松田康博教授

昨年5月、台湾に蔡英文政権が発足してから、台湾を「 核心的利益」としてその併呑を公言してはばからない中国が台湾に外交的圧力をかけ続けている。 その最大の理由は、蔡英文政権が「一つの中国」を認めないことだとしている。

ドナルド・トランプ氏が米国大統領当選の前後にも「一つの中国」 をめぐって、米中間には駆け引きが行われたことは周知のとおりで、中国がからむ国際関係は「 一つの中国」がキーワードのひとつになっている。

この「一つの中国」をめぐる台湾と中国の関係について、 中台関係論などを専門とする東京大学東洋文化研究所の松田康博(まつだ・やすひろ) 教授が台湾と中国の戦後史をひもときながら詳しく解説している。 かなり長いインタビューだが全文を下記にご紹介したい。

ちなみに、松田氏のインタビューでは詳しく触れられていないが、 東京外語大学大学院の小笠原欣幸(おがさわら・よしゆき)准教授は、中国の「 一つの中国原則」とは、1)世界で中国はただ一つ、2)台湾は中国の不可分の一部、3) 中華人民共和国は中国を代表する唯一の合法政府の3点から成り立ち、一方、アメリカの「一つの中国政策」は、1) 1972年,78年,82年の3つの米中コミュニケ、2)1979年制定の「台湾関係法」、3) 1982年にレーガン大統領が表明した「台湾に対する6つの保証」から成り立つと説明している。


「一つの中国」をめぐって――中国と台湾の曖昧な関係
東京大学東洋文化研究所教授、松田康博氏インタビュー

【シノドス(SYNODOS):2017年7月31日】

「一つの中国」を原則とし、台湾との統一を目指す中国と、 中華人民共和国とは違う主権独立国家でありたいと願う台湾。先日もWHO総会への参加をめぐり、 世界の注目を集めたばかりである。そもそも、中国と台湾はなぜ対立するようになったのか。軍事、 経済、外交で中国が圧倒的に優位にあるはずなのに、 それでも台湾が存在し続ける微妙な構造はいかにして成立したのか 。東アジアの国際関係がご専門の松田康博教授に伺った。(取材・構成/増田穂)

◆2つの独裁政権による分断と対立

――蔡英文政権になってから、「一つの中国」という認識をめぐり、中国との対立を深めている台湾ですが、そもそも台湾と中国は、歴史的にどのような関係を築いてきたのでしょうか。

わかりやすくするために、単純化して説明しましょう。まず、台湾は清朝の領土でした。しかし清朝は日清戦争で敗れ、1895年の下関条約により日本に台湾と澎湖諸島を割譲しました。このことで日本は、マラヤ・ポリネシア系先住民族に加え、福建や広東から移住した漢民族が住む台湾を殖民地として統治しました。ところが日本は1945年8月にポツダム宣言を受け入れて連合国に対し無条件降伏をします。この結果、日本は約50年間統治していた台湾を手放したのです。

台湾は、連合国軍の命令により、10月には当時中国大陸を統治していた中華民国政府によって接収されます。これは、清朝を引き継いだ中華民国に台湾が「復帰」することを前提視するプロセスでした。それに伴い、台湾は中華民国の統治下に入りました。そして台湾の脱植民地化は、台湾独立ではなく、中華民国による「祖国化」(中国化)として進められていったのです。

当時、本土の日本人から差別を受けていたとはいえ、多数の台湾住民は安定した環境で教育を受け、近代化の洗礼を受けていました。彼等は1945年に中国国民党が指導する中華民国政府の統治が始まると台湾省出身者という意味で「本省人」と呼ばれました。そこに、中華民国政府とともに多くの人が中国大陸から台湾に渡りました。彼等は、台湾以外の省から来た人という意味で、「外省人」と呼ばれます。外省人は、苦しい日本との戦争を乗り越えた中国人としてのプライドはありましたが、教育や近代化の水準については、本省人と大きなギャップがあったのです。

――外省人中心の国民党が台湾を統治したことは、台湾社会にどんな問題を引き起こしたのでしょうか。

軍や政府機関は丸ごと中国大陸から持ち込まれ、日本教育を受けて「日本化」したとされる本省人は、中国大陸での生活経験を有する一部の人々を除き、政府機関のポジションから徹底的に排除されたのです。せっかく日本人がいなくなったのに、「同胞」であるはずの外省人から不当な差別を受け、社会では不満が高まりました。

