現在の日本と台湾の関係は最良だと言われる。
日本台湾交流協会台北事務所(駐台日本大使館に相当)が2016年3月に発表した「対日世論調査」では、台湾の人々が「最も好きな国」として挙げたのは日本で56%、中国の6%や米国の5%を大きく引き離している。
一方、台北駐日経済文化代表処(駐日台湾大使館に相当)が2016年10月に発表した「台湾に対する意識調査」でも、日本人が「もっとも親しみを感じるアジアの国・地域」は台湾で、59.1%とダントツの1位だった。
その象徴的な出来事が2011年3月の東日本大震災に現れた。台湾から200億円を超す義捐金と560トンもの支援物資が寄せられたのだ。台湾の人々が「最も好きな国」日本へ示したこの親日ぶりに、多くの日本人が深い感動を味わった。
諏訪中央病院名誉院長で、『1%の力』『がまんしなくてもいい』などの著書もある鎌田實(かまた・みのる)氏もその一人だ。
台湾で開かれる「全国必修不老学国際シンポジウム」にメインスピーカーとして来てほしいという依頼が届き、併せて台湾大王製紙からも講演を依頼されたという。鎌田氏は、この講演依頼を受けて8月初旬に訪台しているが「最大の目的は、なぜあれほど多額の震災支援をしてくれたのかを知ることだった」という。この鎌田氏の訪台に日本テレビが同行した。
鎌田氏は台湾で老若男女、多くの人にこの疑問をぶつけている。中には、台湾赤十字の王清峰会長や司法院長だった頼浩敏氏、宜蘭県五結郷の簡松樹郷長などもいるが、多くは庶民だ。
鎌田氏は「JBpress」誌に「日本が好きな台湾人─震災で最大支援をしてくれた理由」を発表し、「日テレNEWS24」も台湾はなぜ親日家多い? 現地では―」として放映した。
「JBpress」誌に掲載された全文を下記に紹介するとともに、続けて「日テレNEWS24」の報道もご紹介したい。
鎌田氏が「JBpress」誌につづっている中に、とても印象的な記述がある。
<花蓮の先住民タロコ族の美しい女性が、紙にこう書いた。「為善不欲人知(ぎぜんふよくじんち)」。本当の善行は人に知られなくていい。>
これこそ、台湾の人々が大事にしている心性であり、台湾人の美徳をよく現わしているのではないだろうか。日本でも「陰徳」を積むことが美徳とされる。日台に通底する心だ。日本も台湾もスタンドプレイが嫌いなのだ。鎌田氏もこの「為善不欲人知」にいたく魅かれたようだ。
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鎌田實(かまた・みのる)
医師・作家、諏訪中央病院名誉院長。1948年東京生まれ、東京医科歯科大学医学部卒業。40年以上にわたり医師を続けながらチェルノブイリ、イラク、東日本大震災の被災地支援に取り組んでいる。2011年、日本放送協会文化賞受賞。長野県茅野市の縄文大使。近著に『〇に近い△を生きる』(ポプラ新書)、『1%の力』(河出書房新社)、『がまんしなくてもいい』(集英社文庫)などがある。
日本が好きな台湾人:震災で最大支援をしてくれた理由
統治時代の恨みはある、しかしそれを前向きに転換する「日本精神」
■ 南三陸病院・復興の力
2011年3月11日、東日本大震災が起きた。被災地支援を今も続けている。宮城県南三陸町にも何度か支援に入った。元気づけのための講演会も行った。震災当時、町には公立志津川病院があった。海岸沿いだったため、5階建ての建物の4階部分まで津波が押し寄せ、看護師、患者、合わせて74人が犠牲となった。
2015年12月、町の高台に新しく「南三陸病院」が建てられた。三県の被災地の中で、いち早く新病院が建ち上がったのだ。調べてみると、建設費約56億円のうち、約4割に当たる22億2000万円を台湾の中華民国紅十字会総会(台湾赤十字)が支出していた。台湾の方々からのこれほど多くの義援金が寄せられていることに驚いた。
