呉建堂氏が巫永福氏ら同好の士11人とともに「台北短歌研究会」を1967年に創立してから、本年は50周年の節目の年を迎えた。蔡焜燦先生が代表の「台湾歌壇」は4月23日、台北市内の亜都麗緻大飯店に約100人が集って50周年大会の祝賀会を催した。

呉建堂氏の後、高阿香、王進益、鄭[土良]耀の各氏が代表に就き、「台北歌壇」を「台湾歌壇」に正名したのは2003年12月のことだった。名称正名と同時に、蔡焜燦先生は副代表に就任し、4年後の2007年12月、5代目代表に就かれた。

翌2008年12月、台南から許文龍氏を招いて創立40周年を盛大にお祝いした。2012年11月の秋の叙勲では鄭[土良]耀前代表が旭日双光章を受章し、2013年2月には台南で許文龍氏のお世話になって創立45周年をお祝いしている。

2014年4月の春の叙勲では蔡焜燦先生が旭日双光章を受章し、12月の日本台湾交流協会台北事務所が主催した天皇誕生日祝賀レセプションの席上、対日理解の増進に大きく貢献したとして感謝状を贈呈されている。

解散の危機に何度か見舞われた「台湾歌壇」はここ数年で会員が120名ほどにもなり、若い世代も増えた。毎月第4日曜日の歌会には沼田幹夫・日本台湾交流協会台北事務所代表など多くの方が訪問し、多いときには70人を超すこともあった。

このようにして迎えた創立50周年大会の祝賀会だった。創立50周年記念特集号と銘打った396ページにおよぶ『台湾歌壇』(第26集)で、蔡焜燦代表は巻頭言に「50年は気の遠くなるほどの歳月だ」と記し、「私たちは日本の伝統的な和歌を、その和歌の精神を、忘れる事無く、過酷な台湾の境遇に耐えつつも脈々と謳い続けてきました」とも記されている。

この記念特集号で「フォルモサの血ぞ」と題して発表された20首を拝読していただけに、胸を衝かれた。下記にその20首をご紹介したい。

ちなみに、蔡焜燦先生は毎月の台湾歌壇への投稿は、今年に入ってからは1首もなく、昨年の10月歌会に出された下記の歌をもって終わっている。

 晩秋のやさしき風に吹かれつつ生くる喜び鳩寿の翁

和歌には、その人の人生観が凝縮されていると常々思っている。鳩寿とは長寿を賀して贈られる鳩杖にちなみ90歳をお祝いすることで、なんとも穏やかな心持ちを詠われている。若いときは気が短かかったとよく言われていたが、ある高みに到達していた蔡先生の晩年の感じがよく現れているのではないだろうか。

この歌会への投稿歌より後の発表が「フォルモサの血ぞ」となる。祖国台湾を愛し、日本を愛された蔡焜燦先生の辞世の歌20首だ。


フォルモサの血ぞ  蔡焜燦(「台湾歌壇」代表)

(『台湾歌壇』第26集 2017年4月)

弟よ涙浮かべて「兄さん」と呼びし汝が顔永久に忘れじ

教へ子の訃報の届く曇り空せめて晴れてよ陽の照り賜れ

御祖より流れ継ぎ来しわが血潮漢にはあらずフォルモサの血ぞ

学び舎に祖国を思ふこども等よ意気高らかなる心の愛し

いざ子らよ嘘つき騙り唐人の悪しざま学ぶな潔き径ゆけ

中学の孫の詠みたる春の歌二人で喜ぶ国際電話

愛しき文読み終へ心の奮ひ立ち筆たぐりよせ喜びを詠む

わらべ歌友と歌ひしふるさとの畷(なはて)づたひの風清々し

わが母校我を育てし思ひ出の数々のこと忘れがたかり

あさみどり見渡す限り澄みわたる我がふるさとの海山愛し

蓬莱のわが同胞よ国民よ自力で戦へ子孫のために

若草山一気に駆くる汝を見つつわれも駆けたり軍事演習

敗戦の年の丹波の美山にて松茸採りしを思ひ出づ今も

京美山紅葉色映え山あひで炭を焼きし日六十五年前

京美山満山紅葉の山間の藁葺きの家ただに懐かし

日の本の若き防人健気にも原発修復に命厭はず

地震津波救済に励む自衛隊君らの誠は大和の誇り

災民に言葉を賜ふ大帝日の本の民幸せなるかな

同胞よ祖国を護るこの心起ちて示せよ世界の国に

五月雨にけぶる山々ながめつつ愛しき祖国のゆくすゑ思ふ