戦後の台湾は日本との経済関係が切断され、中国と結びつきましたが、ハイパーインフレや、衛生状態の悪化、政権を握る国民党と共産党との対立も深まり、混迷した影響で、経済や治安が急速かつ極端に悪化しました。悪化した情勢の中で、外省人の役人が本省人女性に暴行を加えたことを引き金に、本省人が暴動を起こしたのです。これに対し、政府は反対者に耳を傾けるふりをしつつ、軍隊の増派を中央に要請し、その部隊が到着するや否や手のひらを返すように抵抗する本省人を虐殺しました。これが1947年の2月から5月にかけて発生した、「二・二八事件」と呼ばれる本省人と外省人の深刻な衝突です。

さらに、1949年には、中国本土で中国共産党との戦いに敗れた国民党と中華民国政府が、台湾に撤退しました。弱体化した国民党政権はあわや崩壊かと思われましたが、1950年6月に朝鮮戦争が勃発したことで、共産勢力に対抗するアメリカの支援で救われます。

アジアに冷戦が拡大した背景の下、アメリカの支援を受けて国民党の権力は維持・強化されました。また、国民党政権は徐々に本省人を政権内に登用するようになる一方、共産党の浸透を恐れ、スパイと疑われた人々を見境無く取り締まる、いわゆる「白色テロ」を展開しました。こうして、蔣介石が指導する国民党の独裁体制が台湾で固定化されたのです。他方で毛沢東が指導する共産党は中国大陸で統治を定着させるため極端な恐怖政治を進めました。こうして中国と台湾は2つの独裁政党の下で二分され、互いが相手を征服し、統一すべき対象と見なし、「中国は1つしかない」と主張し続けたのです。台湾海峡を挟んで、中国大陸の共産党は「台湾解放」を叫び、台湾の国民党は大陸にとって返す「大陸反攻」を叫びました。

◆舞台を変えての攻防戦

――台湾海峡を挟んで、中国と台湾が対立を始めたのはそういう経緯なのですね。その後、中台はどのような関係に変化したのですか。

これが興味深いことに、中台の間では、軍事闘争、外交闘争、経済競争、政治体制競争、アイデンティティ政治と、次から次へとゲームが展開していったのです。しかも、次のゲームに移っても前のゲームは終了せず複合的な延長戦になっていきました。

――と、いいますと?

まずは軍事闘争です。未了状態の国共内戦、つまり中国本土での国民党と共産党の戦いの延長戦が続きます。1950年代には、浙江省や福建省の沿岸で離島地域をめぐって中国側の大規模な武力行使が発生しました。一方で1960年代前半には台湾側が大陸反攻作戦を発動する寸前になりました。蔣介石は、アメリカの支援を得て、大部隊を中国東南沿岸から上陸させようとしたのです。しかし、当時ソ連は資本主義陣営との平和共存や緊張緩和を主張していましたし、アメリカも現状維持の方針を持っていたため、結局中国による「台湾解放」も、台湾による「大陸反攻」も実現しませんでした。米ソ両大国は、自分達を巻き込んだ第三次世界大戦などご免だったからです。つまり軍事では勝負が付かなかったのです。

中国は軍事がだめなら外交で勝負をつけようとました。中国は、巨大な国土と人口をバックに、社会主義国やアジア・アフリカの新興国との外交関係を樹立していきます。対する台湾は、当時は中華民国として、国連安保理常任理事国でしたから、その特権を使って、中華人民共和国の国連へのアクセスを阻み続けました。台湾は世界中で反共国家の支援もしていきます。ところが1971年には米中が接近し、中華人民共和国政府が「中国を代表する唯一の合法的政府」として国連の代表権を獲得し、国際的な承認を獲得していきました。これにより、台湾の中華民国政府は、多くの国際組織から追い出されるか「中華民国」以外の名義――たとえば「中華台北」――などに切り替えることを余儀なくされました。72年の日中国交正常化、79年の米中国交正常化など、中国は台湾の外交関係を容赦なく切り崩していきます。1980年代末には、台湾が外交関係を有する国は20ヵ国余りにまで減少しました。こうして、外交闘争では、中国が圧勝しました。