そんな折、台湾の「遠見雑誌」から声がかかった。日本で言うと「日経ビジネス」のような経済誌である。31周年記念イベント「全国必修不老学国際シンポジウム」にメインスピーカーとして来てほしいという。さらに、台湾大王製紙からも講演を依頼された。ぼくがCM出演をしている介護オムツ「アテント」が台湾進出しているのだ。
8月初め、ぼくは台湾へ渡った。講演会は、台北大学など3か所で行われ、いずれの講演会場も人であふれた。ぼくの著書は5冊が中国語に訳されている。中でも、「1%の力」(河出書房新書)と、人気絵本作家の長谷川義史さんとコラボした震災の絵本「ほうれんそうはないています」(ポプラ社)は台湾でも好評だ。
■ 自分のことのように心が痛んだ
今回の台湾訪問の最大の目的は、なぜあれほど多額の震災支援をしてくれたのかを知ることだった。
台湾は、中国との複雑な関係があり、正式に国としては認められていない。人口的にみると日本の5分の1の小さな国である。なぜ200億円もの支援をしてくれたのか、不思議でならなかった。それを解明したくて、たくさんの方にお会いした。町の食堂で出会ったおじさんやおばさん、若者、国の要人、本省人(ほんしょうじん)、外省人(がいしょうじん)、たくさんの人の声を聞いて歩いた。
台北にはたくさんの公園があり、毎朝人々が集まって、太極拳をしたり、ダンスをしたり、体操をしたり、カラオケをしたり、自由な人間と人間の関係がつくられていた。その輪はとてもオープンである。日本の演歌に合わせて踊っている女性グループがあり、その中にただ1人、中年の男性が混じっていた。「なぜ女性の輪の中で踊っているのですか」と聞いた。
「リーダーが美人だから」と笑いながら答えてくれた。実にうまく溶け込んでいる。
「震災のとき、日本のことをどう思いましたか」と聞いた。なんと日本語で話し始めた。「津波のテレビを見て、自分のことのように、心が痛みました」。すぐに寄付を申し出てくれたという。
■ 90歳の老人が4万円も寄付
カラオケをしているおばあちゃんにも声をかけた。もうすぐ90歳だという。
「統治もされたが、日本はいいこともたくさん残してくれた。『徳を持って、恨みに報いる』。私達台湾人は、そう思っている。私は4万円ほど寄付をしました」
身なりから察しても、庶民の高齢者である。その方がこんなにもしてくれるのかと驚いた。
台湾赤十字の王清峰会長を訪ねた。ここでは、さらにとんでもないことが分かった。台湾赤十字からの寄付は、南三陸病院だけではなかった。
岩手県山田町、大槌町、宮城県気仙沼市、福島県相馬市、新地町などで、保育所、公営住宅、市民福祉会館、保健福祉センター、公営老人住宅など、地域が必要とするものを建設していたのである。
日本の保育園や小学校から届いた感謝の横断幕が飾られていた。
「台湾人は日本人のことが好きです。今回、被災地に支援を送ったのは、日台の友好関係が末永く続くことの象徴なのです。1999年に中部大地震が起こった時も、2009年に台風で大損失を起こした時も、日本はいち早く支援に入り、たくさんの救援をしてくれました」
台湾は、怨があっても恩で返す。恩はさらに大きな恩で返すのだ。何だか不思議な国である。
■ 過去を引きずらない
「1%的力量」の講演をした後、熱血中学教師、王政忠さんにお会いした。王さんは、スーパーティーチャー賞、パワーティーチャー賞、エクセレントティーチャー賞の三冠王、伝説の教師である。
