共同通信の塩沢英一・台北支局長が「【特集】ザ・タイガースのピー、日中台で活動 教師からドラマーに」を執筆しています。著作権の関係で、途中まで引用掲載します。全文はこちらからご覧下さい。
【特集】ザ・タイガースのピー、日中台で活動
教師からドラマーに
1960年代後半にグループサウンズの頂点に立ったザ・タイガースの元メンバーで、「ピー」の愛称で人気を博したドラマーの瞳みのるさん(70)は人生の第3ステージとして日本、中国、台湾をまたぐ音楽活動を展開している。昨年の中国に続いて12月16日に台湾で初のコンサートを開く。音楽や当時の仲間と関係を断っていた瞳さんが交流を復活し、音楽の世界へ戻っていく人生の軌跡はドラマチックだ。
▽アイドル路線に反発
「10年後に会おう、君らはきっと乞食になっているだろう」。71年1月24日、日本武道館での解散コンサートを終えた後の送別会で瞳さんは仲間にこうたんかを切って別れた。家財道具一切を積んであったトラックでそのまま郷里の京都へ出発。その後、30年以上会うことはなかった。
ザ・タイガースは瞳さんを中核に生まれた。森本太郎さん(タロー)は瞳さんの小学校の同級生、岸部一徳さん(サリー)は中学校の同級生、加橋かつみさん(トッポ)は高校の同級生。4人でバンドを組んだ後、沢田研二さん(ジュリー)が最後にボーカルとして加わった。後に加橋さんの後釜として入った岸部四郎さんは一徳さんの弟だ。京都・大阪で「ファニーズ」として名をはせた後、上京。渡辺プロダクションから「ザ・タイガース」としてデビューし、大ブレークする。
だが瞳さんはプロダクションのアイドル路線や商業主義に反発があった。仲間同士も仕事に対する考え方の違いなどからけんかが絶えなかったようだ。70年安保闘争やベトナム反戦運動が盛り上がっていた時代だった。
瞳さんは作家の柴田錬三郎さん(故人)と知り合い、中国文学に引かれていく。進学を決意し、解散後に定時制高校に復学、翌年には慶応大文学部に入学。卒業後は慶応高校で漢文・中国語教師を33年間務めた。ほかのメンバーがいずれも歌手や俳優などとして芸能界で活動を続けたのとは対照的だった。
柴田さんや妻から、芸能界とは縁を切るよう言われていたこともあり、元メンバーとは一切接触しなかった。2人の子どもたちは高校を卒業するまで父親がザ・タイガースで活躍したことを知らなかったという。
仲間たちの間にどんなわだかまりがあったのか。それぞれに語り尽くせない思いがあるだろう。だが人生では時間が解決することもある。
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