こうした背景を受けて、中国の最高指導者鄧小平は「平和統一」を、蔣介石の後を継いだ蔣経国総統に呼びかけました。ところが、蔣経国はこれを拒絶します。当時台湾の経済水準は中国よりもはるかに高かったので、充分に堪え忍ぶことができたからです。中国はガチガチの社会主義計画経済から市場経済への移行がうまくいかず、共産党は国民からの信頼を失いつつありました。他方台湾は、香港や韓国、シンガポールなどとともに経済発展目覚しく、アジアの「4匹のドラゴン」と呼ばれていました。アメリカや日本との深い結びつきの下、台湾は高度経済成長を続け、自信に満ちていたのです。

――国家としての国際承認こそ失ったけれど、台湾はまだまだ力をもっていたのですね。

ええ。しかも、1989年6月には中国で天安門事件が発生します。中国はやむなく政治改革を諦めて、経済改革に集中する路線に転換しました。一方で台湾は、順調な経済成長を背景に、蔣経国の進めた自由化改革をさらに加速させる形で、後継の李登輝政権が段階的な民主化を進め、アジアでデモクラシーのトップランナーに躍り出ました。台湾から見ると、中国は貧困の象徴であり、政治的にも遅れた国で、中国との統合など、全く論外の話でした。

――では、アイデンティティ政治とはどう展開したのですか。台湾の民主化といえば、今もお話に出た李登輝総統が、本省人でも初めて指導者となって日本でも有名です。李登輝や後継の陳水扁の時代には何が起こったのですか。

民主化は、台湾社会にさまざまな変化をもたらしました。特に目覚しかったのは本省人のアイデンティティの覚醒です。先ほども話しましたが、戦後本省人は外省人を中心とした国民党政権下で抑圧されていました。しかし外省人は台湾の人口全体の10数%しかいません。民主化により選挙をすれば、当然のことながら本省人が政治権力を握るようになっていきます。

大部分の本省人は、中国統一などしたくありません。民主化の中で、本省人のアイデンティティが明確になるにつれて、台湾独立を主張する人々も増えてきます。自由化が進み、海外からも独立を支持する人々が続々帰台し、台湾内部で国民党の迫害に抵抗して民主化運動を進めてきた民主進歩党(民進党)に入党しました。結果、民進党は台湾独立を明記した党綱領を持つようになります。

しかし、台湾独立は、中国の捨て身の武力行使を誘発するかもしれません。そこで、李登輝は、もともと中国との統一を望む外省人で凝り固まっていた国民党を、国会の全面改選など一連の選挙を通じて本省人を主流に変える本土化(台湾化や土着化とも訳されます)を進め、他方で民進党の独立路線を「危険である」として批判したのです。このことにより、1990年代を通じて、多数の台湾住民は、台湾の代表であり、同時に安心できる「李登輝の国民党」を支持しました。

この李登輝支持の局面は、2000年の陳水扁による民進党政権の成立で崩壊します。民進党は国民党の分裂で「漁夫の利」を得て成立した少数政権でした。退任した李登輝は、隠然たる影響力を維持していましたが、下野した国民党が本土化路線から離れていったため、国民党を離れて台湾独立派の陳水扁政権のサポートに回りました。しかし、このことで、台湾政治は、民進党や独立派を含む「緑陣営」(緑は台湾のシンボルカラー)と、国民党や統一派を含む「青陣営」(青は国民党のシンボルカラー)に二極分化してしまったのです。この局面が現在に到るまで20年近く続いています。

独立派の陳水扁政権にとって不幸だったのは、政権を取った2000年から2008年という時期は、まさに中国が奇跡的な台頭を実現して、経済的にも軍事的にも強国化した時機と重なっていたことです。いくら規制しても、中台間の貿易や投資は二桁成長を続けたのです。そして経済競争において、中国が初めて台湾を圧倒しました。やむを得ず、2004年に再選を目指した陳水扁は、結局中国との対立を利用して台湾人アイデンティティを「煽る」政治手法に頼っていき、中国のみならずアメリカからも批判され、台湾は次第に国際社会から「トラブルメーカー」視されるようになっていったのです。