現在は7000人を超える教師が彼の考えに賛同し、教員自主学習ムーブメントを巻き起こしている。彼も親から、「勉強するよりも、働け」と言われたという。ぼくと同じように苦学をした。王さんは「0.1mm」という本を出している。「0.1mm考え方を変えたり、生き方を変えれば、人生は大きく変わる」という。
「子供たちに日本のことを教育するとき、どんな考えで教育していますか」。彼に質問した。
「過去を引きずらないことが大切」と答えてくれた。
「1%」「0.1mm」感じ方が変われば、世界は変わる。
大王製紙主催の介護講演会の際、若い女性スタッフ20人ほどにも話を聞いた。
震災の時は心が痛んだ。ほとんどの台湾人が日本に支援をしたという。日本語を学ぶ若者も多いという。たくさんの人が一度は日本を訪れているという。小さな国で自然発生的に200憶以上ものお金が集まった理由が分かってきた。
■ 日本精神
昨年まで台湾の司法長官を務めていた法律家の頼浩敏(ライコウビン)氏によると、3.11の日本の震災への義援金は、国が音頭を取ったわけではなく、国民それぞれが自発的に行ったものだという。この人も流暢な日本語を話した。日本政府の留学奨学金を得て、東京大学法学部政治学研究科で勉強したという。ぼくの「1%の力」も読んでくれていた。
この人は、「リップンチェンシン」という言葉を何度も言った。「日本精神」という意味だという。誠実さや、あきらめない強い気持ちなど、かつて台湾にいた日本人から学んだのだという。各所でこの言葉を聞いた。
世界中旅してきたが、台湾は丸みがある。遠見雑誌の社長や編集長も女性。「女強人」、スーパーレディがたくさんいる。社会のリーダーになっている。そんな女強人たちにも日本の印象を聞いた。
「日本から学ぶことは多い」「だから今回もこうして、鎌田さんをメインスピーカーとしてお呼びした」
若者から高齢者まで、丸くて、明るくて、誠実で、それでいて一人ひとりが芯の強さを持っている。そんな人たちが、「日本が好き」と言ってくれた。
■ アジアの日本をもっと意識しよう
宜蘭県(ぎらんけん)を訪れ、五結(ごけつ)町長にお会いした。震災後すぐ、町長の一存で、町の役場に募金箱を置いた。
農村地帯である。田舎で農業をする人たちにとって、どのように義援金を送ったらいいのか分からない。誰でも簡単に支援できるよう、役場に募金箱を置いたところ、数日で200万円が集まったという。
宜蘭には、古くから日本人が造った砂糖工場やパルプ工場があり、今も一部使われている。戦時中日本人が住んでいた古い木造家屋も残っている。
ぼくが村役場へ行くと、村民の方たちが、集まってきた。「日本からお礼を言いに来ました」と言うと、嬉しそうだった。真っ黒に日焼けしたおじいちゃんが言った。「ほんのちょっと応援をすると、日本人は忘れない。それがいい」。
台北市に住む4世代家族の106歳のおばあちゃんにもお会いした。楊(よう)さん。日本語が話せる。
長男(81歳)は、元病院の検査室主任、孫(53歳)は放送局に勤務。ひ孫は日本語も学んでいるという。長男の嫁も日本語が話せる。家族に何人か日本語の話せる人がいる。
106歳の楊さんは、日本語で話すとご機嫌がいい。日本人が訪ねて来てくれただけでうれしいと言ってくれた。もちろん日本にも旅行したことがあるという。
■ 善いことは人に知られなくていい
あちこちで「謝謝」と言うと必ず、「ありがとう」が返ってきた。台湾と日本の関係は、今後日本がアジアの中でどう生きていったらいいのかを考えるのに役に立つ。
アジアにおける日本は、存在感を発揮し、良い関係を保っているとは、決して言えない。むしろどの国ともぎすぎすして、綱渡りの細い信頼関係が続いている。
