で日本水泳が金メダル五個、陸上では南部忠平が三役飛びで金メダル、大馬術で西竹一中尉が金メダルを獲り、8年12月に日本国民待望の皇太子(現在の今上陛下)ご誕生等があった。10年に台湾中部大地震、11年2・26事件、ベルリンのオリンピックで前畑秀子選手の女子平泳ぎ金メダル、田島直人選手の男子三役飛び16メートルで優勝、棒高跳びで西田修平、大江季雄両選手が友情の2位3位の獲得等があり、12年7月7日にシナ事変、16年大東亜戦争の突入になった。さて、私が述べようとしているのは、この昭和一桁時代から二桁時代の近代史めいた事ではない。

私は私の誇りとする母校の清水公学校の事を戦後61年経ても尚かつての故郷台湾をこよなく愛している台湾から引揚げられた湾生あるいは台湾育ちの皆様に紹介したい。

ここまで書いてふとペンを止めて、ある事を思い出した。今日4月17日は奇しくも1895年4月17日、下関の春帆楼で伊藤博文と清朝全権大使李鴻章とが日清戦争の講和条約を結び、台湾及びそれに附属する諸島を正式に日本に割譲した日である。

(カイロ宣言ではルーズベルトとチャーチル、蒋介石が『日本が中華民国より窃取せる台湾及びそれに附属している諸島は中華民国に返されるべし』と言っているが、誰もこの文書にサインしていない。だから法的には成立しない。唯、私が何時も悲しく思うのは、戦後、文中の『日本が中華民国より窃取せる……云々』を日本の有識者が取り上げて論じたことが無いという事実である。浅学の私なので、もしこの事に異論を出した事実があったらご教示いただきたい)。

本題に戻る。昭和9年暮れに清水公学校の新校舎が落成した。昭和10年の新学期前に我々は新校舎に移った。私が読者諸兄姉に知って貰いたいのは、当時日本全国の小中学校、旧制高校以上の学校にも、我が清水公学校のようなソフトの設備のなかった事を述べたいのであるが、やはりハードの建築物から紹介しよう。鉄筋コンクリート、赤レンガ造りの校舎と前に述べたが、約10年前に台湾政府から古跡として指定された。この建物は昭和10年の中部大地震にもびくともしなかった。校舎の床は、校庭から約50センチメートル高い。学校の正門は東の鰲峰山に向かっておる(昭和8年頃にこの山の界隈は公園であり、グランドがあって街の運動会が行われた。12年に清水神社が建立された)。この正門の南、北に通学用の通用門があった。正門は平時使用されなかったが、校舎の中央に車廻しがあり、庭に小さな築山があり、正面に台湾の教育のメッカ芝山巌から持ってきた、一寸した岩に我が清水公学校の校訓「誠」と言う文字が当時の校長川村秀徳先生の揮毫で刻み込まれていて、戦後61年になるが未だにそのまま保存されている。コの字型の校舎は、南向き、西向きの廊下は校庭に面しており、南側の校舎の廊下は南口に面しており、小さな校庭を隔てて生垣があり、その南に、走路(トラック)があり、400メートルの運動場が作れるくらいの大きい池がある。コの字型の新校舎のグランドは、200メートルのトラックしかない。廊下の校はすべて鉄筋コンクリートである事は既に述べたが、廊下に約3~4の教室を隔てて手洗い場が作られていて、蛇口が備わっていて、常に手を洗う事をあの頃から教えられた。勿論清水の水は当時生で飲めた。そして、その手洗い場の下前方(校庭に面した方に)この手洗いをした水を蓄える水槽が作られている。あの頃から水の豊富な町ではあるが、我々は既に「節水」という事を教えられていた。

この水槽の水を我々は校庭の散水に使っていた。校庭は樹木が沢山植えられているが、運動場が狭いので正面の庭のように芝生はない。唯、各教室毎に花壇が1つずつあった。ご存知の通り清水は海岸線で風が強く殊に季節風の吹く頃は、砂埃で目を明けていられないくらいの砂が飛ぶ。町では苦は苦力(クリー、懐かしい名前でしょう)が木桶をジョロみたいな形にしたもので散水を絶え間なくやっていたが、10年頃には近代的な散水車を街で数台買って運転手一人で相当な範囲で作業していた。

前述の苦力は「衛生クリー」と言ってゴミの回収・散水・川の浚渫等が仕事で勿論公務員である。余談であるが、便所の下肥の汲み取りは野菜を作る農民がやっていた。さて、校庭の散水作業であるが、公学校の5年以上、高等科2年までの男性の児童はブリキのバケツを1つずつ持つ義務があり、数クラスで手洗い場で蓄えられた水を使って散水していた。