2006年には陳水扁自身の金銭スキャンダルが起きました。民進党への信頼は政策面でも人望の面でも地に落ち、民進党は2008年に政権を失いました。馬英九率いる国民党政権が成立したのは、台頭した中国と正面から付き合わないと台湾の経済力が維持できないという危機感のなせる業だったのです。

玉虫色の「一つの中国」

――前政権の馬英九総統は「一つの中国」の原則を認めていましたよね。それは中国と同じ立場だったのですか。

そこが興味深い点です。前提として、中国国民党の党是は「国家の統一」であり、台湾の独立には反対です。したがって中国側からすれば、独立を主張する民進党より、国民党のほうが相手をしやすいのです。こうした状況下で、馬英九は、台湾人アイデンティティに配慮し、「統一しない。独立しない。(中国に)武力行使をさせない」というスローガンを使って、中台関係の現状維持を主張しました。具体的な政策として、馬英九政権は、中国との間で交流を安定的に進めるために「一つの中国」という言葉が入っているコンセンサスを、中国大陸との間で確認しました。それが1992年に口頭で確認されたとされている「92年コンセンサス」です。

中華人民共和国にしてみれば、「一つの中国原則」とは、ゼロサムの外交ゲーム用語であって、中華人民共和国政府が「中国大陸と台湾が含まれる中国」を代表する「唯一合法的政府」であることを意味します。ところが馬英九政権の立場は、「一つの中国」の「中国」とは「中華民国」であるというものです。これは非常に分かりにくい論理で、台湾でもよく理解されていませんが、要するに、大陸中国の立場とは逆に「(現在台湾にある)中華民国政府が中国大陸を含む中国を代表している」という虚構です。国際社会でも通用しませんし、台湾で信じている人もいません。とはいえ、「一つの中国」の定義を、中国に合わせたら、それは統一に同意したのと同じになります。

したがって、信じるかどうかは別として、馬英九政権は便宜的に「一つの中国」という言葉が入っているコンセンサスを中国大陸との間で「持ったことにする」ことを通じて、中国との関係を改善し、台湾の経済的利益を増大させようとしたのです。実のところ、これはお互いに解釈がバラバラな「コンセンサス」なので、厳密にはコンセンサス(共通認識)であるとは言えません。しかし、中国もまた民進党よりも国民党の方がましであるという便宜的観点からこのコンセンサスを「成立させたことにした」のです。

実は、中国と難しい問題に関して交渉し、合意する場合、その文言の解釈がお互い食い違うことはよくあります。「92年コンセンサス」では、お互い「一つの中国」という言葉の解釈が全く違うのですが、「一つの中国」が入っていることが政治的効果を持ったのです。民進党は、台湾独立を主張しているためこういった芸当ができません。馬英九政権は「一つの中国」という言葉を巧妙に使うことによって、中国との関係を安定化・制度化させる足掛かりを得たのです。こうして、2008年以降、馬英九は中台がさまざまな交流を増大させることに成功しました。さらに、台湾向けの外交闘争も、「中華民国」を消滅させると、かえって台湾内部の独立支持を強めると考えて、中国は馬英九の呼びかけに事実上応えて自粛しました。

――なるほど。お互いに矛盾は意識しつつも、政治的な思惑から見て見ぬふりをしてきたのですね。馬氏のとった対中融和政策とは、どのようなものだったのでしょうか。

交流の増大といっても、中華人民共和国と台湾にある中華民国は、ともに相手の存在を公式には認めない関係にあります。国連のような主権国家を要件とする国際組織にも、同時加盟はできません。したがって、中台双方は、いわゆる民間機関の形式をとる準公的機関を作って、そこを通じて間接接触をするしかありませんでした。台湾側は海峡交流基金会(海基会)、中国は海峡両岸関係協会(海協会)がそれに当たります。これは李登輝時代にできたのですが、その後対立が深まり交流は止まっていました。

馬英九政権は、この海基会と海協会の準公式ルートを回復させました。陳水扁政権の時も、中国は少しずつ経済的関与を拡大しましたが、あまり譲歩すると、陳水扁が「独立派の私でも中国との関係をうまくやれる」と言い出しかねませんでしたから、陳水扁が調子に乗らないよう、関与は限定的でした。中国にしてみれば、陳水扁にはあまり手柄を立てさせたくなかったのです。ですから中国は、馬英九政権成立を待ってたくさんの「プレゼント」をしたのです。