もともと我々は、大陸からこの日本列島へやってきた。2000年も遡れば、アジアの人たちとは遠い遠い親戚みたいなものである。台湾とのような良い友好関係が、アジアだけでなく、世界へ広がっていけばいいと思う。
花蓮の先住民タロコ族の美しい女性が、紙にこう書いた。「為善不欲人知(ぎぜんふよくじんち)」。本当の善行は人に知られなくていい。
中国も、韓国も、台湾も、日本も、同じアジア。本当の善行をぼくたちがやり続けていけば、いつか雪解けがやってくる。政府は、時にはつばぜり合いをしなければならないかもしれないが、国民どうしは、本当の善行をし続けることが大事のように思う。
3.11の震災でぼくたちの国は傷ついたが、台湾だけでなく多くの国々から応援をもらった。大人の台湾とだけ分かり合えればいいとは言わず、アジアのすべての国々と良い関係を作っていくことが、貿易立国日本にとって大事なことだと思っている。
台湾はなぜ親日家多い? 現地では―
日本で災害が起こると、台湾から多額の支援がある。親日家が多いという台湾だが、その感情の背景には何があるのだろうか。諏訪中央病院・鎌田實名誉院長が解説する。
「(印象は)悪くないよ。(日本統治時代には)いじめられたこともあったけど、私たちの生活面とか面倒を見てくれた」――こう話すのは日本の統治時代には、日本人から差別を受けたこともあったという89歳の洪さん(女性)。しかし、東日本大震災の時には、1万台湾元、現在の為替レートでは約3万6千円の寄付をしたという。
寄付は都市部に住む人からだけではない。畑が広がる台湾北東部の町「五結郷」。人口4万人ほどにもかかわらず、日本への寄付の総額は94万台湾元(約340万円)にものぼった。鎌田氏がその理由を聞くと―
「台湾と日本は家族のように思うし、家族が災難にあったとき、心から痛みがあふれてきて(五結郷・簡松樹郷長)」「今の台湾があるのは、日本が当時(統治時代に)たくさん建設してくれたから、今の台湾がある。日本をすごく尊敬しています(陳さん・84歳)」
日本は統治時代、鉄道やダム、学校などのインフラを整備。今でもその時代に造られた建物などが数多く残されている。日本と台湾の交流に詳しく、去年まで台湾の最高司法機関のトップだった、頼浩敏さんはこう話す。
「日本と台湾は歴史的・地理的にも非常に緊密な関係がありまして、いざ日本が災難にあったとわかったら、直ちに感情的に反応を起こしますね」――日本と同様、地震の多い台湾。その苦労がわかるからこそ、日本に被害があれば、手を差し伸べるのは当たり前だと話す。
1999年9月に起きた台湾大地震では、マグニチュード7.7の地震によって2400人以上が命を落とした。この時の日本からの救助隊に対する感謝の思いも東日本大震災の支援につながったという。
台湾赤十字・王清峰会長「あの震災の時に日本からたくさんの支援がありました。今度は助ける側です」
こうした台湾からの支援によって建てられた病院がある。鎌田氏が震災1か月後に訪れていた志津川病院。津波にのみ込まれた病院は、震災から4年9か月後、南三陸病院として再開した。総工費約56億円のうち、4割にあたる約22億円が台湾赤十字からの寄付金だった。また支援の手は、病院の他にも災害公営住宅や保育所にも及んだ。
王さんが見せてくれたのは、日本から届いた数多くの手紙や感謝状。岩手県山田町の小学校から送られたという横断幕もあった。王さんは「子供たちに安心して学べる環境をつくるのも私たちの願いです。とてもうれしいです」と話す。
今回のポイントは「海を越えて支え合う心」。今回、お互いを思いやる心が日本と台湾をつないでいるということがわかった。いま、日本には台湾だけでなく、あらゆる国や地域からお客さんがたくさん来ている。台湾の人たちに対する気持ちと同じように僕たちは心を開いて外国の人を迎えたい。