李登輝元総統訪日への提言

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2014年9月、大阪講演にて

李登輝元総統は総統退任後、2014年9月まで6回の訪日をされています。2001年4月、総統退任後初めての訪日と、2014年の訪日を比較してみると、さらにその意義は明瞭となります。

李登輝元総統は2001年4月、総統退任後初めて日本(大阪および岡山)を訪れました。総統在任中は「日本に迷惑をかけたくない」という心配りから、アジア・オープン・フォーラムやAPECの会議へは特使を派遣して出席せず、「総統をやめたら日本へ行きたい」というささやかな希望を漏らすに留められたのです。

しかし、総統退任後の李登輝氏に対しても外務省や親中派議員からは「たとえ退任しても影響力がある以上、ビザ発給は認められない」という反対の声が相次ぎ、政府内の対応も右往左往するものでした。北京の顔色を伺う親中派議員の「迷惑な話だ」という発言さえまかり通るほどだったのです。

最終的に森喜朗首相らがビザ発給を認めたにもかかわらず、河野洋平外相や槇田邦彦・アジア大洋州局長が頑強に抵抗し、特に槇田局長は「こんなことしていたら、北京の怒りを買って、日中関係はメチャクチャになる」などと恫喝めいた発言を繰り返しました。森首相が「退任した以上、民間人の訪日とみなしてビザを発給すべし」というリーダーシップを発揮したことで無事にビザが発給されましたが、このビザ発給には「人道的理由から心臓病治療のため」という理由が付けられており、また本会設立の契機ともなったのです。

二度目の訪日は2004年末から2005年正月にかけ、家族を伴って名古屋や京都、大阪をめぐる旅でした。しかし、この訪日においても、日本政府は「私人の観光旅行」に徹するという条件でビザを発給し、講演会、記者会見などを一切、認めませんでした。ビザ発給の条件として,1、記者会見しない、2、講演しない、3、政治家と会わない、という3つの条件が付けられ、東京は訪問しないという条件もあったと言われています。

このとき、中国の王毅駐日大使は「李登輝は中国を分裂する方向に狂奔している代表人物。その人物を日本に受け入れることは『一つの中国』政策に反する」と政府にビザ発給方針の再考を求める発言を繰り返しました。外務省(交流協会)職員が同行するという名目でスケジュールを完全に掌握し、随行記者団を警備陣で囲んで直接取材を遮断するなど、過剰ともいえる外務省の中国への配慮が見て取れました。

この二度目の訪日は3年8ヶ月ぶりでしたが、この間にも2002年11月、李元総統は慶應義塾大学「経済新人会」の招聘により、三田祭(慶大の学生祭)での講演会のために来日を予定していました。

しかし、最終的にビザは発給されず、訪日は頓挫し、三田祭の講演会は幻に終わりました。ビザが発給されなかった背景には数々の妨害工作や政府の媚中姿勢など、多くの問題点を浮き彫りにしたのです。結局、李元総統が三田祭で講演する予定だった「日本人の精神」の原稿は、産経新聞が入手して同年11月19日の朝刊に全文を掲載し大反響を巻き起こす結果となり、李元総統へのビザ発給を拒んだ日本政府や講演を妨害した慶大当局への非難はより一層高まったのです。

そして2007年5月30日から6月9日まで、李登輝元総統夫妻は孫娘の李坤儀さんらとともに、総統退任後3度目となる訪日を果たされました。この訪日は念願であった「奥の細道」を訪問するものでした。また、御兄上が祀られる靖国神社への参拝も果たし、これまで二度の訪日と比べれば、かなり自由度も上がり、日本政府の方針が大きく変わってきたことを示しています。

2005年11月、李元総統は翌年(2006年)5月の訪日を発表したことに対し、麻生太郎外務大臣は「李氏の入国は問題ない」との見解を表明します(2006年1月)。2月に入ると、政府としても5月来日を容認、しかも、入国条件を緩和し、政治家に会わないことは従来通りだったものの、講演は文化や歴史をテーマにしたものなら認める方針に転じました。とくに、東京訪問を認めたことは画期的なことだったのです。そして、3月に入ると、ビザの申請も必要ないことを表明するに至りました。

この2006年5月訪日は健康上の理由から、またその年9月の訪日も体調不良のため延期され、ようやく2007年5月に訪日が実現することになりますが、この6年の間に政府の方針は劇的と言えるほどに転換したことを示しています。

とくに2007年5月の訪日の意義をまとめてみれば次の7つとなるでしょう。

 1、ノービザでの初来日実現。
 2、東京訪問の実現。
 3、講演の実現。
 4、記者会見の実現。
 5、念願の「奥の細道」散策の実現。
 6、靖国神社初参拝の実現。
 7、中国政府の不干渉の実現。

さらに、翌2008年には沖縄を訪れます。この訪日では、日台両当局に訪問を事前通告して公的機関から公式な支援を受けた上、仲井眞弘多知事らと会食するなど、初めて公の場での政治家との面会も実現しました。これまで中国からの圧力で渡航、行動が制限され続けてきたものの、自由な日台往来に向け突破口を開いたかたちです。

そして2009年の訪日では再び東京を訪問し、日比谷公会堂で2000人の聴衆を前に講演。また、5回の訪日を通じ、初めて晩餐会を主催し、民主、自民両党の議員を含む関係者100人余りを集めたことは、行動への制限がかなり自由になってきたことを示すものです。

2014年9月には6年ぶりに訪日され、大阪、東京、そして初めてとなる北海道を訪れました。大阪では記者会見と1800人を集めた講演を行い、東京でも講演を行っています。その間、政治家とも面会しつつも、中国の顔色を伺う政治家側から突然キャンセルの連絡が入るなど、むしろ過度に中国へ阿る日本側の問題が浮き彫りになっています。

2001年から計6度の訪日を通じ、日本政府の対応はかなり改善されたといえるものの、外交や政治の面について、いまだに中国への過剰な配慮が見て取れます。

本会では今後も引き続き李登輝元総統の訪日をサポートしつつ、提言を行ってまいります。

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