例えば、馬英九政権成立後まもなく、中台の間の直行便が定期化されました。また、台湾では中国からの観光客受け入れが解禁され、観光業界が潤いました。日本でも、一時期中国観光旅行客のいわゆる「爆買いツアー」なるものが話題になっていましたよね。たとえば銀座の高級ブランド品店に行くと、中国語が飛び交っています。あのような状態が、2008年以降に台湾各地で出現しました。

そして、先ほど言った準公式的な枠組みでこの両者がいろいろな会議を行い、馬英九政権期には中台の間に23の協定が結ばれました。そのうち最も重要なものが、2010年に結ばれた「両岸経済協力枠組協定」(ECFA)で、経済連携協定(EPA)に似た協定です。これは「枠組み協定」なので、この枠組みの下で様々な経済協定を結び、また関税引き下げ交渉を行い、関係を深めていくことに目的がありました。

――こうした親中的な方針は、独立派の民進党からどのような反応を招いたのですか。

民進党は、馬英九政権の交渉は内容の透明性が低く、また対中国経済依存をさらに強めかねないとして反対しました。しかし中国との関係改善で経済的にも恩恵を受け始めていた台湾社会では、「92年コンセンサス」を否定し、中国との経済協定締結に反対した民進党は支持を拡げることができませんでした。それどころか、経済界の大物は次々に「92年コンセンサス」の支持表明をしました。このことが、2012年に馬英九の再選を支えたのです。

――その馬英九政権ですが、2016年の選挙で蔡英文率いる民進党に政権を渡すかたちになりました。背景に「一つの中国」の認識をめぐる問題があったと聞いていますが、それまで支持を受けていた馬政権の政治に批判が集まるようになったのはなぜなのでしょうか。

馬英九政権への不満は多岐にわたっていて、中国要因はそのうちの1つに過ぎません。ただ、中国との関係が、他の要因とも結びついているのは事実です。馬英九は、台湾の経済不振の原因を中国大陸との経済関係が阻害されていることに見いだしていました。諸問題全てとはいいませんが、そもそも馬英九は台湾社会の抱える問題の多くが中国大陸との経済関係深化により解決するという一種の「幻想」を振りまいて政権をとったのです。

1期目の頃は、陳水扁政権への反発で、中台関係を安定化させる試みは支持を得ていました。しかし2期目からはその効果は薄れ、馬英九の政権運営そのものが厳しく検証されるようになりました。たとえば、中国との間で結んだ各種協定ですが、ECFAなど賛否が割れた協定について、同じ国民党にありながらも馬英九の政治的ライバルである王金平が院長をつとめる立法院は、野党民進党の意見も取り入れつつ、長い時間をかけて審査しました。

馬英九は、中国との関係では果断な行動をとりましたが、一般庶民の生活向上を進めることが苦手でした。一方で王金平立法院長はいわば日本の国会議長に相当する、民意の代表です。かねてから折り合いが悪かった両人ですが、馬英九が2013年9月に王金平に権力闘争を仕掛け惨敗しました。人々の間には馬英九の惨めな印象が残り、馬の政治姿勢に対する住民のフラストレーションは強まっていきました。

そうした状況の中、馬英九総統は、内政のほころびを繕うのではなく、中国との交流を減速させるのでもなく、むしろ習近平との首脳会談を実現して歴史に名を残すことに執着したのです。加えて台湾内部では、中台の社会的接触が拡大したことで、かえって台湾人アイデンティティが急速に強まり、「私は中国人ではない。台湾人である」と自認する人が60%を超えました。中台の社会は分断されてから120年以上も経っていて、人々の風俗習慣には大きな違いが出ていたので、これは当然ともいえる結果でした。

馬英九政権は、企業収益の改善や、国民総生産(GDP)の増加を成果として強調しましたが、個々人の給料はなかなか上がりません。企業の利益は上がりましたが、社会には富が還元されず、一部のお金持ちが、不動産投資をして不動産の価格を吊り上げ、その結果若い人が家を買えなくなってしまう状況も起きていました。

