10月8日に開催した「蔡焜燦(さい・こんさん)先生を偲ぶ会」には、岩手、宮城、新潟、静岡、愛知、岐阜、京都、大阪、兵庫、広島、福岡、佐賀、長崎、そして台湾から、約200名の方々に駆けつけていただきました。遠路をものかわご参列いただきましたことに改めて御礼申し上げます。
お話しいただいた方は、開会と閉会の挨拶を入れて実に26名にも及びました。涙あり笑いありのとても感動的なお話ばかりで、在天の蔡先生にもお聞き届けいただいたものと思います。
ただ、限られた時間でしたのでお話しいただけなかった方もいて、実に残念な思いでいました。そのうちのお一人が、東葛(とうかつ)川柳会代表で全日本川柳協会常任幹事の江畑哲男(えばた・てつお)氏。
早速、ご自分のブログで偲ぶ会に参列した印象や蔡先生とのエピソードをつづられていましたので、下記にご紹介します。
江畑代表はブログの最後に蔡先生の和歌「生き死にはすべて佛に委ねたり今日この時の医師の真心」を紹介されています。この和歌は月刊『日本』主幹の南丘喜八郎(みなみおか・きはちろう)氏が蔡先生からいただいた直筆の2首の1首。もう1首は下記の和歌です。
君想ふ心に二つはなかりけり生死をさまようふ手術の際に
蔡先生は達筆でした。それを知っていただこうと、偲ぶ会では、多くの方の追悼文や追悼歌、蔡先生の遺稿や和歌などが収められた『蔡焜燦先生追悼集』とともに、この2首の複写版も記念品の一つとしてお配りしました。
ブログでは「蔡焜燦先生を偲ぶ会(10/8)」という見出しでしたが、掲載にあたり「最期まで、日本を愛し、台湾を愛した蔡焜燦先生」と改めたことをお断りします。
なお、偲ぶ会ではこの『蔡焜燦先生追悼集』を全員にお配りするとともに、ご寄付いただいた方に差し上げました。
つきましては、まだ手持ちの『蔡焜燦先生追悼集』がございますので、ご寄付いただいた方にお送りすべく、近々、本誌でご案内申し上げます。
この『蔡焜燦先生追悼集』(A5判、208ページ)は、台湾で開いた9月23日の「偲ぶ会」参加者のために「台湾歌壇」の三宅教子・前事務局長などが精魂込めてつくられた本ですので、ご寄付はすべて「台湾歌壇」にお贈りさせていただくことをご了承のほどお願いします。
【江畑哲男川柳Blog「蔡焜燦先生を偲ぶ会(10/8)」:2017年10月9日】
昨日(10/8)午後、都内のホテルで「蔡焜燦先生を偲ぶ会」が開催されました。小生も出席して参りました。
第1部は「偲ぶ会」
第2部は「清宴」、でした。
追悼の辞にはご高名な方々が次々と立たれ、ずっとずっとスピーチが続きました。10数人の先生方がお話しになったでしょうか。さまざまな思い出話を伺うことが出来ました。皆さん、それぞれ蔡焜燦先生のご遺徳に触れていたわけですが、その内容すべてが小生の勉強になりました。小生、ず〜っとメモを取りつづけておりました(笑)。
内容(と敬称)は割愛しますが、渡辺利夫、金美齢、門田隆将、阿川佐和子、藤井厳喜、黄文雄、……。
蔡先生はまさしく民間の外交大使でしたね。当日の記念品は、『蔡焜燦先生追悼集』(200数ページ、台湾歌壇運営委員会編)でしたが、タイトルに、「台湾よ、日本よ、永遠なれ!」という枕詞が付いておりました。最期まで、日本を愛し、台湾を愛した先生でした。
いつかのブログでも書きましたが、5月に台北で再会したのが最後になりました。
そう言えば、その講演の折り、「さねさし相模の小野の燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」の和歌を引用する際に、上の句だけ言いさして、下の句が出てきませんでした。「何だっけ? どなたか分かる人は?」と会場を見渡して、聴衆に聞いたのです。小生は思わず「火中に立ちて問ひし君はも」と助け船を出しました(=自慢、笑)。すると、聞こえなかったらしく「えっ、えっ」と耳を立てて聞き返す一幕がありました。超人的な記憶力を誇っておられた先生でしたが、もうその時はだいぶ弱っておられたのでしょう。それでも日本から来た私たちのために演壇に立たれたのです。
講演終了後、改めて「川柳の江畑です」と名乗ると、「おうおう」と先生は答えてくれました。再会の握手を交わすことが出来ました。今年の5月2日のことでした。
先生、有難うございました。お疲れさまでした。
心からご冥福をお祈りいたします。
「万葉の流れこの地に留めむと生命(いのち)の限り短歌(うた)詠みゆかむ」(呉建堂、「台北歌壇」創設者)
「生き死にはすべて佛に委ねたり今日この時の医師の真心」(蔡焜燦)