校舎の裏側にやはりレンガ造りで小さな物置揚があり、すべての掃除道具はここに収納されていた。廊下の壁には各クラス毎に黒板がはめ込まれてあり、そのクラスの児童の習字・図画・作文等の作品展示が出来るようになっていた。

教室の設備に入る。正面に黒板があり、教壇があり、中央に教卓があり、教師の事務卓もある。教師は教員室にそれぞれの事務卓があるが、教室にもあった。黒板の上、左右に向かって右には各クラス一つずつスピーカーがあり、左には白水造りの神棚があった。それも昭和10年の時点でである。

台湾の小学校・公学校で各教室に神棚を奉置している学校は清水だけではなかろうか? 毎日当番が榊の水を入れ替え、榊が枯れ出すと、榊を新しいものにする。榊はほとんど榕樹*を使っていた。

*ガジュマルの漢名。亜熱帯で沖縄、福建省厦門にも生えている。気根が溶け出るようだから付いた名。

毎日、朝会の後、二礼二拍手一礼の正しい礼拝の作法で天照大御神、台湾神社の能久親王を礼拝した。

既述のスピーカーは、今も私が誇りにしている。当時全日本の学校になかった校内有線放送の設備が清水公学校にはあり、全校30クラスにこのスピーカーが配置されていた。大講堂には4箇所にあったように記憶している。

校長室に放送設備があり、この放送に使用するためのレコードが当時400枚もあり、このために子ども達にこのレコードの内容を収録した綜合教育読本という副読本が1冊70銭で配布された。当時日雇い人夫の一日の収入である。少年倶楽部が1冊50銭の頃だった。

この読本の内容は、童謡あり、国民歌あり、神話・歴史・物語あり、詩吟・筑前琵琶・薩摩琵琶あり、ドラマあり、浪花節あり、国語模範朗読あり、琴・尺八などの和楽器演奏あり、当時この「綜合読本」-と我々は言っていた-を、めくるだけで我々は胸をときめかせたものだ。また、午前10時と午後2時に、JOCK(日本放送協会台北放送局-記憶が定かでないが、東京局はJOAKだった)からニュースの放送があり、4年生以上の子ども達は、教室の授業を中止して「ニュース帳」を取り出し、放送されたニュースを書き取っていた。それぞれの学力によって所謂ヒャリング及び速記の勉強をしていた。勿論それによって時局の動きも分かる。そして月に一度ニュース帳の検査と試験があった。

4年の時、今の首相の名前を述べよと言う問題で、私は「文麿」と首相の名前を思い出せなくて、「近衛首相」と書いて難関を切り抜けた覚えがある。高等科2年教室と大講堂では、18ミリの映画を放映出来る設備があり、当今よく言われる視聴覚教育を我々は昭和10年代から叩き込まれていた。今でも忘れない映画は、明治38年5月27日の日本海海戦である。バルチック艦隊を日本海に迎えた東郷元帥の連合艦隊のTの字戦法、あの大Uターンを面面に手に汗を握って見たものだ。見張り船信濃丸の「敵艦見ゆ・・・」の発信、また宮古島住民5人が小さな船を漕いで石垣島に向かい相当時間をかけて到着、石垣島より同じく「敵艦見ゆ」を発信した。

60数年前に見たその映像は今も脳裏に強く刻み込まれている。さて、聞く方はどんなものか?朝8時になると、校長室前でラッパ手が三人くらいで大掃除のラッパを吹奏する。15分間の朝の掃除の後、校長室よりスピーカーで全員校庭に集合、朝会が始まる。宮城遥拝、校長の訓示、週番先生の通達の後、明治天皇御製朗読、そのあとラジオ体操がある。勿論、当時のラジオ体操の曲をレコードで流す。そのあと、それで朝礼は終わり、各自クラス毎に教室に入るが、軽決なマーチのメロディに合わせて「正常歩]という軽快な歩調で教室に向かう。

「正常歩」は12年次より行われていた、一分間百五十歩の歩調で足を前に出し、カカトで着地するリズミカルな行進法である。教室に向かったあとは、時間割通りの勉強になるが、時々各学年別の放送、また日によっては一度位全校でいろいろなレコードを聴かされる。私は今、昭和10年に編集された、この綜合教育読本の復刻作業を進めているが、次に前述の各部門から記憶にある一部を挙げてみよう。ほんの一部であることを再度強調したい。