「馬英九は、私たちの気持ちを理解していない」という極度のフラストレーションが、若い世代を中心に蔓延していました。その鬱憤が中台間のサービス貿易協定の強行採決をきっかけとして、爆発します。それが2014年春のいわゆる「ヒマワリ運動」です。若い人達が立法院を占拠したことで、それまで中国との関係について諦めムードだった台湾社会が、揺り起こされたのです。2014年11月の統一地方選挙と、2016年1月の総統選挙・立法委員(国会議員に相当)選挙で国民党が歴史的大敗を喫したのは、こうした複合的要因によるものです。

外交で台湾を追い込む

――一方で蔡英文の民進党政権も当初の中国からの独立志向への支持の反面、最近は支持率の不振が指摘されています。対中関係の悪化を不支持の一因とする声もありますが、松田さんはこの不支持の要因をなんだとお考えですか。

一言で言うなら、蔡英文政権は、今のところ内政面で期待外れなのです。政権交代を果たした蔡英文に対して、支持者は新鮮な人事や果断な政策決定を期待していました。ところが蔡英文は主要人事では国民党系のベテランを登用するなど、「安全運転」の布陣で批判を浴びました。政策面でも、経済成長や格差是正策で新基軸を打ち出せていません。

また国民党が取得した不透明な資産の回収問題、年金改革、司法改革、同性婚など難しい課題を同時に進めようとし、強い反発を受けて、立法過程は停滞しています。蔡英文は決断力と実行力に疑問符をつけられ、支持率が低下しているのです。ただ、同性婚に関しては、先日大法官会議の憲法解釈により、男女の結婚しか認めていない現行民法が違憲であるとの判断が下されたため、前進しそうです。年金改革もようやく一歩前進しました。抵抗を排除して一つずつ実現すれば、支持率は一定程度回復するでしょう。

――蔡英文氏による長期政権は厳しそうですか。

蔡英文が2期目を目指す総統選は2020年初頭にあります。その前哨戦が2018年11月の統一地方選です。民進党内で蔡英文への不満が強まっていて、今後内政の成果が乏しければ、地方選挙で苦戦して再選に向けた求心力は落ちるでしょう。国民党は、2017年5月に、不人気な洪秀柱前主席に代えて、呉敦義前副総統を主席に選出しました。老練な本省人政治家である呉が党主席となったことで、国民党は当面持ち直すと思われます。民進党にとっては内輪もめをしている余裕がなくなりました。蔡英文再選・政権維持に向けて、民進党は団結を維持するしかない状態です。

――今回、中国からの要請を受け、WHOが台湾を総会には招待しないという事態になりました。中華民国と100年以上の外交関係を持っていたパナマも断交に踏み切り、中華人民共和国と外交関係を樹立しました。悪化する中台関係が、台湾の今後の国際社会への参加に影響する可能性はあるのでしょうか。

馬英九時期の「外交休戦」はすでに終わっています。何よりも、中国共産党第19回全国代表大会(19全大会)を迎えるに当たり、習近平政権は内政も対外関係も、習近平の下で全てうまくいっているのだ、という体裁を整える必要があります。ドナルド・トランプ大統領との首脳会談や北朝鮮の核・ミサイル開発をめぐる一定の協調姿勢などはその重要な要素です。最近目立つ日本への接近、「一帯一路」(ユーラシアの発展協力構想)の鳴り物入りの推進、香港返還20周年式典への「空母つき出席」、という事象も全てその文脈の中で理解できます。この中で、唯一うまくいっていない問題――正確には他と違ってうまくごまかし切れない問題――が台湾問題なのです。

就任から1年経っても、蔡英文政権は中国への妥協を拒否して、「92年コンセンサス」を受け入れませんでしたし、中国との間に類似の共通認識を作り上げることできませんでした。中国内部では、特にタカ派から蔡英文政権を強くたたくべきだという圧力が相当強まっているのかもしれません。ですから、5月以降中国は台湾に強めの圧力をかける姿勢に切り替わったのでしょう。しかしながら、これがこのままエスカレートするとは思えません。なぜならドミノ倒しのように、一気に外交関係のある国を奪っても、何もメリットもないからです。一ヵ国毎に効果を確認しつつ、真綿で首を絞めるように取り上げていくのでしょう。