1、わらべ歌 ◇十五夜お月さん ◇南京言葉 ◇ボクは海軍大将 ◇あの町この町 ◇子ども日本の歌 ◇蛙の夜廻り ◇兎のダンス ◇よいよい横町

2、国民歌 ◇日本国民歌 ◇守れ台湾 ◇敵機襲来 ◇揚る日の丸 ◇勝って戻れば

3、四大節の歌 ◇勅語奉答の歌

4、神話 ◇国生み ◇みそぎ ◇天の岩戸 ◇八岐の大蛇 ◇天孫降臨 ◇弟橘姫 ◇因幡の白兎

5、詩吟 ◇嗚呼忠臣楠公の墓 ◇皇師百万 ◇孤軍奮闘 ◇鞭声粛々 ◇前兵児之歌

6、一般歌謡 ◇枳殻(からたち)の花 ◇森の水車 ◇荒城の月 ◇夜の調べ ◇花

7、薩摩琵琶 ◇石童丸 筑前琵琶 ◇古賀連隊長

8、ラジオドラマ ◇師愛は輝く ◇肉弾

以上であるが、校挙にいとまがない。

琴と尺八の合奏曲に検校宮城道雄作曲で「春の海」という曲がある。毎日午前の授業の終業時に(4時限目と言っていた)全校一斉にこの曲がなる。昼休みの知らせである。この曲を聴くと、条件反射でお腹がグーッと鳴り、家から届いた温かいお便当の香りがして来る。この曲は今でもどこか和食堂で聴くことがあるが、未だにお腹に変化をもたらす。あたかも後年私も手がけた養殖うなぎが、早朝の餌付けの人の足音で集まって来るようなものだ。2年前、日本大使官邸で招待された時、日本から来た音楽大学在学中の女子学生がこの曲を奏でたので、このストーリーを皆さんに披露した。笑いの中での楽しい宴で終始した。

終わりにこの綜合教育読本の中に、昭和7年ロスアンゼルス・オリンピックで日本代表チームが、全メダルを7つも獲った時の歌がある。数年前、日本が日の丸・君が代で騒いでいた時、私が畏友金美齢女史にこの歌を歌って差し上げたら、金女史はこれを月刊『諸君!』に書き、これがまた阿川弘之先生のお目にとまり、阿川先生が月刊誌『文藝春秋』で紹介していた。そのご縁で阿川先生のご好誼をいただいている。この歌を次に紹介して筆を擱きたい。

流行歌  「揚る日の丸」

1、ロスアンゼルスのスタジアム メインマストにするすると 揚る国旗の夢を見て 私は日本で泣いたのよ。

2、空の燕が見てさえも 君がゴールの勇ましさ 遠く偲んでなつかしく 私は日本で泣いたのよ。

3、今日は凱旋ふるさとの 山も輝く日本晴れ 遠いデッキのお姿に私は波止場で泣いたのよ。

歓迎歌  「勝って戻れば」

1、勝った勝ったと舷(ふなべり)敲きゃ
  八重の潮路朝日がのぼる
  錦着て見る故郷の富士は
  うれし泣きかよ 朝ぐもり

2、小粒ながらも世界を相手
  見せた度胸の 一本勝負
  泣いて笑った 昨日の夢も
  今朝は吹く吹く海の風

3、ロスアンゼルスの青空高く
  揚げた日の丸 世界を照らす
  日本よい国 これから開く
  吉野桜は まだ蕾

4、勝って戻って纜(ともづな)解けば
  日本(やまと)島根に 波さえ躍る
  鉾をおさめて どんと胸たたき
  仰ぐ朝日の父母の国

- 後記 -

以上昭和10年の清水公学校の事を書きました。母校の建築及び諸設備の企画をされたのは、当時大甲郡視学の鹿児島出身の川村秀徳校長先生です。昭和8年頃から校長でした。清水公学校は今年で創立百十年になります。台湾中部では、文化レベルの高い町であり、諸兄姉に諸れるものに、大震災後の都市計画(町が碁盤の目のようになっている)があり、台湾でもあまり聞かないハーモニカバンド*が終戦後、228事件当時まであった、等々書き出すと筆のとどまることがない。なお、清水公学校の教員宿舎は、すべて和風建築で風呂は当時田舎では珍しい五右衛門風呂であった。(完)

*楽器がすべてハーモニカで当時宮田東峰ハーモニカがあった。第一、第二、ベース、クラリネット、ドラム等のハーモニカがあって、楽団を組織し、228事件まで台中州下各地で演奏していた。