――中国からの圧力も、今のところ外交的なもののみなのですか。

いろいろあります。外交的圧力には、限定的な効果があります。つまり、台湾の一般民衆は国際関係の影響を直接受けないので、国際的な政治空間でのみ台湾をしめつけるのは、政権だけに打撃を与えることができる手段なのです。中台間の外交闘争には延長戦が続く理由があるのですね。

他方中国は台湾に対して、投資制限や貿易制限といった経済制裁をしていません。これは中国経済に不利益が発生することが最大の理由ですが、制裁によって市民生活が圧迫されることで台湾の一般の人々が中国に対して悪感情を抱くことも大きな理由です。中国は、台湾向けの観光客を減らしたり、台湾からの農産物買い付けを停止したりしていますが、これはやり過ぎると台湾住民からの恨みを買います。経済ゲームは互恵の側面がありますからね。

ただし、軍事面で、中国は台湾向けの弾道ミサイルを増やしたり、空母を通過させたりと、圧力をかけ続けています。まさに中台関係は「複合的な延長戦」なのです。

――となると、中台関係は緊迫した状態が続く可能性が高いということでしょうか。

普通に考えると、中台はそれぞれのナショナリズムがいずれ直接ぶつかるかもしれず、よい材料はありません。このままずるずると悪化する可能性は高いです。ただし、中台関係が悪化一辺倒であると見るのは短絡的です。19全大会後の習近平は、さらに権力基盤を強めるでしょうし、蔡英文も改革を進めて2020年に再選されたら、その権力基盤は強まるでしょう。一方国民党は万年野党化するかもしれません。弱い指導者は強硬策しかとれませんが、強い指導者は強硬にも柔軟にも対応できます。これは政治の鉄則です。

したがって、その時に中台関係の「機会の窓」が拡がる可能性も見ておく必要があります。2017年という早いタイミングで強硬手段を使っておいた方が、後に双方が妥協すべきタイミングで柔軟な手段をとることを可能にするかもしれません。早めに強硬手段をとって相手をたたくことで、内部のタカ派に文句を言わせずにすみますし、叩かれて頭に血が上っていた側も、時間が経てば冷静に利害得失を計算できるようになります。タイミングのよい強硬手段は、後の関係改善につながることがあるのです。国際政治は諸行無常であり、複眼的に見る必要があります。

不確実な世界の中で 

――中台関係には、それぞれの米国との関係性が影響すると聞きます。トランプ政権の発足以後、米中関係も変化しつつありますよね。この米中関係の変化は中台関係にどのような影響を与えると思われますか。

そもそも台湾の存在は、米中両国のパワーバランスがアメリカに圧倒的に傾いているから維持されてきたのです。台湾は共産党が支配する中国を牽制するアメリカの意図で守られてきたのです。トランプ政権の成立はその前提を崩すかもしれません。

米中関係は、核兵器を有する第一位と第二位の経済大国間の関係です。つまり、米中が仲良くなりすぎて第三国の利益を無視しても、本気で喧嘩したりしても、必ず困る国がでます。

もしも米中が親密になりすぎたら、中国が台湾の利益を犠牲にするディールを持ちかけ、アメリカがそれに乗る可能性もあります。反対に米中が険悪になり中国がアメリカに対して戦争をちらつかせる瀬戸際政策をとって、アメリカの対台湾介入を阻止したりした場合も、台湾は多大な損害を被ってしまうでしょう。台湾はそうした非常に不安定な立ち位置に置かれているのです。

トランプ政権は、多重の不確実性を抱えています。1つ目は、中国との関係において、これまで積み重ねられた政策を簡単にひっくり返してしまうかもしれない点です。就任直前に、トランプはアメリカの「一つの中国政策」に疑問をなげかけました。2つ目は、中国との関係において、娘のイバンカ・トランプや娘婿のジャレッド・クシュナーのような、外交に習熟していない個人が影響力を持っていることです。3つ目は、台湾が単なる「バーゲニング・チップ」として扱われる可能性があることです。たとえば、中国が北朝鮮への制裁を強める代わりに、アメリカは台湾問題で妥協しろ――米中間で台湾への武器輸出をやめる新しい共同コミュニケにサインする――というようなディールが、クシュナーを通じて米中間で成立したら、台湾にとっては悪夢となるでしょう。

加えて、トランプ政権は、武力に依存する傾向があります。シリアが化学兵器を使った疑いが出た際、トランプ政権は躊躇することなくシリアの空軍基地を空爆し、北朝鮮に対しても軍事的圧力を高めました。トランプ大統領の支持率は史上最低ですが、シリア空爆の時、大部分の共和党支持者はトランプを支持しました。トランプ政権が、武力を背景に北朝鮮とチキン・ゲームをしている最中に、お互いの判断ミスが重なると、何が起こるか分かりません。歴史的に見ても朝鮮半島と台湾海峡の緊急事態は連動したことがあります。極めて低いとは思いますが、トランプの登場で大動乱の蓋然性を排除できない時代になったと思っています。そうなると、現状維持志向の強い日本や台湾が得をすることなどありません。

――最後に、今後の中台関係の展望について、どのようなものになるか松田さんの見解をお聞かせください。

私は、数年前にシナリオプラニングという方法論を使って、中台関係の4つの将来シナリオを描いたことがあります。まず、中台関係の中から、まず「重要かつ不確実な要素」を2つ抽出します。1つ目は、中国が協調的な大国になるか、覇権的な大国になるか、という横軸です。2つ目は、台湾の独立した状態が事実上固定化するか、徐々に中国の傘下に編入されていくか、という縦軸です。これでマトリックスを作りました。

1つ目の仮定として中国が覇権大国化する一方で、台湾の独立状態が固定化すれば、それは中国が台湾に怒りを爆発させる「A:台湾海峡危機」のシナリオになります。2つ目の仮定は中国が協調大国化する一方で、台湾の独立状態が固定化するパターンで、「B:分断の永続化」のシナリオになります。これはおそらく現状の追認に近い状態になるでしょう。第3の仮定は中国が協調大国化する一方で、台湾が中国の傘下に入るような状態になる、「C:フィンランド化した台湾」のシナリオです。つまり台湾は属国に近い状態になるが、物わかりの良い中国は急速な統一を追求せず、台湾の変化を待つ、ということです。そして、最後は、中国が覇権大国化する一方で、台湾が中国の傘下に編入される「D:統一に向かう中台」のシナリオです。この場合、台湾は独立状態を諦めて中国とよりましな条件で交渉し、統一せざるを得なくなる、ということです。

これは、あくまで頭の体操であり、将来予測そのものではありません。しかしこうした「将来」を描いてみると、中台双方が「今」何をしようとしているかが分かるようになります。危機のシナリオAは、中台双方とも嫌ですし、そもそも地域の安定を維持しようとする日米両国の「介入」を招くかもしれない下策です。中台の軍事闘争は、手詰まりのままなのです。

そうなると、中国は台湾を支配できるシナリオCかDを狙って、台湾を自分の影響下に置く手段を強化します。他方台湾は、現状維持のシナリオBをねらって中国からの自律性を維持し、同時に中国からの敵意や攻撃をまともに受けないよう挑発も避ける、というアプローチをとることになります。軍事、外交、経済といったハードパワーで、中国は台湾を圧倒しようとしますが、そうすると、台湾住民の中国への反発や台湾人アイデンティティが強まり、中国から気持ちが離れ、統一が遠のきます。この矛盾は、そう簡単に解消しないでしょうね。

――中台の関係は今後もはっきりしない状況が続きそうなんですね。松田さん、お忙しいところありがとうございました。

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松田康博(まつだ・やすひろ)

昭和40年(1965年)、北海道生まれ。同63年、 麗澤大学外国語学部中国語学科卒業。平成2年、東京外国語大学大学院地域研究研究科修了。同9年、 慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。同15年、博士(法学)学位取得。 在香港日本国総領事館専門調査員、防衛庁(省)防衛研究所助手・主任研究官、東京大学東洋文化研究所教授などを経て、 同27年より東京大学東洋文化研究所教授。専攻はアジア政治外交史、東アジア国際政治研究、 中国および台湾の政治・対外関係・安全保障、中台関係論、日本の外交・安全保障政策。

主な著書に『台湾における一党独裁体制の成立』(2006年) など。共著に『岐路に立つ日中関係―過去との対話・未来への模索』(2007年)『日台関係史― 1945-2008』(2009年)など。